純情と抒情 byマサコ |
萩原朔太郎には「純情小曲集」があり、佐藤春夫には「抒情新集」がある。
「純情」の感じはすぐわかった。
朔太郎が、自序で「『あやめ香水』の匂いがする」と語っている。
一方、佐藤春夫は、抒情新集の小引きに「天地を動かし鬼神を泣かしめんや」と古今集序を持ち出し「みな身辺の雑詩」と説明している。
「抒情」は、恩地孝四郎を理解する上での重要な言葉である。
あー、だのに私は抒情というものがよくつかめなかった。
「純情」はわかりやすく、「抒情」は何かもっと高級な感じがしていたところ、
金時鐘さんの著作で
「とりわけ『抒情』という、詠嘆の情感としてしか受け止められなかった感性の流露が、実は人間の思惟思考の底辺をなす内質そのものであることを知らされた」
を読んだ時、今までにモヤモヤしていた「抒情」の姿が、はっきりと認識できた。
「純情」ありきたりの感情レベル。
恩地孝四郎は「抒情」の本質がわかっていたから、その思想を創作版画で表現したのだと思う。
このことは、恩地孝四郎が版画家だけではなく哲学者であったことを証明している。
私は、朔太郎の「純情小曲集」では「こころ」と「静物」を愛した。
春夫の「抒情新集」では疎開先の信州で千代夫人という恋女房がいながら、
「有夫の婦人S子」に愛情を寄せていた春夫の「意馬心猿歌」の第二節
みな幻と知れリとも
夕(ゆうべ)の雲を追い求め
休むひまなき心もて
流るる水に花を摘む
を好んでいる。