web版22 信仰に生きた父と母 by 大塚和子(62回生) |
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はじめに
日ノ本学園高等学校の同窓会から、戦争の記録を集めているとの連絡を受け取ったとき、私の脳裏には断片的ではありましたが、70年前の記憶が鮮やかに浮かんできました。
この少女のリアルな記憶をそのまま Ⅰ 私の戦争の記憶 の項に書きました。
また日ノ本に、ある時期それぞれに、教師としてまた学生として所属していた父と母の思い出を記録しておきたいと Ⅱ 父の愛と母の教え の項を書きました。
「戦争とわたし そして日の本」の出版(2015年12月)後の奇跡的な出会いについては、機会があればまとめたいと思っています。
Ⅰ 私の戦争の記憶
シーン1
1939(昭和14)年生まれの私は、戦争の記憶を辿ると、5才、6才の少女の頃に戻る。
日ノ本女学校に奉職していた父、大塚昇がいきなり、相生にある播磨造船所に移り、そこからあまり遠くない所にあった二階建ての家に、とりあえず住むことになった。1944(昭和19)年のことである。
そこには祖父、父、母、兄、生まれたばかりの弟と6人で住んでいたが、今から思うと、その頃は戦争が最も激しい時だったのだろうか、毎日のように、B29が、唸りをあげて、どこからともなく飛んできていた。
2階にいて、窓から手を出すと、届きそうな程近くであった。飛行機は、轟音をとどろかせながら頭上を通り過ぎていき、その後に花火のような焼夷爆弾を無数に落としていった。その下で、何が起こりどれだけの人の命が奪われていたかなど知る由もなかった少女は、ただ「あぁきれい」と見とれていた。機銃掃射も用いていたであろうことは、後に知った。
シーン2
ある日「早く防空壕に入りなさい!」と母が、気も狂わんばかりに叫んだ。
少女は、玄関の土間に掘ってあった、畳1枚くらいで深さ約1mの臨時の防空壕に飛び込んだ。
「両手で受けて!」
母は、上から、生まれたばかりの弟を投げるようにして手渡した。
少女は、しっかりと抱きかかえ、そこに、じっとうずくまっていた。その時、弟が泣いて困ったという記憶はない。母は、運んできた重い畳を頭の上に被せ、二人をしっかり守ってくれた。
シーン3
またある日「B29が、そこまで来ているから、すぐ裏山の防空壕に逃げなさい。早く!」と叫ぶ声に、少女は脱兎(だっと)のごとく飛び出し、10分ぐらい全速力で走り、防空壕に飛び込んだ。
なぜか、今思うに 「すべり込みセーフ」のような気持ちであった。先に入っていた大人が、しっかりと捕まえていてくれた。
なにしろB29は、背中のすぐ後を追いかけていると思い、振り返ることも出来なかったので、前からのんびり来る牛に、もう少しでぶつかるところであった。
当時、毎日枕元には、叔父から貰った小さな人形用の宝物のたんすを置き、いつでも持って逃げられるようにしていたが、それどころではなかった。
どういうわけか、今思い出しても、戦争の恐怖体験はほとんどないが、それは、5~6才という年令と、両親に守られ、安心の中で過ごせていたことによるのかもしれない。しかし戦争から70年が過ぎた今も、これらのことを、はっきりと思い起こされるということは、少なくとも、「戦争は、もう二度といやだ!」という思いに、しっかりと繋がる。
Ⅱ 父の愛と母の教え
父 大塚昇とキリスト教
1907(明治40)年生まれの父が、初めてキリスト教に出会い、教会に通い始め、洗礼を受け、その後、なぜ神学校に行く決心をするに至ったかを知りたいと思った。
幸い、父が20代に通っていた東京バプテスト深川会館の教会報の中に、いくつかの文章が掲載されているので、そこから伝道へと押し出されていったいきさつを少し読み取ることができる。それは1926(昭和元)年の23歳から1938(昭和13)年の32歳までの、まさに青春時代に書いたものなので、生き生きとした空気が伝わってくる。
父は、雪を頂く山々、広い牧場、りんご園、創成川など美しい自然に囲まれた北海道札幌に生まれ、旧制高校まで住んでいた。近くにはクラーク博士の創設した札幌農学校があり、キリスト教は、内村鑑三、新渡戸稲造等によって広められ、多くの教会も建てられていたので、父はそれらの環境の中で次第にキリスト教に感化されていったのではないだろうか。
その後、東京千駄ヶ谷にあった実家に戻り、間もなくクリスチャンの友人に誘われ、近くのバプテスト三崎町教会に通うようになった。その友人の話によると、札幌農学校2期生の伯父の影響もあって、まっしぐらに求道し、洗礼を受け、横浜にあるバプテストの関東学院で神学を学び、伝道者としての道を歩み始めた。
ちょうどその頃、保育の学びや、ルッター研究のため母禎子(よしこ)は上京していた。著名なルター研究者である佐藤繁彦先生の主宰する「ルター研究会」にも属していたらしい。ルター研究会発行の「ルター文粋」が手元に残っている。
(昭和6年ルッター研究の時の1冊を)新しく印刷して頂く」とあり、
末尾には1年分会費1円50銭(海外2円)、3年分会費5円(海外8円)とあります。
父はこの頃母と出会い、結婚し、バプテスト四谷教会、原町田教会、浪速教会、そして姫路教会や日ノ本教会で伝道に携わった。その間、若い青年の方が多く教会に出席なさっていたこともあり、日ノ本女学校の波岡三郎校長からの招聘があったと聞いている。
前列左から2人めI.A.さん、その左「妙ちゃん」、右端大塚先生
父は、教師という仕事が好きでいつも楽しそうに授業をしていた。聖書、英語、社会、人文地理などを担当していた。スポーツが好きな父は、いろいろな顧問を引き受けいつも軽やかに生きていた
父の伝道活動
父は、様々な伝道活動に携わっていた。その中でも日曜学校は、最も愛着をもって奉仕していたのではないだろうか。戦争が終わり、日ノ本学園に復帰するやいなや、まず、日曜学校を始めた。教室の一室を借り、そこで校長として、いろいろと工夫しながら楽しそうに教えていた。宣教師の先生方や学生の方も参加してくださり、どこか華やかな雰囲気が漂っていた。
一生徒として日曜学校に出席していた私には、ウィーンでピアノを学び、讃美歌を教えていただいたアリス・C.ビクスビー先生のピアノに向かっていらっしゃる凛としたお姿や、エレガントで美しいカナダの宣教師のマクレラン先生が強い印象として心に残っている。
若い人と楽しむことが好きだった父は、キャンプの中にはいつもいた。礼拝でのお話は勿論のこと、ゲーム、キャンプファイヤーなど、いつも喜びにあふれて参加していた。時々ユーモアのある行為で、みんなをわざと驚かしたり心配させたりしていた。自分が楽しんでいたように思う。
父は、休みの日には時折、市内にあった少年刑務所に、伝道に行っていた。そこで、どのような活動をしていたかはわからないが、ある日、家に出所したばかりの方がいらして隣室で何やらお話をしていたのを覚えている。
その刑務所に、中学時代のクリスマス、何人かで劇をしに行ったことがあった。少しドキドキしたが、涙を浮かべながら見ていた少年の目が焼きついている。
父はこの頃母と出会い、結婚し、バプテスト四谷教会、原町田教会、浪速教会、そして姫路教会や日ノ本教会で伝道に携わった。その間、若い青年の方が多く教会に出席なさっていたこともあり、日ノ本女学校の波岡三郎校長からの招聘があったと聞いている。
聖句と聖画
私の住まいには、2枚の聖句が壁にかけられている。幼少時より家族の目につきやすいところに、掛けられていたものだ。それを見るとき、私は自分の心と向き合えるように思う。
上の「信仰による義人は生きる」(ロマ書1章17)は、黒い木の板に、白字で彫られている。父が赴任したどこかの教会の門に掛けられていたのだろうか。
この掛け軸は、墨筆で、日ノ本学園に長く勤められた品川悠三郎先生の書である。美しい文字であるが、長い間私には読めないままであった。最近になって書道の先生に読んでいただいたところ
「汝、心を尽し、精神を尽し、思いを尽して主なる汝の神を愛すべし亦、己の如く汝の隣人を愛すべし」(マタイによる福音書22章37~39)
という聖句であることが判明した。品川先生の雅号は形水であることも。
また我が家には、3枚の聖画が、それぞれ、居間の壁、柱、柱時計の下に掛けられていた。両親はキリスト教を押しつけることが、一度もなかったが、幼い日より一つ一つの聖画の前に坐っては、飽きることなく眺めていた。
1枚は「ゲッセマネの祈り」で、天に向かって祈っているイエス様は、今思うと悲しみの中での姿なのだが、なぜか私には神々しく写っていた。
「祈るサムエル」は、少女時代の自分と重ねて見ていたのか、サムエルに対してどこか、友達のような親近感を持っていた。
迷える1匹の羊を探し求める羊飼」は羊も羊飼も知らないにもかかわらず、いろいろと想像しながら楽しんでいた。
幼い日より毎日眺めていた3枚の聖画は、その後の人生で、礼拝の時、子どもとの触れ合いの時、又研修会の時などにひょっこり顔をだし、その時々に支えてくれた。
父と音楽
「もう一度掛けて!」
父に、何度も手廻しのレコードを掛けてくれるようせがんだ。父は何度も何度も繰り返し掛けてくれた。小学校高学年の時である。
曲はショパンの幻想即興曲。何度聞いてもその度に心に響いた。1枚しか無かった借り物のレコードだったが、それが私のクラシック音楽との出会いであった。その後、多くの作曲家の曲も好きになっていったが、いつも戻るのはやはりショパンだ。あの時以来、ショパンはずっと私の心の中に住み続いている。
父は、時折ヴァイオリンを弾いてくれた。曲は「ユーモレスク」と「トロイメライ」の2曲のみ。1907(明治40)年生まれの父が何時、どこでヴァイオリンを手にいれたのかは聞かずじまいであったが、いつも楽しそうに弾いていた。父の笑顔と共に、ヴァイオリンの音は子どもたちの中にしまい込まれている。
音楽好きでもあり、又教育にとって音楽は欠かせないものと思っていた父は、よく音楽会を開いていた。開いていたというより、どちらかと言えば、その会の参加者が楽しめるように、陰でいろいろ気を配っている姿が目に浮かぶ。会場は学校の講堂や姫路市の公会堂であった。毎年行われていた市民クリスマスの日は、家族みんなで参加したが、いつも楽しそうに司会をしている父の姿に、少し恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちが、ないまぜになっていた。
学校での演奏者は、原智恵子、安川加寿子、岩本真理など一流の方々であった。目の前で演奏してくださる方々の姿が、今も目に焼きついている。
家族との団らん
世の中がそんなにせわしくない時代であったのか、父は毎日6時頃には帰宅するので、夕食はいつも 家族全員で食卓を囲んでいた。そして夕食を終えるやいなや、座ぶとんを1枚持って父のところに集まり、座ぶとんを囲んでゲームが始まる。
かるた、トランプ、将棋、百人一首、その中に花札もあった。珍しかったのは、投球板といって90センチ四方もあるしっかりした木の枠の中で、指で弾きながら、穴に球を入れるいわばテーブルの上での球つきである。いろいろな種類のトランプ遊びは、すべて父が教えてくれた。かるた、百人一首の読み手は、いつも母であった。父との一対一の勝負は、いつも自分が勝っていたと思っていたが、父の配慮があったことは、大人になってから気がついた。百人一首は、中抜きで読んでいたので、勉強にはあまり役立っていなかった。あの頃にしか経験できなかった、貴重な団らんの時であった。
和子さん小学5年生の家族写真@五軒邸
禎子さんが抱いている幼児は近所の子供
大塚家にはこの他に幼くして亡くなった長男と次女がいた。
@創立60周年を記念して建設された日ノ本学園チャペル
苦しみと悲しみ
人間は誰しも人生の途上で多くの苦しみや悲しみを経験するが、父もそれらを背負いながら生きてきた。それは母も同じである。ふたりにとつて最も苦しい時は、1941(昭和16)年から1945(昭和20)年迄の戦争のあった期間だったのではないだろうか。その間に長男を6歳で、次女を1歳で亡くしている。
ある時期父は、連日特高に呼ばれ、尋問を受けていたと母から聞いている。日ノ本女学校も、戦争の余波を受け困難な時であった。その時の詳しい事情は幼かったため知らないが、相生に移り住むことを余儀なくされた。それは1944(昭和19)年の戦争が最も激しい時であったので、連日B29が父の勤務先の播磨造船所めがけて爆弾を落していた。その度に防空壕に逃げ込んだ。父は責任感が強かったのか、祖父と4人の子どもを母に託して造船所に行っていた。母は必死で子ども達を守った。
このように最も苦しい時だったからこそ、二人は信仰による絆を強めていったのではないだろうか。
父の最期
美しい山々、広々とした土地、清らかな川、そして広いりんご園のある札幌に旧制中学まで過ごした父にとって、そこがふる里であり、思い出のいっぱい詰まったなつかしい地である。
ある年、そこで国体が開催され、当時、卓球部の顧問をしていた父は、珍しく引率を申し出たらしい。もうその頃不治の病に冒されていた父は、短い期間であったが、ふる里でなつかしい友人に会い、幼い日に遊んだ場所をなつかしみ、そして思い残すことなくふる里を後にしたのではないだろうか。
その帰りに東京で診察を受け、そのまま姫路の播磨病院に入院した。多くの方々がお見舞いに来て下さったが、その度に苦しい痛みの中にもかかわらずにこやかにお別れと感謝を伝えていた。私は、それを細くなった背中を摩(さす)りながらそっと見ていた。東京からお別れを覚悟して来ていた伯父が、号泣しながら、このような苦しい時にどうしてこんなに人々に接することができるのかと言っていた。
父は、母に見守られながら、母と出会い結婚したことを感謝し、子ども達への言葉を伝え、「苦しい時にも神は存(い)まし給う」との言葉を残し、天に召された。
学校から帰っていた子ども達は母から「今、召されたのよ」と聞かされた。そして、「静かに目を閉じていた父は、最後の瞬間はっきりと目を開き、まるで天使がお迎えに来てくれたかのように輝き、そして静かに目を閉じたの」と伝えた。
1961(昭和36)年10月16日、日ノ本学園での葬儀には、造船所時代の方も含め、多くの方々が参列して下さり、講堂はいっぱいの人であった。その時の数名の方の弔辞を、母は大切に保管してあったので、改めて読み返してみると、それぞれの方の、父を惜しんでくださった心情が伝わってくる。
「慕われて菊に埋もる遺骸かな」と詠んだ伯父の言葉を、母は遺影の裏に書き残している。
母 大塚禎子(32回生)と教会
85年にわたる人生の中で、母は多くの教会に出会った。そこでキリスト教に触れ、学び、信仰を得、パブテスマを受けた。その間どれ程多くの師、信徒、友人と共に歩んできたことだろう。
祖父が洗礼を受けた高知教会で、母は幼児洗礼を受けた。150年程の歴史がある高知教会は、もうすでにその頃、多くの信徒や宣教師の方々がおられ、男女は平等で自立した女性も活躍しておられたようである。
祖父は、後に神戸に移り住むようになり、開校して間もない関西大学の法科に学んだ。また賀川豊彦先生が学ばれた神戸の神学校にも通っていた。
祖父は、神戸から比較的近い姫路にあるミッションスクールの日ノ本女学校に母を入学させ、寄宿舎に入れた。そこには校長以下多くの宣教師が生徒の指導にあたっておられた。
幼児洗礼を認めなかったバプテスト派のため、母は姫路教会で洗礼を受けた。
何でも全身を聖水に浸す浸礼であったと聞いている。
卒業後、保育資格を取るためと神学を学ぶために上京し、まず近くのバプテスト三崎教会に通い、そこで父と出会い結婚した。その後、神学校を卒業した父と共に四谷バプテスト教会をスタートに各地の教会で伝道の手助けをして、母教会の姫路教会に戻り、日の本教会へと導かれた。
父亡き後、一時は乞われて新居浜の泉幼稚園の園長をし、その後、阪神間に住んで宝塚教会に籍を移した。
三つの感謝
食べ物は飢えさえしのげればいい、
着るものは寒さがしのげればいい、
住まいは雨露がしのげればいい、
そしてそのことをいつも感謝しなさい
これは母がよく口にする言葉であった。
戦後の貧しい時代は勿論のこと、日本の社会が豊かになり、衣食住が満たされるようになってからも、母は贅沢を戒めるようにこう言い続けていた。父と母の日常生活の在り様から、必要以上に多くの物、贅沢な物を求めないということを、子ども達は自然に身につけていた。
母とピアノ
日ノ本女学校時代や東京保育専門学校時代で習ったのだろう。当時、日ノ本には、アリス・C. ビクスビーがおられた。若い頃ウイーンで、高名なピアノ教師レシェティッキー先生に学ばれたすばらしい先生で、ベートーヴェンの孫弟子であるとも聞いている。先生は、その後、宣教師として50年間、多くの感化を生徒たちに与えてくださった。
母は毎回、讃美歌を何曲か弾き、最後に必ず日ノ本の校歌を歌いながら弾いていた。
讃美歌482番
なつかしくも うかぶおもい
あまつ故郷は ややにちかし
(おりかえし)
ふるさと ふるさと
こいしき故郷 ややにちかし
この父の葬儀の時の讃美歌を歌っては父を身近に感じていたのだろうか。
母の最期
「お産以外は寝たことがないのよ」
と、日頃よく言っていた程、健康で丈夫だた母だが、さすがに、晩年は膝を痛め、歩きにくそうにしていた。けれども、礼拝と散歩は欠かさず、その上、ご近所の足の不自由な方の買物をしてあげていた。
「なぜだかわからないのだけれど、買物の途中、知らない方によく話しかけられるのよ」
とも言っていた。
母は亡くなる前、4人の子ども達一人一人に「和」という色紙を書き残した。
両親は、和子という私の名を、「平和ならしむる者」「柔和ならしむる者」という聖書から選んで名付けたと聞いている。
母がこの字から何を伝えたかったのかは聞かずじまいだったので、今なお尋ね求めている。
そんな母が、次第に不治の病が重くなり、痛みも限界に来ていたので、知り合いの医者の病院に入院した。入院して間もなく、痛みが緩和されると主治医の先生とよく話していたそうだ。
「末期に、こんなに穏やかに出来る患者は二人目だ」
と医師がおっしゃったそうである。
子どもたちは、それぞれの家族と、病院に通い続けた。孫との最後の写真には、にこやかな顔が写っている。
宝塚教会の 辻 建 師がお見舞いに来て声をかけて下さると、それ迄閉じていた目を開け、静かに伝えた。「私の人生は良い人生でした。ありがとうございました。皆様によろしく」。そして目を閉じ、85歳の人生を終えた。
穏やかな、微笑さえ浮かべていた最後であった。入院して2週間後のことである父と共に神を愛し、神に愛された人生であった。
風薫る6月の風が窓から吹いてきて、白髪の母を優しくなぜていた。髪は美しくゆれていた。葬儀は宝塚教会で辻牧師により執り行われた。
終わりに
ポケットの奥の方に長年しまいこんでいた戦争の思い出をありのままに記したところ、伊東さんから「ご自分の戦争の記憶だけではなく、日ノ本にかかわったご両親のことも書いたら」といわれたのです。
今、書き終えて思うことは、両親の生き方の根底にあるものが、神への信頼と感謝の念、そして人に対しては、平等・公平の思い の強さです。それは日頃の家庭生活の中でしばしば感じて参りました。このことは残された子供たち、又それに続く世代に伝えていかねばならないメッセージとして受け止めました。
昨年(2016年)喜寿を迎えた私が、それらのことに気づかされたこの度の同窓会の企画に、両親とともに心から感謝と御礼を申し上げます。
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香保のコメント
★ 大塚昇先生は、宗教主任の小川てる先生の後任の宗教主任として大阪浪速バプテスト教会から日ノ本に招聘されました。勤務期間は昭和14年10月から昭和19年6月と昭和23年から昭和30年まで。大塚先生の葬儀で弔事を読まれた方々は以下の5名ですが、その肩書きからみると日ノ本のチャペルで行われていますが、学校葬ではなかったようです。
井口 仁(日ノ本教会代表)小国博之(YMCA理事長)幡中恵美(生徒会代表)
曽璽てる子(同窓会会長) 米谷之克(PTA会長)
★ 品川悠三郎先生(昭和18年4月没)は、名簿によると明治25年4月に日ノ本においでになり(通してではありませんが)、昭和4年まで合計34年余り勤めておられました。
「品川先生御退職記念」が作成された昭和4年には、まだ大塚先生が日ノ本にお勤めになる前です。本文にある聖句の掛け軸は、直接、品川先生から大塚年生に譲られた時期はなっきりしません。
モニカさんのコメント
昭和27年春ころから昭和30年夏ころまで玄関を出ると姫路城のお掘が目の前にある坊主町に住んでいました。
通っていたのは日ノ本学園の付属幼稚園かと思っていたら、その頃はまだ創立されていなかったとわかり、どうやら教会付属の幼稚園だったようです。両親が通っていた教会だと思います。(2017-04-24)
もう一つこの記事に関連して思い出したことがあります。原千恵子さんのリサイタルです。
生まれて初めて連れて行ってもらった音楽会でした。暗い会場と明るい舞台。そこに白いドレスで現れた女性が、大きな黒いピアノの前に座って、演奏されました。無声映画のピアノ演奏のような記憶だけで、演奏については何も覚えていません。時期的にはきっと、大塚さんのお父上が原千恵子さんをお招きになった時ではなかったでしょう。でもそういうご縁があればこそ、また姫路でも演奏会をしてくださったのでしょうね。
台湾からの引き揚げ以来、ピアノのない生活をしていた母は、どんな気持ちで聞いていたのでしょう。帰り道、初めての経験で興奮している私に、母は楽しそうにピアノのことを話してくれたような気がします。母にピアノのある生活が戻ったのはその3,4年後だったと思います。
ディズニーの「白雪姫」を見せてもらったのも姫路でした。同様に暗い場所に座ったけれど、ピアノリサイタルよりは楽しかった。
幼少時代にこういう記憶に残る素敵な体験ができたのも、平和な時代となり、落ち着いた生活が戻って来たからです。今なお、戦火の中、恐怖の毎日を過ごしている人々、特に幼子の心には何が残されていくのでしょうか。
平和を守り維持する努力の大切さを、もっと真剣に考えましょう。(2017-04-26)
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香保のコメント
原智恵子さんは、昭和27年当時神戸女学院の特別講師だったそうです。
学園が主催した音楽会は、昭和28年巖本真理、昭和29年神沢哲郎と75年史163頁にあります。(2017-07-01)
日ノ本学園の付属幼稚園かと思っていたら、その頃はまだ創立されいなかったとわかり、どうやら教会付属の幼稚園だったと気づきました。
両親が通っていた教会だと思います。
記事の下に、角帽をかぶった3歳くらいのモニカの写真を入れましょう。 モニカ
原千恵子さんのリサイタルです。
生まれて初めて連れて行ってもらった音楽会でした。
暗い会場と明るい舞台。
そこに白いドレスで現れた女性が、大きな黒いピアノの前に座って、
演奏されました。
無声映画のピアノ演奏のような記憶だけで、演奏については何も覚えていません。
でもずっとピアノのある生活を送り、引き揚げて以来、
ピアノのない生活をしていた母は、どんな気持ちで聞いていたのでしょう。
帰り道、初めての経験で興奮している私に、母は楽しそうに
ピアノのことを話してくれたような気がします。
時期的にはきっと、大塚さんのお父上が原千恵子さんをお招きに
なった時ではなかったでしょう。
でもそういうご縁があればこそ、また姫路でも演奏会をしてくださったのでしょうね。
母のピアノのある生活が戻ったのは3,4 後だったと思います。
ディズニーの「白雪姫」を見せてもらったのも姫路でした。
同様に暗い場所に座ったけれど、ピアノリサイタルよりは楽しかった。
幼少時代にこういう記憶に残る素敵な体験をさせてもらえたのも、
平和な時代となり、落ち着いた生活が戻って来たからです。
今尚、戦火の中、恐怖の毎日を過ごしている人々、
特に幼子の心には何が残されていくのでしょうか。
平和を守り、維持する努力の大切さを、
みんながもっと真剣に考えて欲しいです。 モニカ