Web版27-1 父の入獄 by 波岡維作 |
逮捕
戦時中、1944年(昭和19年)4月2日の朝早く刑事警察官5、6人が私達の家に現われ、「ちょっと警察に来てください」と言い、父を拉致し、残った3、4人は土足で家に入り告発の材料になる様なものを探し廻り、結局父の盛岡中学時代からの日記を全部及び数冊の本を持って行きました。
父が姫路の拘置所にいる間、合田(?という)刑事に調べられ、ひどい目にあったようでしたが、このことについてあまり言いたくなかったようでした。私の役目は母のつくった弁当を拘置所へ持って行くことでしたが、私が「何時父が出られるのか?」と聞くと何時も「もう2、3日です」という答えでしたが実は真っ赤な嘘でした。
神戸の拘置所
姫路の拘置所に20日程いた後、父は神戸の拘置所に移されました。こうなると弁護士が必要なので、前から親しかった大倉弁護士にお願いしたら、快く受け入れてくださいました。実は大倉さんにとってはそう簡単なことではなかったそうです。戦後に伺ったことですが、大倉先生は民事の弁護士ですが父の場合は刑事弁護士が必要だったのです。先生は父の弁護を引き受けてくださり、刑事の勉強をされたそうで「お陰で民事の少ない戦争中でも刑事の仕事がたくさんあった」と笑っておられました。
神戸での囚人の扱いは姫路より良く、時々、外国人の通訳を頼まれたこともあったそうです。大倉弁護士のお陰で2年の求刑が1年の刑となりました。
面会
父は80日神戸の拘置所で過ごしたあと、岡山の監獄に行くことになりました。面会は1ヶ月に1度だけ許されましたが、戦争末期の当時の汽車の旅行は極端に制限されて、汽車の切符は何処かの証明でもない限り手にすることはほとんど不可能でした。
でも神は私達をお見捨てになりませんでした。父は1928年東北の遠野バプテスト教会から母と祖母(母のフランス人の母)と9カ月の私を連れて姫路市綿町にあったバプテスト教会の新しい牧師となりました。この教会と同じバプテスト系の日ノ本学校とは深い関係にあり、信者の生徒はほとんど全部この教会の礼拝に参加して居りました。父は女学校の理事もしていました。
この教会に日露戦争で両眼を失った吉益という信者がいました。この方は病院で療養中にある宣教師によって熱心な信者となった人で、日曜日の礼拝ではいつも同じ席に座っておられました。その席の前には分厚い点字の讃美歌がおいてあったので、どこが吉益さんの席か誰でもわかりました。吉益さんは姫路盲人会、会長であり皇后陛下より手で読める時計を下賜された方で姫路では有名な人でした。その吉益さんが「奥さん、岡山に面会に行く時には私も一緒に行きましょう」と言われ、それが大助けとなりました。もう詳しいことは忘れてしまいましたが、姫路駅でも岡山駅でもこの老いた失明の元軍人とその連れの女性を列車の中に押し込めることはできず、空席のある車両(例えば二等車)へ案内したと思います。そのようにして吉益さんと母は毎月、父が刑務所を出るまで面会に行きました。
後で聞いた父の話によると岡山の監獄での仕事は軍服に釦を縫い付けることだったそうです。この仕事にも特有の方法があって私達も父から教わりました。
日ノ本の変化
父の去ったあとの日ノ本女学校はすっかり変わってしまいました。太田順治という元学習院の先生だった人が校長になりました。この太田という人は姫路とは全然関係のない方で、きっと県庁の推薦で校長になったと思います。
図画教員が手を加えて下記校章が制定された
写真で見る日ノ本学園の100年36頁より
Hinomoto Jo Gakko の頭文字 H J K を三角形 ( ▽ )の中に配した校章は変えられ、校歌も『朝日 かがよふ 天守の甍 夕月 にほふ 社の梢』で始まる歌になってしまいました。
Tという書道の先生はもと信者でしたが、生徒の前で「もう私はキリスト教の信者ではありません」と宣言し、生徒の持っていた聖書と讃美歌を取り上げて運動場で燃やしてしまいました。それを見ていた生徒達は涙を流していました。「チャペル」の正面にあった十字架は削り取られ捨てられていたのをある生徒は家に持ち帰ったのですが、その生徒はT先生からひどく叱られたそうです。元の規定によると日ノ本の理事は皆信者でなければならなかったのですが、これは無視されて新しい理事は一人を除いて他は皆信者ではなかった。
父帰る
このような状態で新しい年1945となり、私達3人家族は父の1年刑期の終わるのを待っていました。父がいなくなった後も残った3人はささやかな家族礼拝を毎夕続けており、特に父の為の祈りをささげておりました。
4月19日にも例によって夕拝をしていた最中に「ガラッ」と玄関が開かれ「ただいま」という声が聞こえました。「まさか父が」と思い玄関に出てみると父が笑顔で立っています。
これは私達の祈りが叶えられたとしか思えなかったです。父は痩せて小さくなっていましたが、声も顔も1年前と同じです。刑期の終わる40日前でした。それから約4か月後に戦争は終わりましたが父の出獄と終戦までの期間に姫路は米空軍、爆撃によつてほとんど全焼してしまいましたが、日ノ本女学校と私達の家は奇跡的に焼け残りました。私は当時姫路に居ませんでしたが父と弟がバケツの水で近所からの延焼を防いだということでした。9月には米軍が姫路にも進駐してきました。もうこうなると太田校長は日ノ本女学校におられなくなり1946年3月に退職され、同時に父が復職し1970年に亡くなるまで校長をしていました。もっとも最期の数か月は父は病床についていたので井口先生が校長代理でした。
***************
香保のコメント
★波岡維作氏は、波岡三郎先生のご長男で、1928年4月岩手県遠野で出生。
以下は波岡三郎先生が逮捕された後の状況として日ノ本75年史(1968(昭和43)年発行)に記載されています)(141頁~)。
波岡三郎先生が逮捕された時、
「心に同情をもつ者は黙して語らずただ無責任な者のみが校長及びその一家を白眼視した。日ノ本に関係の深い、有識者と思われる人すらもこれに同調し、当時丁度姫路高校を受験中の長男波岡維作氏の合格を邪魔し、その後の神戸工専の受験にも不利な発言をした。(成績優秀であった波岡維作氏は戦後アメリカの大学に学びPh.Dの称号を得て卒業、現在ワシントン州立大学で教授として数学を講義している。)その他にも有形。無形の迫害が波岡家に浴びせられた。」
★維作氏は、1951年に B.A.をオタワ大学(カンザス州)、1953年にM.Aをカンザス大学、1956年にPH.Dをカリフォルニア大学バークレー校でそれぞれ得された世界的に著名な数学者(位相空間論と函数解析学)、勤務先は コーネル大学およびワシントン大学
★1948(昭和23)年4月から1949(昭和24)年7月まで日ノ本学園で数学を指導され同年8月渡米されました。
★本文中の戦時下の校歌・校章の文書は維作先生から届いたものです。
また刑事弁護を引き受けられた大倉正治弁護士の子供さんは当時日ノ本の生徒でした。
★敗戦に伴い「太田順治校長の続投を主張する人あり、卒業生を校長にという運動ありで、波岡三郎先生が校長に復職することは容易ではなかった」(149頁)
wiki日本語版
https://ja.wikipedia.org/wiki/波岡維作
wiki英語版
https://en.wikipedia.org/wiki/Isaac_Namioka
********************
★モニカさんのコメント 2017-06-28 11:00
維作先生の進学について、「その後の神戸工専の受験にも不利な発言をした」とある中の『神戸工専』は『1944年(昭和19年)に設立された旧制専門学校。略称は兵庫工専の間違いではないでしょうか?
★ 上記ご指摘ありがとうございます。日ノ本75年史において単に「兵庫工専」を誤って「神戸工専」としたのか、それとも当時は「神戸工専」と呼ばれていたのか、わかりませんね。
モニカさんがwikiで調べた結果は以下のとおりです。(香保)
兵庫県立工業専門学校
1944年(昭和19年)に設立された旧制専門学校。
創立時の名称は兵庫県立高等工業学校(略称 兵庫工専)
創立後まもなく兵庫県立工業専門学校に改称された。
第二次世界大戦下に、工業技術者確保のために国策に合わせて増設された高等工業学校の1つ。
本科(修業年限3年)に機械科、電気科、化学工業科を設置した。
廃止 1951年、学制改革に伴い、新制姫路工業大学(現:兵庫県立大学工学部・理学部・環境人間学部)となった。
同窓会は「姫路工業倶楽部」と称し、旧制工専・新制工学部合同の会である。
*詳しい歴史
1944年1月18日 - 臨時県会、県立高等工業・県立医専設置議案可決。後日、1月18日付で文部省より兵庫県立高等工業学校設置認可(文部省告示第30号)。
1944年1月31日 - 兵庫県告示第69号で設立公示。
1944年4月1日 - 開校。本科(修業年限3年)に機械科、電気科、化学工業科を設置。
1944年4月11日 - 兵庫県立工業専門学校と改称(文部省告示第952号)。
1945年3月17日 - 空襲により校舎・設備を焼失。
1945年10月 - 仮校舎(神戸市立蓮池小学校)で授業再開。
1946年6月24日 - 姫路市伊伝居に移転。姫路工業学校(現 兵庫県立姫路工業高等学校)校地に同居。
1947年3月 - 第1回卒業式。大学昇格運動勃発。
1947年12月 - 兵庫工専復興期成同盟会発足(後の 兵庫県立工業専門学校大学昇格期成同盟会」)
1948年7月 - 兵庫県会議員総会、兵庫県立工業大学設立意見書を提出。県議会了承。同月、文部省に「姫路工業大学設置認可申請書」を提出。
1949年2月21日 - 新制姫路工業大学、条件付きで設立認可(文部省告示第44号)。
1949年3月1日 - 兵庫県告示第294号で姫路工業大学設置を公示。
1949年4月 - 旧制兵庫工専を母体として新制姫路工業大学開学。工学部のみの単科大学として設立(学科:電気工学科、機械工学科、応用化学科)。
1951年3月 - 旧制兵庫県立工業専門学校廃止。
*神戸大学となる続きの記載がwikiこの項にはありません。
★維作先生からの「神戸高等工業学校は神戸工業専門学校となり現在は神戸大学工学部です」とのメールはwikipedia とはかなり違いますが、どちらが正しいのでしょうか 2017年8月3日 香保
Someone objected my use of “Kobe Kosen”, but it is correct. This kokurittsu school was originally “Kobe Koto Kogyo Gakko” which became “Kobe Kogyo Senmon Gakko during the war and now it is a part of Kobe Daigaku Kogaku bu.
*************************
香保のコメント2017年9月10日
維作先生から日本語の投稿をいただいたとき、私は先生に「英語でも書いて欲しい」とお願いしました。そうすれば日本語を知らない維作先生の子供さんたちがお祖父さん(波岡三郎先生)に何が起こったかを知ることができるからです。
私は4回めの台湾訪問から昨日帰って来ました。
今回の旅で訪ねた国立228祈念館は、日本統治下では教育会館と呼ばれており母と伯父(母の兄)が、ピアノの先生が日本に帰国なさるときのお別れ会で2台のピアノで演奏をしたところです。
今は228事件や台湾独立運動の資料が展示してあります。
突然官憲に逮捕されて連れて行かれる多くの228事件の犠牲者のビデオ映像(もちろん後日作られたもの)を見ている私の脳裏では、映像と波岡三郎先生とご家族の姿が重なりました。
*************************
・廃止 1951年
・後身校 姫路工業大学(現 兵庫県立大学)
第二次世界大戦下における工業技術者確保のために、国策に合わせて増設された高等工業学校の1つ。
本科(修業年限3年)に機械科、電気科、化学工業科を設置した。
創立後まもなく兵庫県立工業専門学校に改称された。
学制改革に伴い、新制姫路工業大学(現:兵庫県立大学工学部・理学部・環境人間学部)となった。
同窓会は「姫路工業倶楽部」と称し、旧制工専・新制工学部合同の会である。
1944年1月31日 - 兵庫県告示第69号で設立公示。
1944年4月1日 - 開校。本科(修業年限3年)に機械科、電気科、化学工業科を設置。
1944年4月11日 - 兵庫県立工業専門学校と改称(文部省告示第952号)。
1945年3月17日 - 空襲により校舎・設備を焼失。
1945年10月 - 仮校舎(神戸市立蓮池小学校)で授業再開。
1946年6月24日 - 姫路市伊伝居に移転。姫路工業学校(現:兵庫県立姫路工業高等学校)校地に同居。
1947年3月 - 第1回卒業式。大学昇格運動勃発。
1947年12月 - 兵庫工専復興期成同盟会発足。後に「兵庫県立工業専門学校大学昇格期成同盟会」となる。
1948年7月 - 兵庫県会議員総会、兵庫県立工業大学設立意見書を提出。県議会了承。同月、文部省に「姫路工業大学設置認可申請書」を提出。
1949年2月21日 - 新制姫路工業大学、条件付きで設立認可(文部省告示第44号)。
1949年3月1日 - 兵庫県告示第294号で姫路工業大学設置を公示。
1949年4月 - 旧制兵庫工専を母体として新制姫路工業大学開学。工学部のみの単科大学として設立(学科:電気工学科、機械工学科、応用化学科)。
1951年3月 - 旧制兵庫県立工業専門学校廃止。
以上、3コメントはwikiからのコピーです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/兵庫県立工業専門学校_(旧制)
共謀罪、 こんな無謀な法律が出来上がった今、 大きな意味を持つことでしょう。
昔の歴史と同じような被害者を生まないためにも、 治安維持法と同じ法律は早く無効にしましょう。
渡米前20歳の先生と2017年9月9日、結婚60周年記念日のご夫妻の写真です。
せっかくアップされたのだから、コメント欄にも通知しないと埋もれてしまい、残念なことになるので、今後も追加写真が出た時には、コメント欄で通知してください。
モニカ