web版21 戦死の報を信じられずーに寄せて by甘理 りす |
先日来、親しい友人である紫野茜さんが、自分の投稿を読め読めとうるさく言ってくるので、海峡に遊びに行き、真っ先に日ノ本学園の戦争と私を読むことになった。
日頃、茜さんが感じてることを、折に触れて聞かされている私。普通にいつも話してることをうまくコメントしてるもんだな、とちょっと感心して、そして、納得した。思ってることを表現する快感、というのが茜さんの口癖。私も、言いたいことを言いたいようにコメントして、友の言う快感とやらを、わずかでも感じてみたくなった。
とりわけ、Web版11のタイトル『戦死の報を信じられず』は、タイトルからして心惹かれた。
大好きだった兄上の戦死の報を受けられてのOさんご家族、そして、Oさんご自身の箇所には、愛する人を死によって失う事を知る者には、胸に迫るものがあると思ったから。
しかも、兄上は、八路軍にかなりの抵抗をされ、捕虜として生きることを、自ら拒まれたようにも取れる最後の勇姿のみ知り、それ以降の調査でもどんな様子であったかを知るすべもなかったとのこと。
遺骨もなく、お母様の哀しみやいかばかりであったことか。
数年前のことになる。
私自身覚悟はしていたけれど、敬愛する叔父が、暑い暑い夏の日に亡くなった時、頭が混乱し、『叔父の愛した太宰、太宰が、太宰治が確か、春が好きな人は春に死ぬ、とか書いてたよね?叔父は、どの季節が好きだった?夏じゃなかったはずー』そんなこと、乱れた文字で日記に記している。
Oさんと同じく、亡くなったことが信じられなかった、毎日の愛犬との散歩に出かけるたび、叔父ちゃんどこに行ってしまったん?わざと夕暮れに出かけて、闇に紛れて、空を見上げて月の横を音もなく流れていく雲を眺めては、涙にくれていた。
叔父が亡くなって数日後、この海峡にもよく紹介されている台湾で不思議な体験をすることになった。
そうだ、ここで書いておけば、これから書くことも突飛なお話ではなくなるから前置きに書こう。
つまり、個人的な嗜好とも言うべきか、私はいわゆる今風にいうスピリチュアル大好き人間だ。最近は茜さんも耳を傾けてくれるようになったが、前は彼女に「そういうものは、あんまり他の人に日常生活で口にするもんじゃないよ」とたしなめられたものだ。
されど私の場合、特別に信心深い祖母の影響を一心に受け、目に見えない不思議なこと、科学的に説明不可能な神がかり的なことが、普通に毎日頭の中にあった。例えばスピリチャルの世界で言霊と言って、人間の発する言葉にある種の目に見えない力があると考えるのはごく当たり前。けれど世間的には、言葉に見えない不思議な力が宿ってるなんて、それは非科学的だし非常識だ。
そんな世の中に生きて来て、『ありがとう』が、人の心を温かくする魔法の言葉だってことは、私は誰に教えられることもなく幼稚園の頃から知っていた。
そうだ、さっきの不思議な話に戻そう。
それは台湾への家族旅行だった。そして台北にある、亡くなった人と生きている人の境目があると言われるお寺を訪ねた時のことである。
かなり期待してはいたが、幾百本ものお線香の煙の中に、叔父を見つけた時は自分が夢を見てるのかと目をこすった。スローモーションのように、時がゆっくり流れた。
後ろ姿ながら少し顔をこちらに向けて、誰に向けてなのか?笑顔だった。ノーネクタイでスタンドカラーのあのシャツにも見覚えがある!思わず叔父の名を呼び、追いかけたが、もうそこに叔父の姿はなく、以降叔父は姿を見せてくれなかった。
こんなこと書いたら、まるで稲川淳二だよね、自分でもわかってる、きっと他人の空似とか、叔父のいなくなったことを信じられない自分が、何か幻でも見たのだーさっきの説明を書かずに進めたら、そうお茶を濁すところだった。
けど、私はスピリチュアル大好きな人間だから、そうカミングアウトした。
叔父が会いに来てくれたんだと、書いてもおかしな人じゃない。
それでも、あの戦争の最中にあっては、どなたかの愛する人に召集令状が来て、戦地へ送り出す時は、みんなで万歳万歳と叫び、日の丸の小旗を打ち振り、Oさん曰く『まるでお祭りにでも参加しているような気分』だった。
きっとみんな、たった一つの情報提供源の大本営からの報告に心踊らせ、大本営が名誉だと言うからそう思い、大本営発表にみんなが笑顔だからみんな楽しくなり、大本営が万歳と言うからみんな万歳と言ってた、それだけのことだ。
でも、嘘の大売出し、大本営祭りが終わった。祭りの後は、決まって寂寥感がまとわりつく。
そうだまるで、祭りの期限は、マッチ売りの少女のマッチが消えるまで。
日本は勝つとか、名誉の戦死とか、赤紙が来てめでたいとか、みんな嘘。大本営は魔法のマッチを燃やしきるまで、国民全員を欺き続けてたんだ。戦争に負けた。燃えかすだけのマッチ棒に国民は愕然とする。
1941年(昭和16年)Oさんの兄上の出征の時は、まさしく『大好きな憧れの学校、日ノ本学園』を目指して、日夜受験勉強に励む日々。
『絶対に合格するよ』と励ましてくれたまだ20歳の優しい兄上が、ついに出征される。
けれど、その兄上はOさん家族の元へ二度と帰って来られなかった。
スピリチュアルな私は、決まり文句を並べる。
Oさんの兄上は、その姿は見えなくともずっとOさんのことを見守ってる、って。
でも、人間はそんなに強くない、そう思い込みでもしなければ生きていけない時もあるんじゃないか。
私は、ちょうど1年くらい前、ある者たちを本気で呪いにかけたいという、生まれて初めて、恐ろしい思念にかられた。
私には、シャーマンの友人が一人いる。
彼女は、本物のシャーマンである。それは理屈では語れない。
ただ、スピリチャル世界を幼い頃から隠し持って生きて来た私には、彼女の書く文章を読んだ時から、彼女がシャーマンであることに気付いた、としか言えない。
だから、彼女にお願いした。呪いのかけ方を教えて下さいと。
彼女からの返信は、結論から言うと、そんな愚かしいことはよしなさい、であった。
理由は、人を呪わば穴二つ、まあそんなことだった。
他人に呪いをかけることは、自らをも葬り去ることになる、とても非生産的な行為なんだ。
そうして1年がたった、つい最近のこと。
そのシャーマンの友人と、別件でメールを交わしたのだが、別件の最後に『忘れることが一番の復讐』と締めくくられていた。
誰かを呪い続けることは、結局とても非生産的な行為だし、非生産的な心の持ちようだ。
自分がそういうものをずっと抱えて生きるって、自分を貶めようとする者にとって、それ以上の好都合はないのである。
勝手に自分から、負の重石を抱え込んで、勝手に沈んでくれるんだから。貶めようと画策する手間が省けるってもんだ。
でも、忘れてしまわれたら?
負の重石を、全部、捨ててしまわれたら?
なるほど、それ以上の復讐はないかもしれない。
さて私は、一体何が言いたいか?
これでも必要な前置きだった。
忘れることが一番の復讐ーそれは、私の中で揺るぎない原則となった。
言葉を置き換えてみると、負の感情や思い出は、忘れることで幸せになる、そういう意味にもなる。
だけど、絶対に忘れてはならない、憎しみや悲しみや後悔もある。
揺るぎなき原則に対する、唯一の例外である。
例外だから、忘れたら不幸になると言うことだ。
それは、Oさんや日ノ本学園に関係する方々、ひいては私自身までも含む、日本国民全員共通する思いである。
掛け替えのない愛する人を奪った戦争を起こさせた者たち、嘘を信じ込ませ、戦争へと巻き込み駆り立てた者たち。
そんな者たちや、そんな者たちのやりようを忘れてどうする。
戦争は、忘れた頃にやってくるのだ。
Oさんが、必死な思いでお母様に食べてもらった、お母様もその思いに必死でおこたえになった。ココアにパンを浸したのーそれだって、当たり前にある物じゃなくなってしまうんだ。
当たり前の日常の幸せが、何にもしないでもずっとあるものだと思い込んでちゃいけない。
何か今こそ、日本国民全員が必死でやらないといけないはずだ。
茜さんは、平和で自由であることを祈り続けよう、と書いている。
それと近い意味で、私は、あの戦禍の中で、みんなどんなにか大切な人を失ったか?誰のせいでそうなったか?誰が、私達国民をあれほどに不幸のどん底に陥れたのか?
死んでも忘れずにいようじゃないか。
忘れずにいることで、平和や自由や、日常の幸せを守ろうじゃないか。
Oさんや皆さんの記憶が記されたこのシリーズを読むうちに、私の中のガーディアンエンジェルが、耳元で囁く。
忘れないことは、平和とか自由とか守るためのおまじない、って。
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香保のコメント
★甘理りすさん、感想文、凄い力作をありがとう。