再び「燃える果樹園」 |
友人の家も共働き家庭でした。遊んでお腹がすくと、友人は残りごはんをフライパンで炒めておせんべいを作り、上から醤油を垂らしました。あのおせんべいが、どうしてあんなに美味しかったか今でも不思議でたまりません。
いつどこで、この文を読んだのか、もう忘れた。
「それは、お互いに両親の貧しい辛さも自分たちの淋しさも共有出来ている友人だからでしょ。お金持ちの友人の所でしゃなりしゃなりしたお母さんが『どうしてこんな貧乏人の家の子が遊びにくるの?』と思いながら、素敵なお茶をおいしい和菓子を振る舞っても、そんなことにはならないヨ。」
こんな問答がエコーのように響く。
訳者の鴻巣さんがシーナ・マッケイの得意とする手法は
「オーバーラップと癒着」とおっしゃるが、正しく、
「オーバーラップと癒着」が読者である私の全身に起っている。
作家シーナ・マッケイの 底に流れるこのバイタリティ。
怖いまでの表現力は、お金や物の力が極めて薄い世界から生まれて来たものなのか?
主人公の少女の名は「エイプリル」。
エイプリルの両親のお店は「ティールーム」。
カナダの下宿時代、4月に突然もらわれて来た子猫に付けられた名前が「エイプリル」その子猫が、前から飼われていた犬ピピンに払いのけられた時、大型犬の爪と力の強さに「のど」を切られて、アッという間に死んでしまう。ピピンに殺意はなかった。
この思い出が唸り出てしまう。
どこを取っても、平凡そうでいて生半可ではない内容と表現に溢れている。
例えば「氷砂糖で作った入れ歯」のおみやげ。
歯ぐきはピンク・シュガーで作ってある。
そういえばカナダで、ペニス型のキャンディを見たことがある。
勿論大きくて、ちゃんとしゃぶれるようになっていた。
エイプリルには、家庭で虐待を 受けているルビーという友達がいる。
2人は、ドブの悪臭ただよう中、草ぼうぼうの校長公舎に探検に行き、担任教師のミス・フェイと校長のラブシーンとベッドシーンのちょうど真ん中あたりを覗き見する。
「どうして先生は服を脱いでいたんだと思う?」
「さあね。暑かったんでしょ。ふたりは恋人どおしだと思わない?」
「あたりまえじゃない。どっちもほかに恋人なんかできる?」
私と私の相棒も、いつか、こう言われる日が来ますように。