ペーパー版「海峡」の新スタイル
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2017年 02月 23日

龍 應台著「台湾海峡1949」その1 byマサコ

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台湾海峡1949年 龍 應台 (ロン・インタイ)

龍 應台は、1952年台湾高雄の生まれ。
著作は、見開きにあるように

「時代に踏みつけにされ、汚され、傷つけられたすべての人に敬意をこめて」

続く詩の一部にあるように

 彼らの世代が戦争という重荷と、
 数え切れないほどの心の傷に耐え抜いてきたから、そして、
 かつて自らが倒れ、血で汚した場所を、
 もう一度耕し種を撒いたから、
 私たちの世代は平和の中、
 明るく無邪気に成長できたのだ。


戦争体験の世代は次代の子供たちに
戦争の恐ろしさを伝えることはできない。
それは親が「あなたと同じくらい重要な私の人生がある」
と子供に伝えたくとも、子は親に目もくれないからである。

海外生活の長い著者は、中国台湾の歴史のみならず、世界各地の史実を紹介している。
ノンフィクションにも関わらず文学的な香りは、
読者に、巨匠が撮影したフィルムのように、
ある時は戦場に現れる妖精のように、悲しすぎる史実を伝え続ける。

歴史小説でありながら立派な文学なのだ。
構成が一流建築のようであり、 細部に現れる細やかな表現は
読者の魂に忘れることのできない戦争の実態を染み込むように 伝える。

私はまだ第2章までしか読んでいない。
優秀すぎる作家の作品は小分けにして読まないと
体に収まりきらないし、早めに感想書かないと
取り返しがつかなくなる恐れがあるから。

読み出してすぐ 以下の文にノックアウトされた。

 私が19歳だった頃、両親なんてほとんど街路樹程度の存在だった。
 街路樹は道路の両側にあって道と街を守る。
 車に泥水を撥ねつけられ、空から降る塵を浴び続ける。
 実をつけたところで、風に吹かれて道に落ち、
 タイヤに潰されるか、ゴミ箱に捨てられるしかない。
 誰がそんな街路樹たちに興味を持ち、「これは何の樹?」などと訊くだろう。

〜〜〜〜〜〜

彼女もまた、父親の故郷を訪ねているような。。。。
目送1949、龍應台的探索




龍應台著「台湾海峡1949」天野健太郎訳 白水社刊

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# by grpspica | 2017-02-23 00:00 | 本の感想など | Comments(0)
2017年 02月 22日

愛国幼稚園でロボット化する子どもたち by mari

大阪に教育勅語を暗唱させる幼稚園があると聞いていたが、
現実は私の想像力を遥かに超えていた。
こういうものは映像を見ていただくのが一番解りやすい。
文字通り 一目瞭然だからだ。


https://www.youtube.com/watch?v=Wo_fxeRIER4
なんと教育勅語のみならず、五箇条の御誓文の暗唱や伊勢神宮への
参拝、軍歌の演奏・合唱まであると知って、ひっくり返りそうになった。

映像を見ていると、私などは気持ちが悪くなって、吐きそうになるくらいなのだが、
これを素晴らしいと評価する人々が居て、さらには
自分の子どもを入園させる親たちが居るのだから、すごい!

彼らは自分の子どもにどうなって欲しいのか?
言われたことには従順に従い、国に従い、いざという時には
特攻機に乗って戦死して欲しいのか?

そして、この塚本幼稚園が新設する小学校、瑞穂の國記念小學院(来年度開校予定)が、
今、土地取得に関する不透明さで国会でも 議題になっているところだが、
その小学校の名誉校長が、 安倍首相夫人の昭恵さんなのだから、
土地取得問題以外の側面でも 大いに関心が持たれるところだろう。
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かつて昭恵夫人は原発に反対したり、沖縄の基地問題に関心を持つなど、
夫や自民党の方針とは異なる独自の意見を持ち、「家庭内野党」とまで称されたこともあったが、今回の件ではちゃんと夫と一緒に右側通行していることが証明されたようだ。
さらに自身が名誉校長となった愛国小学校を持ち上げながら公立校批判までやってのけるに及んでは、さすが夫婦、と言うか、やっぱりね、と納得した次第である。



https://www.youtube.com/watch?v=XKaiweWAhKM

ちなみに、塚本幼稚園園長は日本会議の幹部だそうで、
保護者に 差別文章を配布したことでも問題になっている。
http://www.huffingtonpost.jp/2017/02/18/tsukamoto-nursery_n_14836626.html

いつも思うのだが、愛国とか国に誇りを持てだとか言う面々が往々にして
多民族を賤しめ差別するのはなぜだろう。
他者を落とさなければ自分が上がらないのだろうか。なんとセコいことだろう。
そんな卑しい心が美しいはずもなく、ましてや国の誇りだなどと胸を張るのは醜態でしかない。
むしろ世界に恥をさらすだけの、彼らが言うところの反日、国辱的行為だと思うのだが。

この件についての情報







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# by grpspica | 2017-02-22 14:14 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2017年 02月 22日

小林多喜二忌 byマサコ


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海峡paper版23号 アーカイブ

〜〜〜〜〜

薔薇をつめぱ 1996年2月22日

      陽春二三月     きさらぎ弥生春のさかり
      草与水同色     草と水との色はみどり
      撃条摘香花     枝をたわめて薔薇をつめぱ
      言是軟気息     うれしき人が息の香ぞする
                   (孟 珠)

私の好きな佐藤春夫の「車塵集」の中の、如月を歌った漢詩と春夫の名訳です。
ハイティーンの頃「2、3月にバラの花の咲く」というのが不思議で
「中国の南部にはそんな所もあるのかしら?」
と中国のバラをいろいろに想像していました。
「草与水同色」を「草と水との色はみどり」と訳す春夫の腕の確かさに
心がワクワクしませんか?
この7年、暖冬だった冬に草抜きに励んだ私は、草に触れ束ねる度に
この漢詩の香を包まれました。
いつまでたっても「うれしき人」がいない私は2月の大気に
その冷たさと光の配合で私の肌を刺激されて、姿なき恋人の息の香を実感。

また、如月、弥生を春のさかりと訳す春夫に共感を覚えます。
2月には、「梅見月」「木芽月」「初花月」「令月」と呼び方があります。
版画家の忌地孝四郎氏も2月が1番好きとのこと。
ファンは、意外と多いかもしれません。
私はこの詩の朗読を、
2月に「治安維持法」によって虐殺された小林多喜二さんに捧げます。

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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

カルト宗教

1996年 2月24日

オウム真理教に解散命令が出され、破防法が適用された。
でも本当に解散命令が出され、破防法が適用されるべきカルト集団は、天皇制である。
その天皇制は、昔「治安維持法」という法律を作って、天皇制の暗示かからず、
物事の本質を射抜くように見ることができた美しい心の持ち主たちを、
惨い殺し方で殺していった。
戦後51年、日本の子供たちは、かつて日本人がアジアの人々に流させた涙、
そして今も流させている涙と同じ涙を流して、苦しんでいる。
因果応報とは、このことだろうか。

不幸にもご自分の子供さん達が繊細であったが故に被害に遭われたご両親は涙を流す。
でも、この方たちですら、慰安婦、水俣病、カネミ油症、日本のODA事業、その他
一連の社会問題と自分の子供の不幸が大きく繋がっていることがピンと来ていない。


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コメント欄ではせっかくのリンクがクリックで飛べないので、ここに貼ります。
いろいろ読んでいただけると嬉しいです。

Commented by mariさん(mariさんのコメント)

戦中のこと、治安維持法のこと、そして小林多喜二のことを知らない若い人たちは、
wikipediaの記述だけでも良いので、読んでみて欲しいですね。




小林多喜二は三・一五事件を題材にした『一九二八年三月十五日』(発禁処分)で、
特高警察による拷問の様子を生々しく描写したことが特高の逆鱗に触れて、
後に逮捕された時に拷問で殺された、と言う説もありますね。

右の写真の一部に多喜二の無残な遺体の写真があります。
辛いけれども、しっかり拝見しました。

三木清は敗戦後一カ月も経った1945年9月26日に獄死しています。
日本政府は戦後政治犯を釈放しなければならないことさえ知らなかった。
これもまた酷過ぎる事例です。

いずれにしても戦争についてのきちんとした総括も反省もなく、
責任もひたすらずっと不十分なままにしてきた結果が、す。
今もこのありようなのでしょうね。




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# by grpspica | 2017-02-22 00:00 | 命・平和・人権 | Comments(3)
2017年 02月 21日

昭和20年8月15日夏の日記 by 山本みち子(53回生)

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戦争とわたしそして日ノ本web版シリーズ その3


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「昭和二十年八月一五日 夏の日記」(博文館新社1985昭和60年7月発行)

この本は、みち子さんのお姉様の富士さんからA.I.さんに贈られたものです。
このシリーズに日記の全文を転記することが、富士さんのさんのお気持ちに沿うものと考えます。(横書きおよび算用数字に変更)

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333~334頁

タイトル 「突然の玉音」

山本みち子さんについての説明文 抜粋
昭和5年生れ 当時15歳
昭和20年、父がなくなり姫路市で兄弟4人だけで暮らしていた。長姉は三菱電機の姫路工場、次姉は結婚を予定し 国民学校教師をやめたが 相手が戦死し、当時陸軍造兵廠に勤めていた。兄は川西航空機、そして末子の山本みち子は、ミッション系の日ノ本高等女学校3年生だった。

20年当時は、学徒動員で 大阪陸軍被服支廠で軍用靴の製造を 学業に代え続けていた。配給されたノートを「決戦生活誌」として、新聞の切り抜きを貼ったり、メモ代わりの日記帳として使っていた。

戦後は姉妹で、子供服を主体としてデザイン、刺繍などをして生活していたが、56年に病気で死亡した。

日記本文
        8月14日 火曜日 晴
朝から皮不足のため自習
9時半頃より空襲警報発令
空襲が発令されたので作業も出来ないし退避した。そして解除になるまで防空壕の中にゐた。12時前に解除され又1時過に空襲になった。それで又退避した。4時前に解除になった。今日一日学校へ退避しに来たと皆で笑った。
其の他の事項
明日は休業 パンの配給
敏速に身支度する 待避所

        8月15日 水曜日 晴
休日なり
私たちは休日を大変嬉しく思ってゐましたが正午突然玉音を拝しました。大東亜戦争帝国の栄光に終るの日、一億の民草歓呼のうちに拝承せんものとのみ思ひさだめてゐた玉の御声を今日民族悲涙のうちに聴き奉った。この玉音を耳にして1億国民泣かざるものがあったでせうか。
大詔厳かに渙発せられ大東亜戦争は遂にその目的を達し得ずして終結するのやむなきにいたつた。科学史上未曽有の残虐なる効力を有する原子爆弾とこれに続いて突如として起こったソ連の参戦とは、大東亜戦争を決定的な段階にまで追ひ込んで、帝国を焦土と化するか、また戦争終結の新たなる方式を考へるかの事態となつた。

        8月16日 木曜日 晴
学校へ行くと皆それぞれの話をしてゐた。
今日は私たちだけで誰も来てゐないので先生方も見えなかった。午前中話ばかりして午後すぐ帰った。私たちも動員されて千載一遇の光栄として毎日を務めて来ました。しかしもう学徒動員も解除となってしまひました。




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# by grpspica | 2017-02-21 11:52 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2017年 02月 20日

待っている春 by mari

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寒の戻り、三寒四温などと言いますが,
今日はまた 寒さが戻ってきて、空模様もどんよりとしています。
でも、こうやって行きつ戻りつしながら、春が近づいて来るのですね。

宅の周りにはほとんど土がありませんが、ごく僅かに ノミの額ほどの隙間に、
しかも日当たりも良くない地面があります。
そこに植えてあるのがピンクの八重椿と紫陽花。
どちらも「用意は出来てるよ」と待ち構えています。

今年は急に暖かくなる冬の日があったせいか、
八重椿は いつもよりもずいぶん早くに蕾を付けました。
それでもず~~~っと「時」が来るのを待っています。
紫陽花は花が終わるとほとんど枯れたような状態になりますが、
その枯れ枝はしっかりと生き続け、緑の芽を息吹いてくれました。
彼らの忍耐強さや生命力には、いまさらながら感心してしまいます。
こんな悪条件の扱いなのに、毎年花を咲かせてくれて、
心をなごませてくれることに感謝です。

この日記で思い出すのは、子供向け賛美歌バッド(下向き矢印)



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# by grpspica | 2017-02-20 00:00 | グループスピカ | Comments(0)
2017年 02月 18日

巻きずしとタクワン by I. A. (54A回生)

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戦争とわたしそして日ノ本 web版 シリーズ その2


はじめに
  私は1949(昭和24)年3月に日ノ本学園高等学校を卒業しました。その年卒業したのは、1944(昭和19)年入学の93名(54B)と1943(昭和18)年入学の13名(54A)です。54Aの私たちは一緒に入学した53回生と共に1948(昭和23)年に高等女学校を卒業、さらに1年勉強をして、日ノ本学園高等学校の最初の卒業生となったのです。
 
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等女学校の証書は、書道の信沢虎一先生が
   1枚1枚全部毛筆でお書きになったもの 番号は1205番
 等学校の証書の本分は印刷 番号は2番
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  2013年に、同窓会が戦争の記録を集めているということを知ったとき忘れかけていたいろいろなことを改めて思い出しました。 
  今日生きていた人が次の日に病気でもないのに突然いなくなる、今日あった家が次の日には住むこともできない、食べ物もない、あの時の悲惨な思いを今の若い人たちに耐えられるだろうか。当時の私たちとはあまりにも異なりすぎていると思います。想像だけの思いなんて通じない。よくも耐えたものっだと思う。
しかしこの経験をした人たちも多くはあの世への旅立った。あの世でどんな話をしているだろう。

入学試験

  日ノ本高等女学校に入学したのは、1943(昭和18)年4月、前期募集70名、後期募集30名の後期入学です。
  2日間の入学試験では、算術、国語、修身、理科の4科目は口答試問だけ、体操は実技だけでした。最後に波岡三郎校長先生の面接がありました。「試験はよくできましたか」とお聞き下さいましたが、頭の中が何かで一杯で、出来たとか出来ないとか考える余裕もなく、口答が苦手な私は、「いいえ出来てないと思います」と答えました。その時は「それは困りましたネ」と言われたことを覚えています。
それが波岡先生に初めてお目にかかった日です。すっかり落ち込み、帰り道では、どうして筆記試験でないのだろうとそればかり考えていました。


学生生活と戦争

  幸いに合格し、日ノ本での一歩がはじまりました。毎日の礼拝は、私にとって新しい経験となりましたが、これといった思いもなく日を送っていました。
  東(ひがし)小学校にいたときから、「奉安殿」が運動場の端にあり、日ノ本には校門をはいったすぐ左にありました。小学生の時から、奉安殿の前では止まってお辞儀をするよう指導されており、何の不思議も感じないで、お辞儀を続けていました。なお東小学校は国道を挟んで日ノ本の南側にありました。

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奉安殿があったのは正門を入って左手すぐ
(写真で見る日ノ本学園の100年 より)


  2年生になった1944(昭和19)年、波岡先生のお姿が、学校からみえなくなりました。何が何だか、誰も説明して下さる事もなく、聞いてはいけないように思う日々が過ぎました。校長先生のお話は、誰も大きな声ではしませんでした。生徒同士でコッソリ、戦争反対者ということで、何処かへ行かれたと耳にしましたので余計に大きな声では何も聞けませんでした。
  また校門を出て家に帰ろうとフト後を見ますと憲兵が2人ついて来た事、私だけではなかったようです。いつも外に出ると見張られていたのでしょうか。一体何の為でしょうか。

  戦争もはげしくなり、上級生はみな女子挺身隊でいなくなり、私達2年生は学校の雨天体操場で、陸軍被服省の皮革仕事をする事になりました。授業はまったくなく、自宅から作業場に直行し、朝から夕方まで、雨天体操場で働きました。仕事内容は牛の裏皮に赤鉛筆で軍靴の形をとることで、皮の部位によって厚さが違うので、求められる部位を皮の厚さに合わせて型どるのです。女性の検査担当者が5人位と軍服姿の男性が1人いました。
  挺身隊に動員された時期についてですが、2年生の担任は中道先生で、その授業を受けた記憶があることと、50歳で鉄道省を退職した父が、父兄会で先生に「(娘を)歯医者にしたいのですが、通りますかね、と先生に話してきた」と嬉しそうに言っていたことがあります。父兄会は2学期ではなかったかと思いますので、9月ころまでは学校があった後ではないでしょうか?
  1945(昭和20)年に入って警戒警報(ウーと長い音)が鳴ってから空襲警報(切れ切れの音)が鳴り、B29が10~12機くらいで編隊を組んで飛んで来たり帰ったりするのを何回も見ました。
  校庭には幾列もの防空壕が掘られ、警報が鳴る度に入ったのですが、1学年100名程といっても、学校にいる生徒全員がその中に入れなかった事もありました。そのときは職員室の前にあった先生方の壕に入れて頂いたのですが、ギュウギュウ詰めでした。

  ある日(というのは、1945昭和20年6月22日のことですが)、警戒警報が鳴ったと思ったらいきなり空襲があり、日ノ本の校庭にも爆弾の破片が幾つも飛んで来ました。空襲が済み、外に出た時、爆弾の破片が壕の反対側にありました。「もし入口が反対だったら私達死んでいたかも」と話し合いました。
  帰り道では、丁度阪神淡路大震災の後のような状況を目にしました。学校から歩いて10分位のところにあった我が家も、見事に吹き飛ばされて、柱と壁、そして屋根の一部が残っていました。塀はなく家の中がまる見えでした。家には誰もいません。近所の方に家族の行方を尋ね行く途中、川の中に死体や、片腕や足が浮いているのを見ました。その時はもう必死で何を考えたかも思い出されません。

  これが、空襲の現実です。私の家から10m位の所に爆弾が落ち、お向い、そしてそのお向いと、お友達のご両親が亡くなられたり、ご家族が亡くなられたり、思い出したくない事です。でも記録しておかないと事実が伝わらないのですから、話しましょう。
  お向かいに住んでおられたお友達のお父様は、この日、体調が悪くて家におられ、爆弾がドンドンと落ちてくる音がしたので、お母様がお父様を抱きかかえて防空壕に急がれたそうです。そして次に落ちた爆弾の破片が、お父様の腹部を真横に切った、と後日聞きました。「私の目の前で腸が下に落ちたんですよ」と私の母に話されました。
 そんなことがあっても翌日からも私達は皮革の仕事を続けていました。
  なお川西航空機が動員先であった県立女学校の生徒さんは、この爆撃で命を失った方のあることを後に知りました。

  8月15日終戦です。その日は何故か、叔母の家にいた私は、叔母夫婦とその家族や疎開してきた人たちの合計15人の方々と一緒に放送を聞きました。放送内容はよく分かりませんでしたが、叔父たちが泣いたのです。私と従姉妹はなんのことかわからなくて 「くしゅくしゅ」と笑って叱られたのを覚えています。雨天体操場での型取り仕事はなくなり、夏休みだからと学校はお休みになりました。

波岡三郎先生のこと

  9月1日新学期が始まりました。新しく東京の学習院より太田順治校長先生が来られていて、その時始めて私達は波岡校長先生が、戦争反対者として拘留された事、そして女の子を戦争に加担させられないと挺身隊に反対された事を伺いました。

  校長先生として再び波岡先生が学校に来られた日、とても色白になられ、少々おやせになっていた事を思いだします。でも、にこやかに何もなかったように話しかけてくださいました。ご自身の事については何もおっしゃいませんでした。又誰もお聞きしませんでした。聞けなかったのです。心が痛むようで。

  淋しい事ばかりですので、気持ちを変え、最後に特に楽しく思い出します事を公開いたしましょう。
  高等女学校の卒業式の翌日、謝恩会で6~7人のグループで先生方にお料理を差し上げることになりました。物が充分にない時でしたが、みなで持ち寄って、私達のグループは巻きずしを作ることになりました。その時、私達のテーブルには校長の波岡三郎先生がお座り下さると聞き、誰かが「タクワンを持ってくるわ」と言いました。あの黄色いタクワンです。巻きずしとタクワンとは不思議でしょうが、何時か遠い日、波岡先生が「家にはタクワンがないのですヨ、一度食べてみたいものです」と言われた事を覚えていたのです。そのとき皆が「先生のお宅にはピクルスはあってもタクワンは見当たらなかったのでしょうネ」と言い合いました。
  さてタクワンを御覧になった時の波岡先生のお顔、その時とても不思議そうにそして美味しそうに、ニコニコと召し上がられた事、今も忘れられません。

  御自分の身を挺して、私達を守り続けて下さった事を私達は忘れてはならないと思います。でも国の方針にさからうことが出来ない現実が戦争だったのです。
  日ノ本時代を振り返り、私は校長先生をこんなにも身近に思い出される学校であったことに一層の幸せを感じます。

問と答
Q:同窓会が体験記を集めていることで、友人に電話なさったそうですが……?
A:7人に電話しましたが、話しができたのはひとりだけで、その方は、こんなこと  を言われました。
「満州から引き揚げて来た時、流れの険しい橋のない川を超えることになり、知らない大人がふたり、両腕を支えて向こう岸まで連れていき、私を岸に押し上げてくれたのです。でも私が後ろを振り向いたときに、そのおふたりは流れに飲まれて流されていきました。外にも辛い経験がたくさんあって、それを書くことはできません。今やっと心落ち着いた毎日を送っています。忘れかけていますのに、思い出させないで…」
と、涙ぐんでおられるようでした。

Q:その言葉を聞いてどのように思われましたか?
A:顔には出さなくとも、戦争を経験した者だけの思い、今も尚、重く引きずっているのですね。その傷口に触れることは難しいと思いました。
でも最後にひとこと、「日ノ本は良かったわネ。穏やかで皆が優しくて、思いやりがあって…、お人柄を感じる日々だった」と、日ノ本のことはしみじみ思い出して下さいました。人間嫌な事よりたのしかった事、嬉しかった事はよく覚えているものと思います。

Q:同期の塩山栄子からお聞きになったこともありますね。
A:塩山さんは最近亡くなりましたが、満州からの引き揚げのとき、15歳の少女たちひとりひとりに手榴弾が渡され、「何かのときにはそれで自決するように」と言われたとのことでした。


***** その1 書評 by 前野育三 


香保の1口メモ
★本シリーズで参考としあるいは引用する書籍の主なもの

右:日ノ本75年史 日ノ本学園 昭和43年5月3日発行
中:写真で見る日ノ本学園の100年 学校法人日ノ本学園1993年11月2日発行
左:同窓会名簿 日ノ本学園同窓会平成5年11月2日発行
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★信沢虎一先生:書道、昭和22年11月~昭和43年6月

★昨日(2017年2月17日)卒業した122回生の最後の番号は学校に聞いて調べます。
神戸新聞の記者さんに尋ねられたときには、答えられなかったけれど
名簿と照らし合わせればこれまでの卒業生の数が判明します。




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# by grpspica | 2017-02-18 18:00 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2017年 02月 18日

トホホな喉 by mari

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悲しいかな、私は酢を使った料理が苦手だ。

なぜ「悲しい」かと言えば、味は嫌いではないからである。

もずく、餃子、酢豚、ピクルス、なます、焼そば、ところてん…。

ああ、どれも美味しいではないか。
ああ、思いっきり食べてみたい!

もちろん食べられる。が、ほぼ確実に、「お騒がせ場面」が付き物となる。
ひとたび酢が私の喉を通過すると、どうしてもむせてしまうのだ。
お寿司の酢飯でも、酢が多めに入っている時には
口を押さえたり、場合によってはWCに駆け込んだことも。。。
そうでないと、食卓の風景がえらいことになる。(-_-;

いっそ嫌いだったらば、まだ諦めもつくものを、
嫌いじゃないからこそ、自分の喉が恨めしい。

そもそも気管支と食道の入り口を操作する弁が、
私のそれは、たいそう不器用なようだ。
水を飲んでさえも、間違えて気管支に紛れ込むことがある。
これがまた、結構苦しい…。

母と食事をしている時に私がむせると、母は必ず言う。
「おじいちゃんに似たのよ。私もよくむせるもの」。
母はかつて、あまりにもむせて、彼女曰く
「窒息死しそうになった」ことがあるそうだ。

3代に渡る「むせる体質」の遺伝?
そんなのあるのか???

とにかく、トホホな喉である。



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# by grpspica | 2017-02-18 00:00 | グループスピカ | Comments(0)
2017年 02月 17日

ウ・ミンイー(呉 明益)連作短編集第3話「石獅子は覚えている」 byマサコ

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ウ・ミンイーは
「君に賛成してもらえるかどうかわからないけれど、人類の文明において、錠と鍵が生まれた意義はとてつもなく大きい」(p47)
と短編を始めた。

息を飲むような「錠」と「鍵」の歴史が、細工物が美術館に陳列されるように続く。

本作品は主人公の「ホラぞう」なる従兄弟が、石獅子にいたずらをして災難を呼ぶ。
ホラぞうの英雄譚の一つである「踏切ダッシュ」は後続短編の中に再び悲劇となって現れる。
しかしテーマは鍵である。
魔術師の登場で、再び鍵が物語の主役となる。

主人公の父親は鍵屋。みっちり鍵の話が聞ける。

「鍵」といえば、谷崎潤一郎の代表作の一つ。
夫婦の日記が小説の形態をなしている。
主人の日記はカタカナ。夫人の日記はひらがな。
この対比がすごい。
あたかも谷崎が「男性の日記はくだらないから読まなくていい」と言っているようだ。
カタカナの「コト」の文字を避けるために、記号として縦書きの鍵カッコを長くしている。
これは谷崎が鍵を暗示して使ったのではないか?
他にどんな解釈があるのかなぁ?

「鍵」はセックスのシンボル。
ウ・ミンイーはそのことをいう。
『「鍵と錠のあいだには感情がある。何度も開けていくうちに、少しずつ心が通っていく」ならば、僕が作った鍵はテストさえしていない、いわば「生(き)」のままの鍵ということになる。スムーズに開けられる鍵は、つまり、錠前とはもうすっかり「馴染み」というわけだ。』(p64)

谷崎が生きていたらウ・ミンイーの才能に舌を巻くと思う。
ウ・ミンイーの魂はあまりにも軽く、そして貴い。




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# by grpspica | 2017-02-17 09:45 | 本の感想など | Comments(0)
2017年 02月 16日

黄色いチューリップ  by mari

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黄色いチューリップをいただきました。

なんだか一気に春になったような気分です。

それにしても2月にもうチューリップがあると いうこと自体がすごいと言うか、
嬉しいような、 ちょっと悲しいような。。。

このごろは花でも野菜でも本来の季節を超越して、ほとんどいつでもお目にかかれるわけですが、
それって便利でステキなことではあるけれども、なんだか季節感がなくなってしまって、ふと
寂しさも覚えます。
いいんでしょうかねぇ。。こういう便利さばかりを求めて行くことに、私は少々抵抗感があります。

風が柔らかく、ほのかに温まってきて、空気にそこはかとない甘さが加わり、コートを脱いで、
厚手のセーターから薄手のニットになって、そんな頃に、チューリップが咲くのを「待つ」。
この「待つ」って、実は大切なのかもしれないと思うのですよね。

一年中冬の国もあります。
一年中真夏の国もある。
花など望めない土地だってあります。
その点、日本は四季があり、四季折々の自然が 豊かに恵まれていて、
先人たちは、その四季の移り変わりをありのままに受け入れて、
自然の変身を楽しんで来たのではないでしょうか。

いつでも、どこでも、何でもあり。
それは心の滋養にとっては、強欲過ぎる、実は危険なことなのかもしれません。

可憐な黄色いチューリップ。
でも、どこかに、無理やり人工的に咲かされたような悲しさが見えてしまうのは、
考えすぎでしょうか?



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# by grpspica | 2017-02-16 00:00 | グループスピカ | Comments(0)
2017年 02月 15日

パラグアイのユースオーケストラ byマサコ

ごみをリサイクルした楽器で演奏、パラグアイのユースオーケストラ
 'Recycled Orchestra' turns garbage into gold




アスシオン•パラグアイ 人口200万。
そこらか南にカテウラと呼ばれるゴミ処分場がある。
ゴミの中で生まれ育ち、顧みられる事のなかった子供たちに
音楽を教える男性が現れた。
ファビオ・チャペスが「ダンチェラ」と呼ばれる人々の暮らしを見つめ、
夢を追う権利もない子供たちが、チャペスの音楽指導を受ける。
このドキュメンタリーを見ようと思ったのは、
一つも心を打たない文明国人の音楽演奏にウンザリしたから。

北国でなく南国だから開放的な面もあると思う。
グレン・グールド音楽賞を受けて欲しいグループを知る事が出来て嬉しかった。


Teaser of the upcoming documentary film "Landfill Harmonic"



ゴミで楽器をつくるなんて。オーケストラ オブ カテオラ





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# by grpspica | 2017-02-15 19:34 | 音楽・哲学・宗教 | Comments(0)
2017年 02月 15日

柳本通彦著「台湾・霧社に生きる」  byマサコ

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歴史に起きる事件は、書物になると読みにくいものである。
本書はそうした心配が全くなく、
心細やかな著者による行き届いたルポルタージュが、繰り広げられる。

全部で4章からなるパートは、それぞれ特色を持ちつつ独立している。
どの章から読み出しても、霧社事件の全容と蜂起した民族のその後の人生が
目の前で繰り広げられていく。
ただでさえ蔑視をしているアジアの台湾で昭和5年に起こった少数民族の反日蜂起は、
日本国内で頻発していた多民族への虐待と同様どこにでもある史実なのかもしれない。
しかし注意を払って正確に知ろうとすると大変な困難な作業だが、
著者は誠実に伝えてくださった。

そのまろやかで心を砕いた様子が、どす黒い日本人の過去の罪を知るだけではなく、
透明な世界に導かれるのを感じずにはいられなかった。

台湾に惹かれる日本人はもともと台湾人の気質に似た人たちなのかもしれない。

いつか台湾に慰霊の旅に出る旅案内の本をいただけて感謝である。


「台湾・霧社に生きる」  柳本通彦著 現代書館



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# by grpspica | 2017-02-15 00:00 | 本の感想など | Comments(0)
2017年 02月 14日

私の死生観 byマサコ

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ウ・ミンイー(呉 明益)の「九十九階」における死生観は、 ちょっと怖い。
私の死生観はゆったりと横になり、土に還り木の根っこ花の匂いに近づくイメージだからだ。

とかく上に上がると、皆が上に上がって天国に行こうとしているのか
混雑が予想され押し合いへし合いなるのが嫌だ。
また天国なるところが本当に良いところなのかも、はっきりしていない。

確実に言えることは、この地上で一緒にいると嬉しい人といる時幸せだったから、
あの世でも似たような人といれば幸せなのだと思う。

特に音楽をイメージすればアルトゥール・シュナーベルの世界に行ければいいと思う。
私は彼の演奏したバッハのトッカータ集二長調とハ短調が
大好きでこれ以上の演奏はないのではないかと思っている。

それを目指せば、必ずや美しい空気と水と 素晴らしい心に出会える気がしている。



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# by grpspica | 2017-02-14 00:00 | 本の感想など | Comments(0)
2017年 02月 13日

たった4日間の恋 by mari

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数日前に、なにげにいくつかのコミュに参加した。
例によって、特に理由はなく、なんとな~~く、
自分の好きな対象を見つけては、「お! あるじゃん!」などという具合に。。
案の定、どこにもまだご挨拶にさえ参じておらず、
うむ、 無礼な奴じゃ、アタシって。(-_-;

中でも、フランコ・ゼフィレッリとニキータ・ミハルコフの コミュがあったのは嬉しかった!(^.^)
これでも、実は、私はかなりの映画好き。
で、この二人は、最も好きな映画監督のうち、5本の指の中に入る方々。

ゼフィレッリと言えば、まずは『ロミオとジュリエット』 (1968年)だろう。
今から考えると不思議なのだが、それまでにも何度か映画化 されていながら、
主役のロミオとジュリエットを演じる俳優 諸氏の年齢は
原作のシェイクスピアの設定からは遠く離れた 年上の美男・美女ばかりで、
中には40代のロミオ様もいたと思う。
まぁ、シェイクスピアものは「演技力」が必要、との配慮もあったのかもしれないが。。

その壁をぶち壊した、と言うか、シェイクスピアの意図に沿おうとしたのがゼフィレッリ様なのであった。
撮影当時、ロミオのレナード・ホワイティングは17歳、ジュリエットのオリビア・ハッセーは16歳。
つまり、これはミドルティーンの恋なのだ。

若者の恋はせっかちである。恋をしたら突っ走る。
ロミオとジュリエットが一目惚れをして、悲しい結末を迎えるまでには、たったの4日間しかなかったのだ!

同じミドルティーンの頃にこの映画を観た時には、私はそんなことにはちっとも気がつかなかった。
もちろん、感動して涙したけれども、それは、可愛そうな二人、いがみ合うことの空しさと犠牲…。
そのくらいの感慨だったろう。
あ、そうそう、オリビア・ハッセーの幼い美貌にも
「なんと可愛くも美しい人がいることよ!」と感嘆したのも正直に付け加えておきましょ。(^^;

この映画を何度か観るうちに、もう一つ新たに気がついたことがあった。
それは、男の子というものは、まったく、どうしようもなく
競い合いやケンカをしないではいられない生き物らしい、と言うことだ。
ロミオは愛するジュリエットと出会った翌日に秘密裏に結婚し(すごいせっかち!)、
その結婚式から帰る足で、 もう、対立する両家のいざこざに巻き込まれて、
剣を抜く はめになる。あ~あ、ここでそんなことをしなければ、
いずれ幸せな未来が待っていたかもしれないのに…。

こうして、いがみ合い、憎しみ合い、ましてや殺し殺されの
対立がどんなに愚かなことかを、シェイクスピアは遥か昔に忠告したわけだが、
その忠告はいまだに活かされていない ようである。まったく、人間とは懲りない生き物である。

ゼフィレッリ監督の作品は、どれもが「愛」に満ちていて、この監督の人柄をしのばせる。
その秘密は、自伝的映画『ムッソリーニとお茶を』を観ると分かることだろう。

その他にも、『ブラザー・サン、シスター・ムーン』、『ナザレのイエス』、
『永遠のマリア・カラス』などが 素晴らしい!
ちなみに、この監督は映画よりも、むしろオペラ舞台で有名な 才人である。


▼写真は『ロミオとジュリエット』、『ナザレのイエス』
より、オリビア・ハッセー様をフューチャーしてみました(^.^)

▼興味のある方は、以下のサイトもどうぞ。
サイト・オーナーさんはゼフィレッリ監督にご対面を果たした
程のファン。あ、ロシア語ですけど。。(^^;




http://www.romeo-juliet.newmail.ru/dseffirelli.html

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# by grpspica | 2017-02-13 00:14 | 映画・ドラマ | Comments(0)
2017年 02月 11日

続:アントニオ・ロペス展 by mari

mari日記の続編です。

〜〜〜〜〜〜〜

なぜか引っ張ります。
わーい(嬉しい顔)

アントニオ・ロペス展、個人的には油彩の大作よりも小品や素描に魅惑されましたので、何点かご紹介。例によって、え――加減で勝手なコメント付きです。わーい(嬉しい顔)


フォト フォト
グッド(上向き矢印)油彩画『夕食』(左)のための素描(右)。描写と構図を厳密に定めたいためか、トレースした紙を張り合わせているようです。


フォト
グッド(上向き矢印)素描の部分のアップ。小声で言いますが、どうでしょう、この完成度exclamation娘マリアの顔の表情と言い、手の語りかけと言い、素晴らしいじゃぁあ~~りませんか。チャペル
ロペスご本人も素描は独立した作品だ、とおっしゃっているようなので、遠慮なく言えば、この場合はことさらに油彩と素描は別の作品と考えるのが、むしろ順当と思えます。
油彩画の制作には7年間もかけているのですから、娘も幼女から少女に成長しているはずですし、スープが冷めているのは言うまでもありませんから。っつーーーのは冗談ですが。わーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)


フォト フォト
グッド(上向き矢印)『マリアの肖像』(1972年)

ロペスの次女マリアのポートレート。顔や背景はさらっと描かれていますが、コートの描写が凄いのです。実に暖かそうな柔らかそうな着心地の良さそうな質感が伝わってくるのです。思わず鼻がくっ付きそうになるくらいの至近距離で見つめてしまいました。
で、さらっと描いたにしても、マリアの顔の表情も素晴らしいので、ドアップでどうぞ(右)。


フォト フォト
グッド(上向き矢印)(左)『アヴィラの薔薇』(2011年)
白い背景から浮き出た白い薔薇、透き通った花瓶の水に咲く至純の美。何も言うことはありませんね。

 (右)『コップに差した花と壁』(1965年)
画面を2分して、それぞれを写実的に描写した作品。どーーしてこうなるの? と尋ねてはいけません(たぶん)。感じるのです、何かを。


フォト フォト
(左)『赤い薔薇』(2007年)

赤も魅力的。途中で描くのを止めているのがむしろ効果的で、ラフな描写が生き生きとしています。
(右)『かぼちゃ』
その対極にあるのが、この素描。徹底的に、細部に至るまで、正確に、すべてを余すところなく描写すべく対象に迫っています。鬼気迫って来るようで、ちょっと怖いです~~~。ふらふら


フォト
グッド(上向き矢印)『Membrillos, granadas y cabeza de conejo』( 2011年)

近作なので追加しました。ええっとたぶん『マルメロの実と兎の頭』みたいな邦題だったと思います。(ほんとに、もう、えーーーかげんで、すみませんあせあせ
右下にある兎の頭にウゲッとなりつつ、いえいえ、物言わぬ彼らに見つめられるべき人間である自分を思うひとときでした。






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# by grpspica | 2017-02-11 12:00 | グループスピカ | Comments(0)
2017年 02月 11日

不思議なリアリズム:アントニオ・ロペス展 by mari

最近よく転載させていただくmariさんの古い日記から、素敵な展覧会のお話をいただきました。

~~~~~~~~~~
2013年6月

V.さんが日記で紹介していらっしゃったアントニオ・ロペス展へ行ってまいりました。

「現代スペイン・リアリズムの巨匠」とのこと。
このコピーで精緻な写実的な作品群を思い描くと、あら?、っとずっこけますので(いい意味で)、「リアルな絵なんて写真みたいでつまんないよねーー」と思っているあなたにもお勧めです。(今月16日まで、渋谷bunkamuraザ・ミュージアムにて開催中)

かく言う不肖あちくしも、堅い頭で参ったようで、「なんでここで描くのやめるのーー?、もうちょいで完成するじゃん」だとか「遠方が細密で近くが手抜きなんて逆だべ」だとか不埒なことを呟きながら観ておりましたが、今となってみれば、トニー(アントニオの愛称ね、なれなれしく呼ぶな!)にしてやられたことを悟るわけですよね。

つまり、アントニオ・ロペスの作品は、融通の効かない堅頭で判断すればほとんどが「未完成」と思しきものなのですが、それが事実として未完成なのか、完成しているのかは本人のみぞ知る、で、なぜならばひとつの理由としては、この人の制作年月の長さは半端ではなく10年に及ぶ作品などはざらで、中には20年も描き続けているものもあるそうで、こうなると、完成させたくないんじゃない? 描いてる時が一番楽しいもんね~症候群なんじゃないかと憶測するんですが、決してそういうことでは(そういうことだけでは)ないらしく、この人が描きたいのは限定された一瞬ではない、ということ。そして、もうひとつは、ありていに言えば、未完に観えるのも完成のうち、と言いますか、どーーしてそこでやめるか、も、なぜそこを描かないか、も「それ、狙ってた?」かもしれない結果なのだ、ということがこの人のこの人たるゆえん、個性、偉大さ、希代さ、大胆さ、こだわり、大らかさなのでありましょう。

同時に、この日観た作品は、この日までのプロセスであって、今後また手を加えられる可能性もある(ロペスが健在な限り)スリルも孕んでいるわけです。

ちょっと具体的に観てみますと・・・。

フォト フォト
グッド(上向き矢印)(左)『グラン・ピア』(1974~81年・板に油彩)。
大胆な遠近法を駆使して描かれた代表作。ロペスは7年間、夏の朝、同じ時刻に通って、光が変わらない時のみ20分間、描き続けたと言います。人気(ひとけ)のない早朝の交差点のひんやりした空気が漂っていますね。奥の遠方には清々しい朝日を浴びた建物が見えます。右がその描き始め、1974年の制作中のロペス。
素晴らしい! 風景画はこの調子で行こう! とはならなかったのが、他の作品を観ると判ります。

フォト フォト
グッド(上向き矢印)(左)『トーレス・ブランカスからのマドリード』(1974~82年)
 (右)『バリューカスの消防署の塔から見たマドリード』(1990-2006年)
カンバスではなく板に油彩で描くことによる効果(光沢が少なく、絵具が沁みこむ板と一致するような画面)が抑えた色彩と合いまって、独特の雰囲気を生んでいます。
空にも建物にも地面にも太陽に焼かれたような赤茶色が配され、コントラストの強い光と影がスペインの風土を伝えます。
大きな画面にはいくつもの板を継ぎ合わせてあり、その継ぎ目が顕著ですが、作家は気にしません。画法の下描きが消されずに残っていても、構わないようです。

写真ではすべてが緻密に描かれているように見えますが、ある部分は気が遠くなるような細密さで描写されていながら、手前の目立つ位置に描き足りない個所があったりと、従来のセオリーを大胆に無視して奔放です。
描き直しの跡が残っていることも稀ではありません。
それらがわざとなのか、単なる偶然なのか、未完成だからなのかは不明ですが、不思議な空間の感覚を醸成していることは確かです。

ロペスの描く街には人が居ません。静かで広大で無人です。ただ宇宙の時間だけがそこにとどまっているかに見えます。そして、ほのかに死の気配がします。それは自宅の室内、浴槽や洗面所を描いた絵にも漂う気配です。が、あくまでも無機的であり、具体性はありません。
しかし、『犬の死がい』や『横たわる男』(彫刻)になると、ずっと直截になります。

フォト フォト
グッド(上向き矢印)(左)『夕食』(1971~80年)
 (右)『Figures in a House』(1967年)
まさに、他のすべての部分が描けているのに、なぜ? の代表作が左の『夕食』です。右に座った妻の顔が上方に描き直されているのですが、完成されずに以前の顔も残されているために、顔が二重にずれて見えます。
奥さんの顔でさえこうなのですから、ロペスの表現は容赦なしですわーい(嬉しい顔)
右の絵の左に居るのも妻のマリアのようですが、上半身しかありません。近くに居た若いお嬢さんが「心霊写真みたい」と呟いていました。正直です。指でOK

かくのごとくで、一枚の画面を上下に分けて別のシーンを描いた絵もあります。紛らわしい! 別々に描けばいいじゃんねぇ~。
いえいえ、ここにはきっとそうしなければならない必然があったのです。
植物などの静物画や彫刻に触れられませんでしたが、白い地と背景に描かれたコップに刺された白いバラの美しさは、何の仕掛けもなく、実に素晴らしいものでした。
っつーー感じで個人的には大作よりも小品、油絵よりも鉛筆画が好きかもしれません。

V.さんさん、ありがとうございました。とても見応えのある今まで体験したことのない不思議な世界でした。

【すみません、日本語表記を失念した作品は英語になっています】 



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# by grpspica | 2017-02-11 00:00 | グループスピカ | Comments(0)
2017年 02月 10日

石崎皆市郎さんのカトリック教会

タグ「旅・台湾」一覧 ←「クリックして記事一覧をご覧ください。

wikiから調べると、2つそれらしき物が出てきます。

1889年の天主堂
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現在の天主堂
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聖母無原罪司教座堂は 台湾 台北市大同区民生西路245号にある
キリスト教 カトリック台北教区の司教座聖堂である。
敷地内には幼稚園が併設され、カトリック系の静修女子中学も隣接している。

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写真がたくさん見られます。
https://www.google.co.jp/maps/place/Immaculate+Conception+Cathedral/@25.057244,121.514888,3a,75y,90t/data=!3m8!1e2!3m6!1shttp:%2F%2Fstatic.panoramio.com%2Fphotos%2Flarge%2F103830266.jpg!2e7!3e27!6s%2F%2Flh6.googleusercontent.com%2Fproxy%2FYOrcYoVXiAkwjtBNua5gG77Ns4T1qnxjr2GcpjNFRFeAbTaDl9QNsGnwIq8eKGya0ik4NaWeqIHwrI6ZfBty7_-yr8znrKqc6wJy2alpLtrn_3q0UnXky1wCp80rm-Sy9ggpNw6fel7zF83TAeFP2zqt4PYHjA%3Dw203-h152!7i1024!8i768!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0xb2a222ec368a1f5b!2sImmaculate+Conception+Cathedral!8m2!3d25.0572371!4d121.5149754!3m4!1s0x0:0xb2a222ec368a1f5b!8m2!3d25.0572371!4d121.5149754!6m1!1e1
所在地No. 245, Minsheng West Road, Datong District, Taipei City, 台湾 103



もう一つはそこから日本人用に作られた「華山天主堂」
昔の建物。
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建物は「聖母....」はまだ教会の形がちゃんと外にあるけれど、
「華山」は大きなビルの中に入ってしまっている。。。

ということになります。現在のビルはこんなです。
左側に十字架が見えるのが入り口のよう。

済南教会があのように残っているのが奇跡かも。。。。
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wiki
カトリック台北大司教区から。。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/カトリック台北大司教区

遠隔を見ると

  • 1887年 - 台湾南部を宣教拠点としていたドミニコ会宣教師を台北に派遣。同年3月19日、蘆洲に台湾北部初のカトリック教会を建設。このほか基隆などにおいても宣教を行い、多くの聖堂を建設した。
  • 1911年 - 日本の統治時代に入り、ドミニコ会は台北大稲埕において聖堂の建設に着手し、3年の歳月を経て完成、その名を蓬萊町大聖堂と称した。当該教会は完成後、台北におけるカトリック発展の中心となった。(これが
  • 1928年 - 現地在住の日本人信徒および台湾人信徒の言語上また習慣上の違いを考慮し、樺山町に日本人専用の教会(現在の華山天主堂)を建設。日本統治時代終了前には、台北に2ヵ所の小教区および3ヵ所の巡回教会(非独立小教区)が存在した。

と出てきます。



それで 現在の華山天主堂(our savior church )を調べると
所在地No. 112, Section 1, Zhongxiao E Rd, Zhongzheng District, Taipei City, 台湾 100

地  址:[100]
     台北市忠孝東路一段112號2樓
電  話:(02)- 2321-9232
傳  真:(02)- 2396-8774
主任司鐸:孫志青 神父

主日彌撒:09:00 AM (國語)
 (週六)08:00 AM (國語)
平日彌撒:週一、三、五 07:30 PM (國語)
     週二、四 07:00 AM (國語)
聖心彌撒:19:30 PM (國語)每月首週五
             當日無平日彌撒







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# by grpspica | 2017-02-10 18:15 | 旅・台湾 | Comments(0)
2017年 02月 10日

『ニュース女子』問題 続報 by mari

最低最悪の差別デマ番組『ニュース女子』(MXテレビ)で司会進行(MC)役を
務めている東京新聞(中日新聞東京本社)の長谷川幸洋・論説副主幹は、
あまたの取材依頼にはまったく対応せずに、6日、自身がコメンテーターとして
出演しているニッポン放送・ラジオ番組放送中に発言。東京新聞と中日新聞が
2日付朝刊に掲

「ニュース女子と東京新聞は全く関係ない。なぜ深く反省するのか」
「番組で取り上げた議論と東京新聞の報道姿勢は違うし、私自身も(同紙の主張と)
違う。でも(主張の)違いを理由に私を処分するのは言論の自由に対する侵害」
「意見が違うことで排除したら北朝鮮と一緒」

などと語ったとのこと。バッド(下向き矢印)

●「ニュース女子と東京新聞は関係ない」 副主幹が反論
http://www.asahi.com/articles/ASK265RQKK26UTIL05J.html

なんともはやネトウヨ並みにハチャメチャだ。ふらふら

・関係がないなら、なぜ、東京新聞・論説副主幹との肩書きで出演しているのか。
・問題は主張や意見の違いではなく、取材もせずに事実でないデマを流したこと。
・デマは言論の自由の範疇になどない。

っつーーことだと思うのだが、相変わらずスポンサー兼製作会社(DHCシアター)
同様にわかっていない様子。

で、そんな長谷川氏が、なぜ、東京新聞でいまだ現職を続行中か、と言えば、
こんな事情があるようだ。バッド(下向き矢印)
http://lite-ra.com/2017/02/post-2891.html

東京新聞は絶滅危機にあるジャーナリズムの中で、権力と対峙する姿勢を保ち
続けている数少ないメディアなので、この問題で信頼を失うのは惜しいところ。
今後の対応を注目している。

上記ラジオ番組の音声バッド(下向き矢印)(1『ニュース女子』については19分ちょうどあたりから)
●<2017年2月6日>【報道二郎・保守論NEWS】




【記者会見】
東京新聞の良心を応援中!  
「ニュース女子」問題 長谷川幸洋論説副主幹は謝罪を 
とき:2月9日(木)14〜15時
発言:香山リカ(精神科医)
   西谷修(立教大学教授)
   他


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2月7日、夕方のニュースショーでこの問題を取り上げていました。
どっちに転がるかと思って、録画しました。
素晴らしい内容でしたよ。
みなさん、mariさんと同じ考えでした。

特に良かったのが、 言論の自由とはなにか?
「権力者の暴挙に物申すことを言論の自由といい、
 あることないこと勝手に作って喋ることではない」
皆さん、こう定義しておられました。
「ニュース女子の人たちはこれだけ話題になったのに乗じて、
 自分たちの考えで国民を洗脳することを目論んでいるに違いない」
と心配していらっしゃる コメンテーターもいました。

by マサコ

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# by grpspica | 2017-02-10 11:37 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2017年 02月 09日

書評 『戦争とわたし そして日ノ本』 by 前野育三

タグ:日ノ本学園・戦争とわたし ←クリックして記事一覧を
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戦争とわたしそして日ノ本 web版 シリーズ その1

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日ノ本学園高等学校同窓会
2015年12月1日発行

  弁護士で仔ひつじ会会長だった伊東香保さんから『戦争とわたし そして日ノ本』をいただいたとき非常にうれしく思いました。私は姫路出身であるし、それにとどまらず、日ノ本学園には、若き日の大きな思い出があるからです。私は宣教師のマクレラン先生が行われるバイブルクラスの生徒として、私の友人である数名の西高生とともに参加していたからです。195356年の頃でした。

  あの日ノ本学園には、このような素晴らしい歴史があったのだ、そして同窓会には、このような素晴らしい冊子を作る実力があるのだ、と知ることができ、強い喜びを感じました。

  中身を読んで、その喜びはさらに大きなものになるとともに、厳粛な気分にもなりました。
70年余り前の太平洋戦争が、自分たちの生活にどのような影響を及ぼしたか、そして、日ノ本学園の教育にどのような影響を及ぼしたか、が、体験を通じて克明に描かれていたからです。

  私自身も小学校(当時は国民学校)
2年生の時に敗戦を迎えた世代であり、戦争の惨禍を体験していることも重なって、読みながら相槌を打つことになるような箇所がたくさんありました。執筆者の中では、寺沢晴美さんと同時期の学校生活を送ってきたことになるでしょうか。大塚和子さんとは、マクレラン先生のバイブルクラスで2年間ご一緒させていただきました。

  冒頭いきなり最初の原爆を広島の対岸の江田島で体験した多田蔦子さんの文章から始まります。戦時とはいえ、そして極度の物資不足の中とはいえ、そこには日常生活があります。天気の良さを喜ぶ普通の生活があったのです。それが原爆の投下で一瞬にして地獄の真っただ中に変化するさまが想像されます。当日の広島出張の予定が変更されて、九死に一生を得られた運命の不思議さが感じられます。その逆の運命の方からは残念ながら体験を聴く機会もありません。

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  湯川光雄氏作「祈りの館」(版画)



  戦時中は、キリスト教主義の学校が、キリスト教主義の教育を守るだけでも大変な抵抗だったのだと感じられます。日ノ本学園はよく頑張ってキリスト教主義の教育を維持したのだと感心します。しかしそれも1944(昭和19)年の3月まででした。波岡三郎校長が逮捕され、数名の教員が日ノ本学園を去ることを余儀なくされ(大塚和子さんは、お父さんについてごく控えめに書かれています、112頁以下)、普通の学校としてかろうじて存続を認められることになります。
 

   この事実をどのように受け止めておられるか、が、世代によってすごく異なることに気づきました。古い卒業生は、「宗教弾圧」(荒木さん17頁)という語で語られています。在校生として当時を経験した方も、当時を振り返って「言論弾圧」という語を使っておられます(大野さん56頁)。母校に生じている事態を心から心配されたことでしょう。しかし在籍当時の感覚としては、何が起こったのかの説明もなく、語ってはならないことのように感じられたことでしょう。何かわからないけれども「スパイ事件」で校長先生が逮捕されたという感覚でとらえられ(坂谷さん69頁、井上さん72頁)、非常に暗い気分が校内に漂ったのではないかと思われます。校内に奉安殿があり(井上さん71頁)、講堂の十字架が叩き壊されるなど(立川さん62頁)、キリスト教主義の学校から戦時色へと急変して行きます。   

  宣教師の帰国は、この時期ではなく、日米関係が緊迫した1941(昭和16)年に始まっているのですね(森さん37頁)。やがて開戦でした。

  このような校内の変化もゆっくりと感傷にふける暇はなかったでしょう。学徒動員で播磨造船所(大前さん23~24頁等)やダイセル(黒田さん40頁)での勤労が始まり、学校へは卒業式の日にしか出席できなかった学年(大前さん24頁)、その卒業式スラ、列車の遅れのために出席できなかった人も(福島さん34頁)。学徒動員が始まって3年目の学年になると、学校内で作業を行っています(大野さん58頁)


  終戦とともに、また自由が回復されます。波岡校長が帰ってこられ、宣教師もビクスビー先生を先頭に帰ってこられ(立川さん6566頁,坂谷さん70頁)、新しい宣教師も着任されます。戦後の自由な教育の先端を行く日ノ本学園でした(湯口さん82頁以下)。英語ができるだけでスパイの疑いをかけられる時代(寺沢さん95頁、100頁等)から、英語能力が誇りになり、生活に役立つ時代に変化します(寺沢さん102頁)。

  このような変化が本書から読み取れて、興味津々でした。

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1953-1956頃のマクレラン先生のバイブルクラス

中村幸吉姫路西高の先生と西高生そして日ノ本生
若き日の前野氏がおられます




  このように考えると、ミッションスクールが日本の教育に果たした役割の大きさも理解できます。日本が世界に目を向け、日本人が国際的に活躍するうえで、ミッションスクールの果たした役割は非常に大きかったといえるでしょう。

欧米の先進的文化の魅力やその水準を伝え、日本人が世界に目を向ける道を拡げてくれました。
  ミッションスクールはなぜ女子校が多いのか。政府の富国強兵策にしたがって行われる教育は男子中心で、女子教育が軽視されてきたからではないかというようなことも、本書は感じさせてくれました(佐藤さん
50
頁)。

  私の世代の者が共通に経験した戦争の惨禍は、戦争末期から終戦直後にかけての物資の不足、とりわけ食料の不足です。これは多くの方が書かれています(森さん39頁、大野さん56頁、土屋さん78頁等)。今の若い方には想像することも難しいでしょうけれども、配給の食料だけでは飢え死にする。田舎へ買い出しに行って、持って帰るところを見つかってしまえば、持っている食料は没収され、罰金が科せられる。それはそれは大変な時代でした。

  戦時中や終戦直後の食糧難は、みな共通の経験です。しかし、食糧難が戦後いつごろまで続いただろうかというような話になると、貧富の差が影響してくるように思います。日ノ本学園の卒業生のみなさまは裕福な方たちだったのだな、と思わずにはいられません。貧しい生活をしていた私などは、もっと遅くまでひどい生活が続いていたように感じています。読みながら、現実はもっとひどかったよというのが実感でした(西村さん31頁)。

   物資の不足は、日常の消費生活に苦難をもたらしただけではありません。商う物がなくなれば、商売は続けられないのです(西村さん28頁)。こうして商売の継続をあきらめて工場勤めになった人もいます。私の父もそうでした。


  戦争末期の生活は生死紙一重の生活でした。この冊子でも、空襲警報のサイレンが鳴ると急いで防空壕にとび込む生活だったことが多くの方によって書かれています(井上さん
73
頁等)。姫路は、川西航空機の工場とその周辺に対する1945(昭和20)年622日午前中の爆弾空襲と73日夜の焼夷弾空襲と2度の空襲を受けました。爆弾空襲ではたくさんの人が命を失いました(西村さん29頁、黒田さん44頁、福積さん87頁等)。焼夷弾空襲でもたくさんの命が失われるとともに、姫路の市街地の大半が焼失しました(大野さん59頁、土屋さん79頁)。

  
  私も空襲で家を失った一人です。当時小学校(当時は国民学校)
2
年生だった私は、空襲警報が聞こえると、両親ととともに、市街地の北の郊外に逃げました。田んぼの畦道から市街地の方角が燃えているのが見えました。やがて我が家も焼失したとの情報が入ってきました。船場(せんば)小学校も焼失しました。船場地区の被災者は高岡小学校に集合せよとの通知があり、高岡小学校で3日ほど過ごした後、母親の郷里である飾磨郡鹿谷村前之庄(現在は姫路市夢前町前之庄)で母親の姉の家にご厄介になりました。田舎だが非農家だったので、食糧難は同様でした。戦後姫路へ帰ってからは、狭い家屋に2家族同居の生活でした。1950年(私が中学1年のとき)まで、2家族同居の生活が続きました。

  私は7人兄弟姉妹の第6子として育ちました。当時は、富国強兵策の中で「産めよ増やせよ」の政策がありましたが、貧しい家ほど多子家庭が多かったのです。兄弟構成は上から3人が姉、その下が兄、兄、私、弟でした。この順序がもし逆だったら、上が男子で下が女子だったら、徴兵の対象になり、戦場へ行くことになったでしょう。

  本書では、爆弾空襲のあと、市川の河原では死体がごろごろしていたことが書かれています。また、戦災で負傷した人は、十分な治療を受けることもできず、死亡したり、後遺障害が残ったりしました(助村さん15頁)。

  
  ラジオは、大本営発表の戦果を報道します。それだけを聴いていると日本は勝ち進んでいるように聞こえます。しかし
1944
(昭和19)年になるとアメリカのB29がしばしば飛んできて爆弾や焼夷弾を落としていくようになります。大本営発表通りの戦況ではなさそうだということは、多くの人が感じるようになります。しかしそんなことを大きな声で言うと大変なことになる、と誰もが口をつぐんていました。


  もともと民主主義や人権の未成熟な旧憲法下の日本でしたが、戦争でますます自由が失われてゆきました。合理的な判断がますます通用しなくなる社会へ変わって行きました。こうして終戦の判断が遅れ、その間にどんどん戦争被害が深刻化していったのでした。

  せめて半年早く戦争が終っておれば、原爆被害はなかった。沖縄戦の被害もなかった。都市の空襲被害もごくわずかで済んだ。満州(中国の東北部)からの引き上げに伴う苦難もなかっただろう。自由な言論が保障されていたら、これほどまで戦争の被害を大きくすることはなかったでしょう。それよりも、戦争そのものを始めてもいなかったでしょう。


  戦争の惨禍を経験した世代から、若い人たちに、戦争の恐ろしさを語り伝えることは我々世代の役目です(福積さん89頁)。平和の尊さ、平和を守るためには政治的自由が大切であることをこの本は教えてくれます。


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 香保の一口メモ 
★ 仔ひつじ会は、日ノ本学園高等学校同窓会の愛称です。
★ 前野育三氏は、刑事法学者として刑法・刑事政策・少年法の分野でご活躍、
  現在関西学院大学名誉教授・弁護士。
★ この書評は、「戦争とわたし そして日ノ本 web版」のトップ記事です。
  今後シリーズとして順次このブログに載せていく予定です。
★ この企画のための写真その他の資料を募集しています。
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# by grpspica | 2017-02-09 10:39 | 命・平和・人権 | Comments(5)
2017年 02月 07日

映画「SUFFRAGETTE(邦題「未来を花束にして」) byマサコ

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「SUFFRAGETTE」 
この言葉は辞書を引くと1つだけ出ている。
 『<英> 女性の婦人参政権論者』

「suffrage」は「選挙権・参政権」のこと。

100年前の英国婦人参政権を主題にした映画の邦題が
「花束を未来に」なので、違和感を感じる人もいる。
それで、SNSではいろいろな考えが花開いている。

邦題は、おそらく女性が付けたのでは?

庭の花をコサージュやブーケにした事がある方なら、
きっとこの邦題に賛成すると思う。

子供の頃から、淡い色が好きだった。
中でも白色系に憧れ、いつしか冬の大三角形のうちの一つ、
シリウスの白に憧れていた。


庭の花でブーケを作って遊びだすと、
どうしても必要な色があると気づいた。
それは一番育ちにくい、白系やデリケートな色合いの花だ。
濃い色同士が我を張ると、花束はまとまらなかった。

いつか「人と人を繋ぐ仕事」をしたいと思う。
歌手のジャニス・イアンは、
「音楽とは、人をつなげるもの。
 芸術とは魂が欲するもの」
と語っていた。

「未来を花束にして」は、
「それぞれの色合いの人間が、平和な気持ちでまとまることができますように」
と願い、戦争のない世界に女性の働きが欠かせないことをシンボルにしたタイトルである。

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写真はwikiから

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# by grpspica | 2017-02-07 17:23 | 映画・ドラマ | Comments(0)
2017年 02月 06日

日本の政治犯 by mari

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と言っても、戦時中の話ではない。現在進行中の権力による犯罪だ。

沖縄・東村、高江のオスプレイ、ヘリパット施設の工事に反対する過程で
逮捕され、拘留が続いている山城博治さんについては、かねてより不当逮捕・拘留が
指摘されてきたが、ついに国際人権団体アムネスティ―が逮捕・拘留の不当性を
指摘し、即時釈放を求めることとなった。
法の下の平等にも反する異常な長期拘留をやめさせるために、アクションを!
http://www.amnesty.or.jp/get-involved/ua/ua/2017ua023.html

政治犯とは、別名「良心の囚人」。国の政治体制の中で「反政府的」とされる態度・
言動を とったり、「反政府的」とみなされる組織をつくるなど革命運動・抵抗運動・
反政府活動を 展開したことが元で、政治的理由で逮捕状が出されていたり、刑務所・
収容所などに 収監されている者。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%8A%AF

【メモ】

クリップ山城さんは数年前に悪性リンパ種を患い、その治療が必要であるにも かかわらず
  受けられないでいる。体調の悪化がかなり懸念される。

クリップ体の冷えが心配され、支援者たちが靴下の差し入れを求めたが却下。
  家族の面会も許可されていない。

クリップちなみに、最低・最悪のデマ差別番組『ニュース女子』において、
  ヘリパッド反対派の人々が集合している場面が映り「デモ発見!」などとコメントが
  入ったが、写っていたのは山城さんら逮捕・拘留者たちの釈放を訴えに来ていた
  人々だった。

クリップ一回目の逮捕の器物損壊容疑とは、こちらの日記で紹介したカミソリ形の
  有刺鉄線を「危ないから」と切断したためだった。
 
  http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1957330301&owner_id=1834377
  このカミソリ形の有刺鉄線は切断すると回転する仕組みで、
回転によりまわりに居る生き物をより大きく傷つけるとのこと。


山城博治さん逮捕に関する沖縄タイムスの記事、まとめ。

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●琉球新報(2017年2月6日)記事より
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 警察や裁判所は、名護市辺野古の新基地建設や東村高江のヘリパッド建設に反対する
闘いを、特定イデオロギー団体による活動だとみているようだ。
しかし、それは大間違いだ。市民一人一人の意思による市民運動で、世話人の山城博治
さんの長期勾留は市民運動をつぶすための嫌がらせに他ならない。
 活動に参加する沖縄の高齢者たちの背景には、沖縄戦から学んだことがある。つまり
第2次世界大戦の時のように沖縄を再び本土の防衛堤にして、子や孫に同じ轍を踏ませ
ことのないようにという思いで集まっている。二度とあの悲劇を子や孫に味わわせた
くない という決意が核になっているのだ。
 警察、裁判所は沖縄の歴史を学んでいない。山城さんを封じこめば運動が封じ込めら
れると 思っているのだろうが、県民を見くびっている。長期勾留の背景に、山城さんが
頑固に抵抗を続けていることが推測できる。県民も決して諦めてはいけない。
 公判は3月以降になるという。これ以上の長期勾留に法的な正当性があるのか。その
理由 が県民に見えない。警察や裁判所は政府に従属し、独自の判断を放棄することを
やめて、県民にしっかりと説明するべきだ。
(金城 実さん/彫刻家)

〜〜〜〜

その後の情報

●昨年12月に接見した福島瑞穂さん(社民党議員)によると、山城氏は白血球の
数値が下がっているため、切り傷を作ると血が止まらなくなる心配があるので、
カミソリで髭も剃れない状態である、とのこと。
●靴下は短いものがようやく差し入れ可に。差し入れ時に支援者が聞いた情報に
よると、血液検査の結果白血球の数値は3000(健康体では7000)に下がり、
失明の可能性も懸念されている。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/355948

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山城さんの件はもっと大きく報道されるべきことなのに、相変わらず
マスコミは静かですね。大本営発表の愚を繰り返したいのでしょうか。
沖縄だけの問題ではない、政府に対抗する者たちは不当に扱われても
構わない世の中になる、その危惧が薄いのです。

こんな事件が起きているにもかかわらず、過去三度も廃案になった
共謀罪がゾンビのように国会で蘇っています。
反対派のプラカにありましたが「冗談も言えない共謀罪」げっそり、まったく
その通りです。

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その後の情報

沖縄タイムスが本日(2月7日)の社説を山城さんへのメッセージとしています。
沖縄の切実さを、ぜひ、お読みください!

●社説[辺野古から 博治さんへ]「沖縄は絶対諦めない」
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/83073

社説が個人へのメッセージって、異例ですよね。
それほど切実で、苦しくて、辛くて、悔しくて、痛みに耐えて
耐えて、限界にある沖縄なのです。



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# by grpspica | 2017-02-06 11:00 | 命・平和・人権 | Comments(2)
2017年 02月 05日

西川 満 氏 byマサコ

前日記の佐藤春夫「田園の憂鬱」に関連する写真がある。
作者佐藤春夫と一緒にその跡を訪ねた「東大比較文学研究室」のメンバーの記念写真だ。
その中に,西川満氏が写っている。
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西川満氏は台湾時代に記者として、恩地孝四郎の事で、台北東門町の母の実家を訪れていた。
その事を母から聞いたのは、私が彼の著作である星占いの本を読み耽っていた20代の頃だった。

その後、東京阿佐ヶ谷の彼のご自宅に伺って占星術の話をしていただいた時、
お暇する直前にその話をすると、東門の家の事を覚えていらした。

この写真では、若き日の西川氏の風貌が偲ばれる。


西川満(にしかわ みつる)1905年2月12日 − 1999年2月24日

西川満 wikipedia ←クリックすると飛べます。


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こんなブログも見つけました。(モニカ)
気まぐれ食いしん坊の台湾ごはんから




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# by grpspica | 2017-02-05 16:18 | グループスピカ | Comments(0)