鹿児島のいたましい中学生の犠牲 by 古殿 宣敬 |
武岡や、城山には、防空壕があるのを、私らは知っていました。
小学生頃の昭和30年代は、まだ引揚者などが住んでいたのを覚えています。
私は、怖くて防空壕の中に入ったことはありませんでしたが、山中で火遊びをして、山火事を起こしたことがありました。なつかしい思い出です。
鹿児島に防空壕が多いのは、本土決戦のために、日本軍がたくさん掘ったためです。
終戦の頃の日本軍には、本格的陣地を構築するための、コンクリートや、鉄骨はもうありませんでした。
日本軍は、防空壕に籠もって、銃剣突撃の機会を狙っていたのでしょう。軍は、国民のために、防空壕を掘ったのではありません。
私の母なんか、「終戦の頃の兵隊さんは、防空壕堀ばっかり、しちょったど」と言っていました。
米軍が上陸して、本土決戦になったら、防空壕は軍だけが使い、国民が入ろうとしたら、追い出していたでしょう。あるいは、壕の中で子供が泣いたら殺されていたかもしれません。沖縄戦の悲劇が、何倍の規模で起こっていたかもしれません。
そう考えれば、この中学生たちは、戦争被害者と言うことができます。