在日コリアンの回答 その2 |
日本の植民地政策の結果として、今日の在日朝鮮人としての存在がある。
最近思うのだが、朝鮮籍、韓国籍、日本籍あるいは、両親のどちらかが朝鮮人である場合を含め、出自が「朝鮮」であることを明らかにすることが、差別の対象となりうる人々すべてを在日朝鮮人と規定することができるのではないか。
2. ご自身が在日朝鮮人であることについて語って下さい。
質問が難しい。
3. ご両親が朝鮮から日本に住むことになった経緯について教えて下さい。
1937年、父が12歳の時、祖父に連れられ渡日。
1934年、母が 8歳の時、両親に連れられ渡日。
共に朝鮮での生活が成り立たず、日本行きを決意。
1945年、結婚。その後、今日まで故郷を訪問していない。
(母は7年前に他界。)
4. 現在のご家族について
妻と日本の公立学校に通学する子供(中2の息子、小6、小4の娘)の5人家族。
夫婦で「在日」に関わる会話が多く、長男は若干、閉口しているのではないかと思う。それでもおかまいなしに話すことにしている
5. ご実家での民族的な教育は、どうでしたか。また現在、どのようになさっていますか。
私が12歳の頃まで祖父が健在だった。祖父は、パジ・チョゴリを身につけ、日本語を話さなかった。生涯、その姿勢を変えることのなかった祖父の存在が、私の民族教育の原点でなかったかと思う。
現在、私の子供には、「朝鮮」に関わるあらゆることを語りかけるよう努力はしている。その実は期待しない。
6. ご両親の教育方針について思い出深いお話しがあれば1つ2つ、何か話して下さい。
思い浮かばない。
7. 日本、日本人、日本文化似ついて、感じておられる事を述べて下さい。
日本、日本人、日本文化。この「日本」3連発には言葉につまってしまいます。
8. ご自身が朝鮮人であることを意識なさったのはいつでしょうか。
物心がついてから、朝鮮人であることを意識し続けている。
9. 日本人になりたいと思われたことはありますか?
ありません。
10. 今までで1番悔しかった事は何ですか?
どれが1番どれが2番ということはないが思い出として残っているものを1つ。
今から20年前、朝鮮半島見たさに対島へ出かけた。2泊3日でレンタカーを借りて、朝鮮半島を望む場所を中心に走り回った。快晴続きにも拘わらず、結局この目に朝鮮を焼き付けることなく旅は終わった。
ところが、港で福岡行の船待っていると、1人の男が寄ってきて「誰か待っているの?」と聞くではないか。
「イイヤ」と答える間もなく、今まで乗客と思っていた回りの男たちが急に私を取り囲み、
「警察の者や。外登を見せろ。」
「何しに対島に来た!」
「署へ行こう」
と、四方八方から言いたい放題。押し問答の末、出港直前にやっと解放された。明らかにいやがらせであった。
1人の朝鮮人の、祖国を見たいという夢さえ、日本は拒むのかと当時思ったのを今も鮮明に記憶している。
11.最近の日本人の在日社会に対する変化をどう受け止めておられますか
13.この頃、考えておられることを教えてください。
11番と13番の質問も含めて回答します。
最近、いろんな場所で、朝鮮のチャンダン(リズム)に触れる機会がある。
近くは子供たちの通う小学校や保育園。ちょっと足を伸ばせば、生野民族文化祭、長田マダン、東九条マダン、奈良サンウリム等々。
ハードでいくならライヴハウスでも。それらでは、日本人も朝鮮人もともに歌い踊り、笑い、泣いている。
あーこれが戦後50年の姿なのか。
しかし一方、政治家に眼を向ければ、相変わらずの歴史認識発言だ。それも確信犯がぞろぞろ。私たちはこの落差を一体どう考えればいいのだろうか。
この日本には、かってのアジア侵略に対して反省するパブリック・コンセンサスが育っていないということなのか
あー これも戦後50年の姿なのか。
12.お子さんへの夢、願いを語って下さい。
自らの出自を忘れてはならない。それだけで十分。
15. 在日に生まれてよかったと思っておられますか。
もちろんイエス。在日ならではの経験をさせてもらった。
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