web版19 二度と再び戦争は嫌 by 立川淑子(52回生) |
前半の女学校生活
私は日ノ本女学校52回生、1929(昭和4)年生まれで今年(2014年)84才になりました。
1942(昭和17)年1年生に入学した4ヶ月前から太平洋戦争が始まりアメリカと戦っていました。
初めての礼拝に、波岡三郎校長先生から聖書のお話と美しい讃美歌を聞き、素敵な学園に入学が出来た喜びで一杯でした。
3年生の終わり頃から戦争が烈しくなり、姫路にもB29の爆撃機が飛んで来るので防空壕も掘りました。
学校では、聖書や讃美歌を運動場で焼いたそうですが、その現場は見ていません。でも習字の先生であったT先生が、梯子を掛けて講堂正面の十字架を金槌振り上げて、力一杯叩き割っておられた姿を見ました。誰に言われてのことなのかは知りません。
これが校庭に防空壕を掘っているところ
ある時から、波岡校長先生の姿が見えなくなりました。あとで聞いた話によると、スパイ容疑で投獄されたのです。校長が学校におられなくなった時期は、終戦の1年位前だったでしょうか、はっきりしません。おられなくなった理由については、「憲兵に捕らえられて、代わりに学習院から太田先生が校長に来られた」とだけ聞きました。
戦後になって、波岡先生から、捕らえられたとき「礼拝を止めたらすぐ帰してやる、とか、天皇陛下と神様とどっちが偉いか、と詰問された」と聞きました。「ひどい拷問をされた」とも聞きました。
戦争中に校歌も新しくなり校章も桜の丸いものになり、黒いジャバラの入ったセーラー服の制服も廃止、ネクタイも無くされ、代わりに国民服と言って白い衿のついた服を着せられました。その間、生徒には何一つ説明はありませんでした。
担架での移送訓練
学徒動員と空襲
4年生になって兵器を造る工場への「学徒動員」で、A組は校内で兵馬の鞍を縫い、B組は「日本フェルト」工場で軍艦の敷物造りに働きました。「日本フェルト」は城東町にあり、自宅から歩いて通いました。
そこでの作業は、材料の羊毛を洗う・それを乾かす・袋に入れて足で踏む・工場に持っていく・工場で機械にかけてフェルトの布を作るという流れでその他にも炊事担当がありました。10名位ずつ配属され、仕事を交代していきました。
私が炊事担当になると喜んでいた矢先の6月22日の空襲があったのです。
工場は爆弾で丸焼けになり、人や馬の死体を踏み乍ら、涙と共に辿り着いた家では、家族が「淑子は死んだ」と泣いていました。
その後は敗戦まで、仕事も学校もないので、家に待機しておりました。
毎夜のような空襲の度に緑ヶ丘の大歳神社の山に逃げましたが、2~30人くらいの兵隊さんも馬を連れて隣にいたのに驚きました。兵隊さんが逃げるようでは日本は戦争に負けるのではと、どきりとしました。兵隊さんとは一言も口をきいていません。
坊主町にあった自宅は、幸い空襲の被害にあうことなく残りました。坊主町は全面的に被害があったのではなく、ポコポコと焼けた家があったのです。
戦争が終わる
1945(昭和20)年8月15日終戦の日、祖母と田舎にお墓詣りに行き、そこで天皇陛下の御言葉を聞きましたが、雑音ばかりで全く何の事かわかりませんでした。その帰り、今のカトリック教会のあたりを通りかかると、急に耳を塞ぎたくなる様な地響きがしてきました。アメリカの戦車(タンク)が来て、窓から青い目をした恐ろしげな兵隊さんが顔を出して、北の方へ行きました。沢山のタンクでした。怖くて体が震えました。
それから間もなく野里門のあたりの商店街には、ジープに乗ったアメリカの若い兵隊さんが若い派手な女の人連れて、いかがわしい事をしていました。
乞食の様な服を着た日本人は、兵隊さんに手を出して、「ヘイ、チョコレート、チューインガム」とねだると、投げてよこすのを、日本人は拾って食べていました。子供乍らに情けないと思いました。敗戦国の惨めさを知りました。
その頃、まだ日本は十分な食べ物がなく、食べる物がなくて栄養失調で餓死した人もいました。私たち毎日も本当にお腹がすいて痩せ衰えていました。配給のお米も無くてサツマイモ、アメリカからの援助品のコンビーフ、砂糖、缶詰、そんなものでお腹は満たされません。お腹一杯食べられる国に行きたいとどんなにか思ったものでした。
私の住んでいた姫路市坊主町には、インテリの先生方が沢山住んでおられ、栄養失調で亡くなられた話をよく聞きました。
戦後の日ノ本
一面の焼野原に学校は残りました。激動の学生生活の中で、幸運にも生き残った私達は、亡き友のために机に俯して大声で泣きました。
教科は忘れましたが、H先生という髭を生やした年配の先生は、とても軍隊的でよく叱られました。北条口に学校の畑があり、時々そこに連れて行かれ、肥やしをやらされたりするときに、嫌そうにすると、鍬でお尻を叩かれたりして恐ろしい先生でした。
8月15日が過ぎて初めて登校したその日、私達はH先生から、畑に座らされました。先生は、怖い顔して小さな声で口に指を当て、あたりをはばかりながら言われました。
「みんな、よく聞け。日本は戦争に負けてなんかいないのだ。私は一人になってもアメリカと戦う決心をした。私のこの髭のある限り戦うのだ。みんなも、その心を忘れるでないぞ」
全員沈黙のうちに学校にもどりました。
ミッションスクールの事とて、次の日位からアメリカの進駐軍の兵隊さん、背の高い鼻の高いハンサムボーイがジープで乗りつけてきます。英語の先生たちは盛んに話され、私達は教室の窓から眺めて先生をとても羨ましいと思いました。
するとH先生、すっかり髭をそって、「私の英語通じました。通じました」と、それは嬉しそうにペコペコとアメリカ兵に笑顔をふりまいていました。そのことはびっくりでした。
間もなく講堂で日曜礼拝が始まりました。すてきな軍服と帽子をかぶった兵隊さんがたくさん礼拝に来て、大声で讃美歌を一緒に歌ってくれて楽しかったです。嬉しかったです。
釈放された校長先生や戦争中アメリカに帰国なさったビクスビー先生が戻られました。
ビクスビー先生は日本に駆けつけて、初めての授業に黒板一杯に「ジングルベル」の歌を書いて、「アメリカのクリスマスは、この歌一色です」と言って、体一杯ゆすって、教えて下さったのです。それが初めて聞いた「ジングルベル」でした。
次の時間ビクスビー先生は、椅子を丸く並べて座らせ、「これまでは先生の言われることを聞くだけの授業でしたが、これからは、自分の考えを人の前ではっきり言える人になって下さい。これが民主主義の第一歩です」と語られ、各自の意見を述べる練習をしました。始めは皆、ぎこちなかったですが、よい勉強でした。
ビクスビー先生といえば、美しい声で聖歌隊の指揮などしてくださった事が忘れられません。
私もやがて聖歌隊に選ばれて、毎日放課後きびしいビクスビー先生の指導を受けることになりました。ある日のことです。先生が来られるまで皆で稽古をしないでさぼっていました。先生は青筋を立てて怒られ、職員室に籠ってしまわれました。一生懸命謝ってやっと出て来て下さった事、忘れません。お陰ですてきな聖歌隊になり、旧制姫路高等学校の音楽会などによく歌いに行きました。
卒業前に、私を含めて同級生5人が、戦後初めて波岡先生から洗礼を受けることになりました。その準備のため戦後すぐに教頭として来られた永井貞雄牧師(姫路野里教会の中嶋嗣美牧師60回生の父上)からそれはそれは熱心な指導を受けました。以来65年間「姫路野里教会」に出席しております。共に受洗した親友の高田千佐子さんは、日ノ本幼稚園の園長を勤め、ずっと姫路教会に通っておられましたが、2014平成26年6月天に召されました。
信仰は一生の宝です。日ノ本学園は私達の誇りです。
Q&A
Q:どこで何をしているときに戦争が終ったのですか? 戦争が終ったことを知った時、胸をよぎった思いは何でしたか?
A:学徒動員先の日本フェルトが爆撃を受けて仕事ができなくなっており、学校に行くことも出来ない状態で家にいましたが、祖母とお盆の墓参りに例年のとおり妻鹿に出かけたところ、墓の近くの親戚に「ラジオを聞くので12時には戻っておいで」と言われ、その家でラジオを聞きました。しかし内容がよくわからず自宅に帰ったときに、父から「戦争が終った」と聞きました。「これで逃げなくていい。夜、電気がつけられる」と思いました。
Q:敗戦の日に米軍の戦車の隊列をごらんになったのですか?
A:私の記憶では、天皇のお言葉を聞いた日と、祖母と一緒に歩いていて戦車を見た日は同じなのです。
Q:3年生の終わり頃、空襲から身を守るために壕を掘ったとのことですが、どこにどんな壕を掘ったのですか?
A:住んでいた坊主町の家の庭に防空壕を掘りましたが、それは座らないと頭が壕の外にでるような小さなものでした。それとは別に、日ノ本女学校の前の国道の歩道のあたり(神屋町付近))に10個位、大きな豪を掘る手伝いをしました。こちらはだれでもが入れる壕でしたが、私はそこに入ったことは、一度もありません。
Q:親族には戦死あるいは戦争でひどい目にあった方はなかったのですか
A:私の兄は旧満州の日本の大学に行っていました。敗戦の日にロシア人が学校に入り込んで、日本の学生を追い払いました。トラックに乗せてシベリヤに送られる途中で、若い兄は飛び降りて一目散に逃げて捕虜にならずにすみました。以後は中国人と偽って野菜を売ったり知人に借金したり生きたと聞きました。
1年後、漸く興安丸引揚船で舞鶴に着き、姫路に帰りました。ボロボロの服を着ていましたが、親はどんなに喜んだことでしょう。暫くしてまた大学に行きましたが、一生涯この時の過酷な体験を忘れませんでした。
また夫の長兄(26才)がビルマで戦死との報が入りました。実は餓死であったことを聞き、姑は大事な長男を失った悲しみで慟哭しました。義母は、毎年天皇陛下が武道館で述べられるお言葉を聞きながら涙を流していました。90才で亡くなる時まで一生涯深い悲しみを背負って生きた姿を、嫁として長年共に暮らした私は、戦争はどんな理由をつけてもしてはいけないと心に思うようになりました。
網干の勝原の里に村の戦死者の墓標が並んでいます。通る人がお花や水を供えて下さっています。夫亡き今も時には一人でお墓を訪ねます。
Q:亡き友のために泣いたとありますが、亡くなった方はどんな方でしたか?
A:私が通っていた野里小学校に転校してきて、一緒に日ノ本に進学した小畑さんです。小畑さんは、川西航空機(戦闘機を造る会社)のそばの川西町に住んでいました。朝早くアメリカの飛行機が川西航空機に爆弾を落しに来た時、家の壕に入っていたのですが、爆弾が落ち一家全滅と聞きました。目の大きなとても人なつっこい何時も朗らかな人で「お母ちゃん、お母ちゃん」というその呼び声が今も耳に浮かんできます。
Q:後輩へのメッセージを
A:二度と再び戦争は嫌です。憲法九条を死守して楽しかるべき青春を大切に、これが私達からのメッセージです。
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香保のコメント
★1942昭和17年入学、1947昭和22年卒業の52回生は51名
★51回生58名と52回生51名は同学年で入学し、51回生は4年で52回生は5年で卒業
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