web版9 5ヶ月だけの専攻科生 by O.F.(49回生) |
入学前後のこと
1934(昭和9)年に加古川小学校に入学しましたが、その3年前の1931(昭和6)年に満州事変が、1937(昭和12)年には支那事変が始まりました。
小学校では、毎月朔日(ついたち)朝礼の時には全校生(高等小学校も併設しており約2000人)の閲童式があり、歩調を取った軍隊式の行進で6列横隊もきれいにきびしく教育された校長先生は威厳を持っておられました。
1940(昭和15)年の女学校への進学では、私達の時から入学方法が変わりそれまでの筆記試験がなくなり、口頭試問と面接の内申で選考となりました。日ノ本女学校の小さな一室で面接試験を受けました日のこと、夢のような気がします。それ迄とはすっかり異なった日ノ本の生活は驚きでした。
5年生までは2クラスずつでしたが、何故か4年生は1クラスでした。毎朝1年生から順番に讃美歌「みよや十字架の旗高し」に合わせて講堂に入り祈りを捧げ、その日の担当の先生から道徳に関したやさしいお話を聞かせていただきました。讃美歌を歌う朝礼は厳粛な時間でした。
ある日5年生まで全校生が集まっている中で「今年の1年生は開校以来一番成績が悪いですよ」とお優しく波岡先生に言われて、私共49回生は大変名誉な?お言葉いただきました。当時の5年生の方々は本当にお上品で綺麗でお淑(しと)やかで素敵なお姉様方で、私達1年生の憧れでした。私も5年生になったらあの方々のようになれるのかしら、なんて不思議な気持ち抱きながらお一人お一人を見つめていた日の自分が忘れられません。
その頃の西海先生のお言葉「今の5年生は素敵とあなた方思っているでしょう。あのクラス1年生の時は騒々しいクラスで……」を伺って、私達びっくりでした。私も日ノ本に入学できてよかったと思いました。
3年生の頃は、登下校はモンペ姿で校内ではスカート、暫くそんな時期もあった様に思います。女の先生方は袴(はかま)をお召しでした。
聖書の大塚先生の時間は、皆とても楽しみにしていました。国語の前川先生、数学の村上先生、歴史の西海先生、お一人お一人お優しい先生方ばかり、懐かしい授業時間が思い出されます。英語は発音が米国人のニコルソン先生、文法が山口先生でした。英語は、3年生から選択科目になり、1クラスになりました。また私達の音楽の先生は芳賀先生でしたが、ドイツ人のタッピング先生もおられました。
戦時色が濃くなって
校内に小さな売店がありました。朝申し込んでおきましたらパンやおいなりさん等お弁当の用意もして下さいました。でも売店があったのは2年生迄位だったでしょうか。
時局につれてニコルソン先生も帰国されることになり姫路駅のホームで誰からともなく讃美歌「神ともにいまして」の綺麗な旋律が流れ、お別れしました日のこと、夢のような情景でした。
世相も厳しくなり戦局に翻弄(ほんろう)されていきました。
1938(昭和13)年頃の勤労奉仕で兵営において弾丸磨きをする生徒達
この頃はまだ学業をしながらの国家への奉仕であった。
会社では女子校は日ノ本と上郡の女学校だけでした。日ノ本の生徒だけは皆事務の仕事でした。私は総務課人事係で職員さんの日々のタイムカードから毎月の出勤日数を集計する仕事でした。ひとりの監督さんの元でご指導戴きながら、間違えば職員様方のお給料に響きますので一生懸命でした。皆様の徹夜業務の多かったこと、皆様よく頑張られたと思います。
後で思えば先生方の御苦労も大きかったのでしょう。寮も新築、家具も全部新調で物資不足の頃でしたのに私達を大切に慈(いつく)しんでくださったのです。ちなみに寮は道路に沿った小高い山に細い登り道をつけ、静かな松林の中にポツンと建てられた単調な建物でした。昭和60年頃でしょうか、一度訪れました。坂道は草ボウボウで、寮は取り壊されて跡形もなく、一面静かな自然いっぱいの緑でした。その場でしみじみ有難さに感動したことでした。
最初の頃は友達との寮生活も楽しく毎週公休日に家に帰っていましたが、それも出来なくなり食料も配給だけで空腹や寒さで辛かったこと思い出します。
進水式があると聞き、遠く船台まで見に行ったことがあります。大きな輸送船でしたが乗っていたのは、ほとんど学生さんだったと思います。大きな船上では小さくしか見えませんでしたが、けなげに一生懸命働いておられた様子が忘れられません。
卒業そして敗戦
動員で学校を離れ、学校の変動は何も知らず、1945(昭和20)年3月に卒業式だけ帰校しました。4年生と一緒の卒業式でした。ちなみに5年制の女学校は姫路では県立女学校と日ノ本だけで、他の3校は4年制でした。
久しぶりに登校した日ノ本におられたのは太田順治校長で、学習院からお見えの方だとか、卒業証書も太田先生のお名前でした。波岡先生のいらっしゃらないことを痛感しました。卒業記念写真1枚とてなく慌ただしく相生に帰りました。
なぜ4年生と一緒の卒業なのか、太田先生がいつから日ノ本にご就任になられたのか、何の説明もなく、私達がお世話になった先生方のお姿もおみかけしなかったと思います。卒業の感動も何も覚えず、単調な短時間の式だったことだけが頭に残っています。ただ久しぶりの校舎講堂で、過ぎし日のことなつかしく思い出された事でした。
翌4月8日、私は軍属として加古川尾上の飛行場に基地のある第6航空輸送隊に配属になり、家から通うことになりました。家では兄も四国松山の軍隊にいましたし、弟も学徒動員で出動し、家族は両親と末弟に私の4人と寂しくなっていました。
航空輸送隊では衛生係でしたが、特にこれと申す仕事も頭に残っていません。
でも部隊では特攻兵の方もいらっしゃった様で、衝立(ついたて)の向こうで上官に「申告」と申され、報告されていましたお声が忘れられません。
49回生のうち上級学校に進学した人と軍属を選んだ何人かは、1945(昭和20年)3月で日ノ本を離れましたが、学徒動員された友人のほとんどは、日ノ本女学校の専攻科に進み、終戦までの5ヶ月間は専攻科の生徒として播磨造船所に勤めました。都合5年5ヶ月も日ノ本女学校に在籍した学年は49回生だけだと思います。
日ノ本は学校としては特に大きなダメージを受け、波岡先生も本当にお気の毒でした。廃校寸前だったそうですがキリスト教から離れ、一般の女子校として転換発足出来たと聞いています。
涙ながらに終戦のこと聞かされたのは暑い日だったのを思い出します。今の平和が何時迄も続きますことを願ってやみません。(2015年1月記)
Q&A
Q:閲童式とはなんですか?
A:小学生が隊列を組んで歩く様子を先生方がご覧になることです。兵隊さんならば閲兵式というところでしょうが、児童なので閲童式と呼ばれていました。
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香保のコメント
★1940昭和15年入学、1945昭和20年卒業の49回生は94名
★登場する先生方
西海こせん先生:歴史、昭和11年4月~昭和21年6月
大塚昇先生:聖書、教頭、昭和14年10月~昭和19年6月、昭和23年9月~30年10月
前川アイ先生:国語、昭和13年2月~昭和19年頃、35回生
村上恵美子先生:数学、昭和5年4月~昭和32年3月
ニコルソン先生:宣教師、聖書、英語、昭和13年12月~昭和15年11月
山口(山下)栄子先生:英語、昭和16年1月~
芳賀(田山)満恵先生:音楽、昭和17年1月~昭和18頃、42回生
タッピング先生:宣教師・音楽、大正12年~、昭和14年1月~昭和15年11月
太田順治先生:理科・7代校長、昭和19年7月~昭和21年10月
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