#2 台湾と私 台北にて その3 2016年12月15日 byマサコ |
基隆(キールン)の港に向かう親子4人の姿を思い起こさせた。
ヒノキチオール研究の父。 空襲警報に怯え続けた耳の鋭敏な5才の息子。
阿波丸で兄を失った母と母が手を引く1才半の娘。
そんな映画のシーンを見るような家族の姿が、69年前の自分の家族の歴史として写る。
そう思ってしみじみ71歳の上の姉の顔を眺めてしまう。
言葉は、面白い。
「引き揚げ」という言葉でしか知らない史実を、
台湾ははっきり「強制送還」としている。
国民党の台湾人虐殺の最中であったから、外省人が台湾を乗っ取り、
使った言葉かもしれない。
今日、台湾の人々が日本に好意的なのは中国人の行為に比べて
日本人が幾分マシだったからだと思う。
蒋介石が来なければ、我々の家族はずっと台湾に住み続けたかもしれない。
さあ、東門町の祖父母の家に出かけるだ。
三姉妹は中国語が、からきしできない。
習いかけの三女は、21ある中国語の子音中、
まともに発音できるのは半分くらいの気がしている。
言葉の分からない者同士の騒動は、いつもドラマチックだ。
そして、白けてしまう。
今回、その訪問しても通じないであろう言葉に関して、
まずホテルのコンシェルジュのナンシーさんが
お土産と一緒に渡す手紙を中国語にして助けて下さった。
続いて、買い物に寄った祖父母の家の近所のお茶屋の女性店長が
通訳を申し出てくださった。
あーなんという女子会であったことか !
女性パワーで新たな世界が開けたこと深く感謝したい。
グールドの生家ように、音楽と平和を愛する人々が住んでいた家。
それからは、「ママ、ママ?」と 呼んで庭を走り回った。
もう少しお待ちください。
なんの写真を入れたか、探さなくてはなりませんので。モニカ
それとおとといだったか誰かが来ている話。 たぶんこの人だろうということがわかりました。マサコ