姑の鎮魂の為に その1 by 山田美智子 |
「早く助けて、ここにいますよ!苦しい」
と、しっかりした声を発していた姑(山田タミエ・大正9年1月9日生)は、
2〜3時間かけて助け出されていたにもかかわらず1〜2時間後に
「美智子さん、手が冷たくなってきたし、気分が悪くなってきたから、
私は苦しんで死にますから…」
「おかあさん!何かで打って青く腫れている右手だけ冷たいだけですよ。
左手はこんなに温かいのに…。気にしないで少し眠られたほうがいいですよ」
右手首を掴んで脈を確かめながら、私の体温がうんと伝わるように密着させて、もう一方の手で肩や腕を撫でながら心の中で呼び掛けていました。
「おかあさん、一緒に街作りを考えて行こうって約束したでしょ。
今に間に合わなくても、惨めな思いをしないような、どっかで夢の見られる、
そんな活動にしようっていうのを、おかあさんも段々判ってきはじめてたじゃないですか。
『死んだほうがまし』って言ってはったのが、
『長生きせんとあかん』−って変わったんと違うの。
『葦の風』にも投稿するって約束したじゃないですか。
疲れてるだけですからね、心配せんと寝る方がいいですよ」
それからしばらくして、姑は大きな呼吸を3回したような、心臓が大きく3回動いたような感じが私の掌に伝わってきて、脈が弱くなったように感じました。
私は思わず言っていました。
「こんな寝方はやめてよ。お願いだから起きて。私叱られちゃう。
おかあさんは大丈夫だったって大垣(実家)にも知らせてるのですから」
そして叫んでいました。
「どなたか、母の脈を見てください。お願いします。わたし、脈が判らなくなってしまったので…」
私のドジなんだろうか? 眠ったらなんて言っちゃいけなかったのだろうかと思いながら、頭部からの出血と泥で汚れてしまった身体を、中島モ−タ−スのおばさんに手伝ってもらいながらきれいにしていきました。
タオルの血液を洗い落しながら、その度に少しでも良いからこの血液が皮膚を通して入ってくればいい、思い残した事と一緒に入って来て欲しいと念じたり、
「どうして死ななきゃいけないのよ!」
と声を殺して叫んでいました。
恥ずかしい話ですが、自分の能力に自信を無くしていた20歳の私は、今までの蓄積の真価を問うために、誰も知る人のいないところで大人として扱われるために結婚を望みました。
国際文化住宅都市「芦屋」は余りにも鄙びた田舎でしたが、心を励ましてくれそうな優しく繋がる六甲の山並みと、潮の香りを街なかにまで漂わせていた海、松並木の美しい芦屋川という舞台装置を持つ芦屋市には良き人ばかりが住むのであろうと思いが膨らみました。
しかし、結婚を決めた一番大きなことは山田タミエが姑になる人ということだったのです。
厳しくしっかりした印象の奥に仄かに寂しさがあり、話は無駄がなく理論的で高飛車ともとれる調子の中に試しがあったり、優しさを見せることへのはにかみがあったりしました。
夫との見合いの前に、大きな机を挾んでほんの数分のやりとりが、
「この人は信頼して相談すれば、大丈夫な人。この人が姑ならいいわ」
と私に思わせていました。
結婚して自己主張をすっかりやめてしまった無口な私に、
「美智子さん相手の嫁いびりなんて、赤子の手ぇ捻るようなもんで、あほらしいてでけへん」
「人に意地悪でけへんやなんて、まるきりアホやゆうてるのと一緒や。少しは意地悪なこともでけへんかったらあかんよ。頭良かったら、さらっと出来るはずや」
「明治の女やあるまいし、遠慮せんと誰にかて、やなもんはいややゆうたらよろし」
「子なしは果報という言葉も、鳥取にはあるんやけぇ」
(時々、鳥取弁が出るときは、本当に懐かしげに言葉の響きを楽しむように、
ゆたりと2〜3度繰り返していたように思います)
「親が死んでも食い煙草とゆうの。そんな、食べた後すぐにばたばたせんと…食べたもんが身につけへん。痩せたりされたら、あんたのお母さんに申し訳ない」
「誰かに断わりにくい事言われたら、私のせいにして断わったらよろし。
この年になったら、少々人に悪ぅ言われようと、ちっともこたえへんからぁ」
いっぱい、ほんとうにいっぱい、放り出すような言い方の裏に思いやりをくっつけて、私に投げてくれました。
芝居見物、デパ−ト巡り、短歌、花つくり、英会話、歌を歌うこと、織物のデザイン、発明(ベビ−服と衛生箸箱)、たくさんの趣味と秘めたプライドと悪い方へ悪い方へと想像していく方向性は問題だったけれど、想像力と創造力の大きさ。
なのに、政治には無頓着で、
「誰にいれたらいいのぉ」
のタイプでした。
昔の写真を見ていたら、選挙のポスタ−が20枚近くも塀に貼ってあるのがあったと義兄が話していたのがきっかけで、今年はひとつ支持している市議会議員さんたちのポスタ−展風にしてみようと話したが纏まっていて、姑も楽しみにしていました。
でもこれは、マンション反対運動の余波で出てきた話なのでした。(正確には、施主と話し合いたいという素朴な住民の願いすら叶わず、合法の一語で踏みにじられる、地域の願いや個人の価値観を運動という形にするべく模索していた中から)
昨年、家の東隣に9階建てマンションが計画されていたと知った時から、姑の生活と心がずたずたにされていきました。
彼女が言ってくる彼女にしかわからない、とても大切なものが、
「おかあさん、そのことは良く判るけど、今は言っても仕方のない事なの。一旦そこから離れて、違う大きな物の見方でしか、行動出来ないよ」
というふうに彼女にとって訳の判らない言葉で、私にも拒否されてしまって悲しかっただろうと思います。
私はもともと、頭で考えて80%可能と出ない限りは諦めるが、可能と判断したことには心血を注ぐというタイプでした。失敗はタブ−だったからです。
環境問題に首を突っ込んでからは、
・失敗は恐れない
・駄目で元々
・たとえ無駄と判っていても努力を惜しまない
・行動しながら考える
・人は日和見しても天は、自然は日和見しない
・見えない力は見えた時にはわたしのもの
・失敗は成功の基
とノウテンキになりました。
逆にいうと普通の良いことをしたいという感覚だけでは、耐えがたい悲しみと苦しみと焦りと失望とを社会にも、政治にも、個人にさえも感じさせられてしまうことが、自然保護に、環境問題に取組むということだったのです。それ程しんどいことだったのです。
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