25歳の1945年 |
と書いてあるのに、ここに載せた理由はいくつかある。
この文章が書かれたのは民国35年7月とある。
1946年だろうか、長い年月が経過し、関係者の多くは故人となっている。
ノリコは父と母の亡くなった年齢を大分前に通り過ぎ、来年はこの文章をブログに載せることができるかどうかわからない。
8月は平和について考えるにふさわしい月である。
戦争は人を傷つけ、命を奪い、そして家族には深い悲しみを与える、そのひとつの例がここにある。
この文章は伯父の日記張の中にあった。
母の死後それを発見し、日記本体は伯母に返し、この部分は切り取って手元においている。
インクがどんどん薄くなっていく。
母の兄は、阿波丸に乗船していて、1945年4月1日亡くなった。
以下はT叔母からの聞き書き。
1945年3月、T叔母の夫死亡。T叔母、M子、東門町の母の実家に移り住む。←年代確認のこと
1945年5月18日の台北大空襲以後、母の祖母・母・ススムがカラパイへ疎開
・デング熱で動けない母のことをススムが覚えている
・祖父と伯父の妻は残る
T叔母一家は、新竹から1945年4月にどこかに疎開(多分カラパイ)。
M叔父は、1945年8月15日 志林からカラパイに
8月15日敗戦
11月ノリコ誕生。
12月志林の予科の官舎で父、父の母、F家家族、A叔母らクリスマスを祝う
「神の御子のエス様は」をススムとF家のいとこM子が歌う。
1946年3、4月、日本人第一次弾き上げ始まる。
祖父母、伯父の妻引き揚げ
F家の祖父母とM子も一緒に帰国。
その後、父母らは東門町の家に入る。
1946年12月 第2次引き揚げ。
M叔父一家、T叔母、A子が一緒に引き揚げ
1946年2月28日事件勃発
1947年4月29日、引き揚げのため東門の家を出る
5月8日、原家、父の母・A叔母 佐世保針尾島に上陸。
上陸したらDDTをかけられた。
父の友人の早見さん.....?
原家、大阪の親戚方へ。
親戚の子供1人死亡。
父の母とA叔母は、先に帰国していた福岡若松町のM叔父の所へ
幸い同船されていた女医さんのお陰で一命をとりとめ、
現在に繋がります。
その時に指導された食事内容のお陰で、我が家には当時珍しかったチーズが常備される事になりました。
「石鹸を食べている!!」と驚かれたのも今となっては懐かしい思い出です。 モニカ
そうだったのか。。。。
手持ちのブドウ糖の量が少なかったから、そう判断されたのね。
モニカ
母との時間が長かったマサコさんの記憶の方が正しいでしょう。
そう、数日前の神戸新聞「読者の声」にノリコより5歳年上の台湾からの引き揚げ者の投稿がありました。船内で数名の子どもが亡くなったと、おかあさんから聞いたそうです。4歳のときに引き揚げたとあるので同じ頃の船なのでしょう。
戦争が終わったことを知りつつ戦闘機で飛び立った人、終わったことを知らないでグアムの密林に隠れすんでいた人、帰国を目前に病死あるいは餓死した人、戦後の日本で餓死した人、原爆の後遺症で苦しみながら亡くなった人、この人たちの生が生きている人に受け継がれているのですね。