橋本静一先生から #1 |
キク伯母が亡くなってはや5ヶ月。
生前、電話をすると、必ず話題になる歌のこと。
どんなに情熱をかけて、お稽古に通っているかがよくわかりました。
そこで伯母の歌の先生であられる橋本静一先生に、「伯母の思い出を..」とお願い致しましたところ、プログラムの曲目と共に、その時のノートや思い出を送って下さいました。
初めての発表会の時のことは、全日本合唱連盟の連盟誌「季刊ハーモニー」に書かれたものがありますので、
続いてアップさせていただこうと思います。
写真は先生のお宅のお庭の伯母です。
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石崎さんとのお付き合いは足掛け10年。
歌についてお話ししたことのすべてが意味深いものでした。拙い文章にしてしまうのがためらわれる、それほどに濃縮された時間でありました。
ノートから拾い出してみましたが、どうにもまとまりません。
まとまらないままに、お送りいたします。
2005年12月3日 第4回 くちなし・わが夢わが歌(Caro mio ben)
(2005年のノートより)
「戦没者の遺族として平和を願いながら、戦後60年の今日まで生きてくることができました(当年89歳)人生の貴重なフィナーレの時を、この二曲に歌われているように、どこまでも夢をもって深いものへの追究を続けられるようでありたいと願っています」そう語ってくださる石崎さん。「くちなし」と共に、敢えて訳詞で「わが夢 わが歌」を歌います。(1回目のステージ 89歳)
追記:石崎さんは88歳のときに私共の教室にみえました。初めてのステージで歌われたのが、「くちなし」とCaro mio ben(わが夢わが歌)の二曲でした。
お聞きくださった多くの方々が、情景が見えるようだ、感動で涙が止まらなかったなどと感想を寄せてくださいました。
2008年1月19日 第5回 桜の歌・庭の千草・すみれ
寒い日でした。最初に決まったのはモーツァルト「すみれ」これを訳詞で。その後春を待つ気持ちを歌いたいと、「桜の歌」。さらに花づくしということと、ご自分の名前のキクが出てくるからと「庭の千草」を。これも原題では「夏の最後のバラ」ですが、あえて馴染み深い訳詞で。(2回目のステージ 91歳)
2009年5月17日 第6回 五月の歌・樹陰・からたちの花
(2009年のノートより)
声楽を始めて5年の石崎さん。月に二回、一度のお休みもありませんでした。この間コンコーネ50番と25番を二度ずつ歌い込み、現在はパノフカの練習曲を歌っていらっしゃいます。『五月の歌』『木陰よ』『からたちの花』三曲とも日本語の歌詞で歌います。歌詞の内容を徹底的に吟味して情景を紡ぎ出すためのこだわりです。(3回目のステージ 92歳)
追記:このときの「からたちの花」は絶品でした。聴衆だけでなく、参加者全員がため息をつきました。芸大の学生や、二期会の研究生達の言葉が印象に残ります。
『お願いですから、おばぁちゃまのあとに歌わせないでください』
これ以降、石崎さんの順番はコンサートの「中トリ」に決まります。
プロの卵や雛の子たちをおいて「大トリ」も考えましたが、それではお待ちになる時間、お疲れになるでしょう。
石崎さんのあとに休憩を入れることになったのです。
2010年10月30日 第7回 椰子のみ・母の声・エーデルワイス
4回目は、椰子の実・母の声・エーデルワイスの3曲でした。山田耕筰の「母の声」は小曲ながらやはり難曲です。本番直前のリハーサルではやや体調を崩されて、リズムも音程も心配だったのですが、本番での集中力はやはり群を抜いていました。ひとつには伴奏者のI君の存在が大きかったと思います。石崎さんのステージでは常に彼が伴奏を担当してくれていました。技術の高さもさることながら、研究熱心で思いやりの心を忘れない好青年です。余談になりますが、石崎さんはいつでも彼のことを「Iさん」と呼んでいらっしゃいました。決して「I君」とは呼ばなかったのです。67歳の年の差を超えて、深い信頼で結ばれていたと思います。(2010年 94歳)
2012年6月16日 第8回 母のいのり・悲歌・かなりや
そして最後のステージ。昨年の夏。(2012年 96歳)
石崎さんの歌には毎回驚かされていました。このときの「かなりや」をステージの下手で聴きながら、私はつぶやきました。「こんなこと・・・って・・・」
教える、というのは傲慢な仕事です。私は極力教えないようにしています。気付いて楽しんで工夫して試行錯誤の中からはじめて、そのひとの歌が生まれるはずだからです。
かなりやの一節「いえいえそれはなりませぬ」の部分のことでした。
杖の代わりにピアノの椅子の背もたれに片手を置いて歌われるのが、晩年の石崎さんのスタイルでした。それでももう一方の手は自由にまた適切な表現空間を編み出している。ですから少しも表現に嫌味が無く、また不自由さも感じさせない凛とした立ち姿だったのです。
そして「いえいえ」という否定のシーン。
並みの歌い手なら、ひょっとすると相当な歌い手でも、「いえいえ」で片手を小さく振るところでしょう。しかし石崎さんは違いました。直前の歌詞を歌い終わるとほぼ同時に「とんでもない!」という表情でそれを打ち消したのです。そして微笑みながら「歌を忘れたかなりやを捨てるなんてことを考えてはいけませんよ」という表情で歌いかけたのです。
歌い古されたはずの単調な童謡が、これほどまでに感動的な美しい物語として蘇るとは・・・この瞬間会場の誰もが「はっ」と息を呑みました。
予感はあったのです。数日前に用意したプログラムノートに私はこう記しています。『童謡のかなりやは石崎さんの選曲です。誰もが知っている歌ですが、石崎さんが歌われると、きっと会場の空気が変わります。雨が降り、そして月が静かに輝きます。歌うということはそうであるべきです』
若い歌い手が次々と巣立つなか、本当に歌がお好きな方々が教室に来てくださいます。石崎さんは文字通りこの教室の看板娘でした。稀有の歌い手であった石崎さんが天に召されたことはとても残念です。
それでも、「おばぁちゃまの歌を聴いて、わたし、まだまだ歌いたいと思いました」50~70代の皆さんがそういいます。
石崎さんと共に学べたこと、感謝いたします。
あの「かなりや」は私達に託された遺産。
それを継ぐことの喜びと重さを肝に銘じています。
つつしんでご冥福をお祈りいたします。
橋本静一
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伯母は2度目の発表会の後、伴奏者のIさんへお礼状を出しました。その時いただいたお返事と他のメッセージをコピーして送って来ました。
Iさんの葉書をご許可を得てアップさせて頂きます。
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「石崎さん
ご丁寧にもお手紙を頂戴致しまして、誠にありがとうございます。
その後、如何お過ごしでしょうか?
僕の方も、前回に引き続き、石崎さんの伴奏をさせて頂いて大変勉強になりました。
堂々と舞台でお歌いになるお姿は、皆様に大きな感動をお与えになられ、僕自身も見習わなければと身が引き締まる想いです。
どうぞこれからもお元気にお歌い続けていって下さい。
こちらこそ、ぜひ又ご一緒させて頂きたいと思っております。
まだまだ寒い日々が続きますが、お身体ご自愛下さいませ。」
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この発表会にはマサコさんと二人、鎌倉まで出かけて聴かせて頂きました。
練習をし過ぎて喉の調子を崩してしまい、心配しましたが、立派に歌い終え、会の後、とても幸せそうに皆さんとお話をしていたことが思い出されます。
橋本静一先生から #2「 I さんのこと」
キク伯母の事 by モニカ
伯母の思い出 byマサコ
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橋本先生が出演者全員に対して曲や人柄のコメントを記しておられるものです。
伯母の部分、一部は本文中にもありますが、ここに全文を載せておきます。
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50年ほど前、中学生の私が教わった「まぼろしの」で始まる合唱曲。鈴木次男さんの編曲でした。賛美歌集より選んだ「母の祈り」は私がリクエストしました。「エレジー」と「かなりや」は石崎さんの選曲です。誰もが知っている歌ですが、石崎さんが歌われると、きっと会場の空気が変わります。雨が降り、そして月が静かに輝きます。歌うということはそうであるべきです。
「おばあちゃまの歌を聴いて、わたし、まだまだ歌いたいと思いました」50〜70代のコムスメの本音でしょう。