ペーパー版「海峡」の新スタイル
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by grpspica | 2005-04-11 12:54 | 命・平和・人権 | Comments(12)
Commented by grpspica at 2005-04-12 09:55
古殿様、投稿ありがとう。山火事を起こしたことで、「おとがめ」はあったのでしょうか?
Commented by 古殿です at 2005-04-12 14:00 x
山火事を起こしたときは、私は14歳になっていましたが、警察に、グループ全員(10人ほど)と親が呼ばれて、怒られただけでした。家裁には送られていないので、前歴にはなっておりません。
Commented by grpspica at 2005-04-12 15:59
古殿さま。前歴にならないとは、なんとのどかな時代だったのでしょう。
エクサイトのお仕着せのバックです。日曜日に見たサクラの美しさが目に残っていて、今日明日くらいはこのままで。
Commented by moran at 2005-04-15 01:28 x
ニュースであの防空壕の奥がすごく深いこと,穴からの傾斜が大きいことをしり,びっくりしました。あれじゃ,一酸化炭素の逃げ道がない。

あそこで探検ごっこしていたときは面白かったんだろうな・・・。私はこわいかな。あそこ,お化けでますよ。
Commented by grpspica at 2005-04-15 16:57
あそこで戦時中に亡くなった方がいらっさhるのでしょうか。この度のこどもたちはその霊が連れて行った?ノリコ
Commented by モニカ at 2005-04-16 10:44 x
入口の傾斜、本当にすごいですね。防空壕として作ったという事でしたが、どういう事であんな傾斜になったのかしら。鹿児島県に残っているわかっている防空壕の数の多さ(2000近く? 夢うつつに聞いた数で正確ではない)にビックリしました。2番目は神奈川県で500位だったような。それだけの数を鹿児島に作ったという事は、軍には沖縄の次は鹿児島だという意識があったのかしら。爆弾の攻撃を想定するからこそ作られたものだと思うと、今辛うじて守られている爆撃のないこの生活をもっと大切に考えなければ......。憲法9条の話、もう少しまじめに読んでみよう。
Commented by 古殿 at 2005-04-20 15:33 x
昭和20年秋に、米軍は、南九州に上陸して、航空基地を確保し、その後、九十九里浜に上陸して首都を攻略する予定でした。天皇は、長野県松代の地下壕に逃れることになっていました。
8月15日に降伏しなければ、こんな展開になっていたと思います。

私に母によると、沖縄戦が始まった頃から、鹿児島は、すでに最前線で、グラマン戦闘機が常に上空を飛んでおり、昼間は、外に出られなかったとのことです。
鹿児島市は、空襲でほとんど焼かれ、人が住める建物はなかったとのことですから、民間人も防空壕に避難していたのかもしれません。
今回の防空壕は、入り口や中の構造から、軍が掘ったものでしょう。
陣地になるように、カムフラージュされていますから。

終戦の時、私の母は鹿児島で郵便局に勤めており、父は招集され、千葉にいましたから、本土決戦になっていたら、私は、この世に、生を受けていなかったでしょう。

Commented by grpspica at 2005-04-20 18:46
古殿さまと私は同世代(ということにしましょう。戦後生まれですから)、
戦争が終ったので知り合えたのですね。私の両親は台湾にいて、私は疎開先の山奥で生まれました。
3才違いの兄は空襲警報を覚えているそうです。
この60年の間に、日本が戦争をしなかった、「日本軍」がただのひとりも(味方も敵も)人を殺さなかったということは、本当に誇っていいことです。ノリコ
Commented by おはな at 2005-04-21 01:12 x
あっこのノリコさまの最後の一言すごくいいな。先日読んだイスラエル作家の作品はちょっとぶっ飛びだったけど考えさせられるところもありました。「生まれた時からずーっと戦争をしている国」、私には想像もつかない世界です。
私も戦後生まれの同世代。
Commented by ノリコ at 2005-04-21 09:41 x
おはなさまの目にとまってうれしいっ。憲法の「改正」は、「日本を戦争が出来る国にすること」という見方は、かなり正しいと思います。
ところで戦後生まれ、といっても巾があるのですが・・・
Commented by 古殿 at 2005-04-21 16:46 x
私は、武岡で山火事を起こした1968年(昭和でいうと43年)は14歳でした。
鹿児島の中学生たちと同じ歳なので、強く痛みを感じます。

なお、私の中学校の同窓会のホームページを見たら、「僕らも、中学生の時、防空壕探検をした。」というメールが、何通か来ていました。
危険なことはわかっていたのに、防空壕を放置して来た国に対しては、怒りが沸いてきます。
この国は、戦争責任に、面と向き合うことを避け続けて来たのです。
このままでは、アジアの国と信頼関係を結ぶということは、不可能でしょうね。
Commented by grpspica at 2005-04-22 00:31
軍が作ったものなら、その資料が残ってないんでしょうかね。そういったものがあれば、残せるもの、残さない方がいいものとその後の管理ができるはず。敗戦のゴタゴタで放り出したままなのか、それとも敗戦と同時に書類を処分したのかしら。 モニカ
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