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by grpspica | 2004-12-04 10:00 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2004年 12月 03日

仮設からの証言 その1 by 橋 本 幸子

はじめに
 1995年1月17日5時46分、それは私が40年も住みなれた家を失った運命の瞬間だった。轟音と宙に体が浮いた激しい振動の22秒間に私の家は倒壊した。梁はねじれて裂け、柱は傾き、屋根は道を塞ぎ、雨戸も硝子戸も吹っとんで、余震の続く夜明けまでの間、私は動きもやらず、声も出なかった。

 夜明けと共に這い出したら周囲の家はすべて倒れ、我家の天井がない。私は「オー 空が見える」と叫んで瓦礫から滑りおりた。
 隣も向かいの家も家族全員が埋まっていて、そのいずれも、美しいお嬢さんや奥さんが掘り出されたが死体であった。悲痛な泣き声が響く。次々と死体が掘り出される。私の声が届くほどの範囲で16名の圧死者が出た。

 東灘区の魚崎町だけで90名もの死者が出たのだ。町別の死者の数をみると深江町に次いで多い。その中で生き残った私は、よほど悪運が強いというか、父母や夫が守ってくれたのだ、というより他に言いようがない。
 家の下に活断層が走っているとも知らず、安穏と老後を送るつもりであった。家を地震で失うなど74才のこの年までついぞ案じたことはない。

 震災から2年もたって、私が仮設に入ってからでも1年9ヶ月が過ぎた。家を再建するホンの当座の仮住居にするつもりだったのに随分長居をしてしまった。この頃になって、この仮設の人々に両極のタイプの人が存在することが分かってきた。今までに知らなかった世相が見え出すと、もうたまらなくここを出たいという焦燥にかられる。その一方に出るに出られない極端な弱者がいるのだ。

 仮設は鍵ひとつで飛び出せる気安さと、身辺の物を失くした身軽さで、昨年は1月に埼玉県の藤久保中学へ「地震から学ぶ」授業をしに行き、5月には森池教授に誘われて陳情団に参加した。山梨の草の根フォーラムにも参加したし、年末には上京して、日赤本社に義援金の配分の陳情に行った。
 県や市の交渉にも何度か足を運んだし、我ながら信じられない程エネルギッシュに働いた。死ぬのを待っているような仮設の人たちを、私はどうしても見捨てることが出来なかったのだ。

 年末には「正月は新居で」と望んで、仮設から転出する人が多かったが、新年早々も懇意だった隣人が出られた。転居しても家族一人が残ったり、鍵を返さぬ人があって、空き家の実数は把握し難いけれど、ガスメーターが零で基本料金未納の家が多いらしいから、その気になれば行政はすぐにでも処置出来る筈だけれど、放っている。妙なところで寛大なのだ。これほど空き家が増えてくると、残っている人が案じられる。いよいよ弱者が置きざりになるからだ。

 寝耳に水の千年に一度といわれる大地震に、自然の力に敬服しながら、仮設のくらしの中で、ここでなければ出来ない聞き書きの仕事をしようと決め
た。これはその一部と私の思いをこの時点でまとめたものである。

光を失っても 
  全く明暗もわからない女性がいる。まだ50才そこそこで、なかなか気丈な性格だ。昨年の春頃はまだ微かに視力があって、隣の女性と仲良く買い物に出かけていた人だ。夫が死亡した10年前から悪うなりかけたらしいがこの震災で急激に悪化したという。夜も昼も分からぬ眼で仮設の独り暮らしが出来るのは女ならこそではないか。彼女は身ぎれいにして、家の中も吾家よりも整っている。

 声をかけたら、「先生、公共住宅の募集が来たら頼みます」といわれ、涙をこらえた。バリヤーフリーの家が必要だ、と切におもう。目明きでも危ない段差の多い仮設だ。ついの住家が決まるまで無事でありますようにと祈りながら手作りの惣菜を持参したら見えない眼に涙が光っていた。

栄養失調で死亡!
 避難所の劣悪な食事でも栄養失調で死ぬ人はなかった(但し、ボランティアの炊出しがあったからだけれど)。それなのに仮設で栄養失調の死者が出た。栄養失調で倒れたのは4名で、うち3名が女性、死亡したのはその中の2人だった。その事情はこうである。

 死亡した72才の女性は兵庫駅前の飲食店でパート労働をしていたらしく、通帳には地震前の1994年12月まで毎月5万3000円の入金がある。明けて1月17日、大震災でパート収入の道が断たれ、この年の末で通帳は残高0になっている。
 彼女が「この金に手をつけたら人間でなくなる」と話していたもう1冊の通帳には19万円の残があった。この金の受け取人を警察に探してもらったが縁故者はなかった。

 彼女は死んだら捨てられる犬や猫ではなく、人間でありたいから葬式費用にとっておいたんだ。そうに違いないということになって、19万円の葬式で見送った。後にカップラーメンが冷蔵庫に1個だけ残っていた。
 年金もなく、生活保護も受けず律儀にすぎた生き方を選んで死んだこの人に、どんな喜びがあっただろうか。きっと死んでこの世の柵から抜け出して自由になりたかったに違いない。

 今一人の死亡した68才の老女も似たもので、60才から年金をもらいかけたが、その額は年収で26万円そこそこだ。仮設に来るときに冷蔵庫と洗濯機を買ったもので、残りは僅かになった。この人も金より他に頼るものはないために、医者代金と食費を削って仮設のくらしを続けたのだ。

 高令者婦人に働く仕事はない。新しい収入のない人は始末するより他はない。ルームエアコンはあっても電気料金を2000円以下にとめなければならぬ生活では、使えない。
 彼女は葬式代に残した生命保険があって生活保護はとれなかった。

 今一人の女性は、湾岸道路が迂回する島の幹線道路に近い、騒音と排ガスのひどい仮設に住んでいた。
 食事をとらなくなって衰弱し、家の中を這うようになって、近所の人が医者にかかるように進めたがききいれず、孤独死になっては近所が困るというので、ついに急救車を呼び入院させたが1週間後に死亡した。
 この老女は人に逢うのを嫌うというので、訪ねる人もなかったのだ。

 ローソクが溶けてゆくように命を縮めて死に至る。このようなケースは私の知る限りでは女性である。後は野となれ山となれと、酒びたしになり孤独死した女性は知らない。
 世間体を気にして意地を通すのは、女性の専売ではないが、葬式代を残して死ぬことが唯一この世で”名誉”を守った証であったのだろう。

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by grpspica | 2004-12-03 15:45 | 命・平和・人権 | Comments(1)
2004年 08月 16日

戦争体験者として  by 石崎 尹劉 

 真砂子様からのお便りをもらった時、びっくりしました。
 そう言えぱ、R君の家に来ていたことがあった。たしかピアノを習うとか言っていたな、と思い出しました。そしてその後、カナダでの生活のことなどを印刷物でよみ、ぴっくりしています。

 それにしても貴女が、朝鮮慰安婦間題について力強い活動をしておられることを知り驚いています。私も22歳から29歳まで召集されて戦地に明け暮れました。現地に於ける慰安婦達の姿も見ています。

 貴女がコリアーナと名付けた人々、日本人の身勝手な権力支配に踏みにじられた人々への思いは、誰も反論を許されない真事てす。貴女が送られた印刷物の内容は読めば読む程に私の思考をさらに奥深く誘っていきます。

 日本はアジアの人々に心からのお詫ぴをし、罪のつぐないをしなければなりませんが、その中ても朝鮮の人々に対しては特別なものがあります。
 単に人間の感清でとらえる謝罪とか、現代的な社会の仕組みての弁償とかいうようなものではなく、神の前に深く頭を垂れ、神の御声をきいて、自分自身を見つめることが日本入に要求されます。

 お送りのプリント、どれにもこれにも貴女の言葉が深く埋められていますのて、これからも二度、三度と目を通していきます。
 「かわら版」「海」「五時通信」など、同人会誌かと思いますが、あのように多くの方々と心をつないでいかれることは、なによりの心強い生活かと思います。ご活躍下さい。
 それから、石崎キク様からも「神奈川平和遺族会」の出版物をいただきました。目下ページを追って読ませてもらっています。
 走りがきで文字も崩れたままで書き直さずに出します。ご判読下さい。
1993年8月

「海峡」2号より

(注)このお手紙を下さった、おじさんの訃報が昨日届きました。ペーパー版「海峡」を発行したとき、励まして下さった方です。
最後に出したはがきに「インターネットで海峡を見てね」と書いたばかり。このweb版に載せることの承諾は得ていませんが、多分「いいよ、いいよ」と言ってくださるでしょう。




by grpspica | 2004-08-16 12:07 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2004年 07月 23日

声なき死者は訴える - 緑十字船・阿波丸の悲劇  by 石崎キク

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 私は台湾の台北で生まれて育ち、1940年に結婚しました。
日本が植民地支配をしていた当時の台湾帝国大学の地質学教室に勤めていた夫は、1943年12月に陸軍省燃料廠の軍属(軍人以外の者で軍の要員)として、東南アジアの「ボルネオの石油資源調査」という任務で招集されました。

集結地の東京で夫は軍関係の人たちと1ヵ月ほど過ごした後、任地ボルネオへ向かったようです。敗色濃いアジア太平洋戦争の末期でしたから、任地から一度はがきの便りが届いたあとは、生死もわからず年が明け年が暮れ、消息を断ったまま敗戦の年1945年を迎えました。

 「石崎遭難せり」の公報
 この年の3月末に、台湾総督府地質調査所の技師で、夫と共にボルネオへ赴任された方が突然、訪ねて来られ、「昨日飛行機で帰って来た。石崎も一緒に帰ることになっていたが、急に軍の都合で予定が変更され、石崎は阿波丸に乗船ということになった。この阿波丸は安導券(安全な航行を保証するもの)を所持し、国際法の保護を受け、病院船に準じる交換船で飛行機以上に安全だから、あと1週間もすれば帰ってこられる」という思いがけない嬉しい知らせをもってきてくださいました。

 しかし、1週間を過ぎても何の音沙汰もなく、4月に入ってしばらくすると、ラジオで阿波丸の遭難が報道されました。その内容が果たして真実なのか、また私の夫が確かに乗船していたのかわからないまま、夫の両親と私は不安な日々を送っていました。

 照りつける日射しのきびしい台湾の暑い夏、6月に入り、「石崎和彦、阿波丸に乗船し、4月1日遭難せしこと判明せり」という戦死の公報が届きました。

 「石にかじりついても生きて帰ってくる」と言っていた夫は、帰国後の研究に期待をかけ、ボルネオへ発つ前、東京にいる間に手に入った本を次つぎに台北の留守宅へリストを同封して送ってきていました。
 当時は送ったものが届かずじまいになることも多かったのですが、送った本は全部届いて持ち主の帰りを待っていました。しかし肝心の持ち主はついに帰らず、28才の命を無残にも断たれてしまいました。

 「白十字マークの安全な船が、、、」
 阿波丸という船は日本郵船の商船で、戦時中米軍から要請があり、「日本が占領していた東南アジアにいる連合軍の捕虜や抑留者に救援物資を阿波丸で運んでほしい。その代わり、帰路はその地域の日本の民間人を乗せて帰ってよい」という交換条件で出航した船です。船腹には緑の地色に白十字のマークがくっきりと描かれ、夜もあかりを煌煌とつけて走っていました。航路は指定されており、軍人を乗せたり、軍需品を積むことは当然禁止されていました。

 しかし、当時日本海軍の連合艦隊作戦参謀だった千早正隆氏の「呪われたる船・阿波丸」という文章によりますと、日本政府はこの時、法を侵して軍人を乗せ、大本営(戦時中の最高戦争指導機関)の指示に従ってスズやゴムなどの戦時禁制品を積み込んでいたということです。
 その上、万一連合国側に臨検された場合に、国際法違反が発覚するのを恐れて、船底には最悪の場合に備えて自沈装置が取りつけられていて、船長の押すボタン1つで船が沈むことになっていたのでした。

 「2070名の阿鼻叫喚」
 最も安全だと考えられていたこの船が、実は危険きわまりない船であることを知っていたのは、政府や軍関係のごく限られた人と船長だけでした。安全を保証されているこの阿波丸をのがしては、もう帰国の機会はないというわけで、乗船者は定員137名の13倍を越えたということです。

 3月28日シンガポールを出航した阿波丸が4月1日、台湾海峡にさしかかるまでは何事もなく過ぎ、もうすぐ故国の土を踏めるという安心感を抱いて乗船者が静かな眠りに入った夜半11時過ぎ、アメリカの潜水艦クィーンフィッシュ号から発射された4本の魚雷に命中によってわずか3分で阿波丸は沈没しました。

 乗員1名が潜水艦に救助されただけで、帰国の喜びを間近にしながら乗員乗客あわせて2070名が阿鼻叫喚の苦しみの後、海中に没したのでした。

 「真相究明を放棄した政府」
 この阿波丸事件に関しては、いくつもの謎を残したまま、日本政府は1949年、アメリカに対する賠償請求権を自発的に(実際は米国側に強制されて)、無条件に放棄し、事件の本質について調査もせず、この問題に終止符を打ちました。私たち遺族に真相は何も知らされないまま今日に至っています。

 その一方で国は、遺族の意思に関係なく1954年、阿波丸遭難者を靖国神社に合祀し、無残な死へ追いやられた2070名は「英霊」とたたえられ、遺族の悲しみは栄誉にすり替えられ、戦争美化の一役を担わされています。

 1979年以降、阿波丸遭難者の遺骨の一部と遺品の一部が中国政府の手で引き揚げられ、中国の好意で日本政府に引き渡されました遺骨は千鳥ヶ淵戦没者墓苑と芝の増上寺境内の阿波丸遭難者墓所に分骨して納められています。

 増上寺の墓所の碑文では、事件の真相を究明しない日本政府の姿勢を問い、戦争の悲惨さと空しさを訴え、中国の好意への感謝を表明しています。
 碑の両側に遭難者2070名の氏名が刻まれています。ぎっしりと並ぶ名前に左右を囲まれてここに立つ時、私は生きて今ある者の責任と使命を改めて考えさせられます。

 「犠牲者にむくいる道は」
 53年前の敗戦まで、軍国主義体制の下で教育を受けて育ち、戦争を問い直す姿勢など全くなかった私たちも、戦後の歳月の中で歴史の事実を学び、聖戦と教えられた戦争の、残虐な加害の実態を知り心を抉られました。東洋平和のため、大東亜共栄圏建設のためなどと、美名の下に国家が戦争への道を進む時、犠牲になるのは、いつも戦争を望まない弱い立場の者であることを痛感させられました。

 武力によって平和をかち取ることはできないことを過去の歴史が物語っています。

 非業の死を遂げた戦没者たちは、決して戦争が美化され、「英霊」とたたえられることを望んではいない! 無残な死を通して彼らは今を生きる私たちに、2度と国内外に戦没者や遺族をつくらないように力を尽くせと語りかけている。
 この声に耳をかたむけ、この課題に取り組んでいくことこそ、彼らへの、そしてアジアの2千万を越える戦争犠牲者への真の追悼であり、その死にこたえる道だと思います。

月刊「ジュ・パンス」1999年1月より








by grpspica | 2004-07-23 18:14 | 命・平和・人権 | Comments(2)
2004年 07月 20日

戦場のピアニスト byモニカ

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 今年(2003年)評判になった「戦場のピアニスト」。あるピアニストがナチスの迫害から逃れようと逃げ回った実話を映画化したものだ。多くの人に見るように勧められたが、映画館に足を運ぶ事が出来なかったのは、私にとって少し生々しい話だったからだと思う。

 我が家の楽譜棚には購入年月日と購入者のサインが記された色の変った古い楽譜がたくさんある。母の兄の物だ。
 音楽を愛し、自らもピアノを奏でた彼は、招集されて台北から上京した時に、彼の専門である地質学の本と共に手に入れた何冊かの楽譜を実家に送っていた。戦争が終ったら又静かな研究生活に戻り、その曲を勉強出来る日を楽しみにしていたのだと思う。

 しかしその生活は実現しなかった。敗戦の年の4月1日、地質調査に派遣されたボルネオからの帰国途中、乗船していた船がアメリカの潜水艦に撃沈されたからだ。お互いに攻撃しないと約束されていた緑十字船「阿波丸」が攻撃された理由は、本来積込まれるべきでない鉱物資源を「喫水線」まで積込んだ日本軍の「約束違反」とされている。
 伯父はその時28歳。待っている妻の元に帰ることなく、楽譜は我が家に残されて、今も大切に使われている。
 
 現在、活躍するピアニストの中にも、音楽家だった両親を殺され、祖母と一緒に逃げ回る中、5歳の時にその祖母にも先立たれ、孤児院に収容されていた人がいる。
 父上の同僚だったピアノの先生が戦後、「あの人には子供がいたはずだ」と探し回り、彼が10歳の時に見つけ出され、養子になってピアノを学び始めたというのが、クリストフ・エッシェンバッハのお話だ。

 またレジスタンス運動に入り、捕まって大切な指を痛めつけられたピアニストをはじめ、同様の話は沢山あったと思う。これは何も音楽家だけに起っていた事ではない。いろいろな分野で活躍していた人、あるいは活躍出来るであろう子供達の未来の生活、いのちを破壊してしまう。それが戦争なのだ。

 今、本当に今の今、イラクの、アフガンの、その他の地域での争い事・戦争の中で、それが現実に起こっている。

 1人1人の命がいかに大切かといいながら、止められない戦争。誰かの欲のために都合の悪いことは意図的に隠され操作されて表に出てくる情報。そんなことに振り回されていては戦争なんて無くならない。

 中山千夏さんの「なんで戦争はいけないの?」は誰にでもわかりやすく、大義名分・主義主張で始まる戦争の理由付けに対し、素朴にしかし的確に戦争の正体を描き出したものだと思う。こうならないためにどうすればいいか。短絡的に武器に頼るのではなく、平和の大切さを真摯に考え、歩み寄る知恵を絞り出していけるのが人間ではないだろうか。

「海峡53号」2004年1月より

「なんで戦争はいけないの?」






by grpspica | 2004-07-20 17:21 | 命・平和・人権 | Comments(2)
2004年 07月 18日

なんで戦争はいけないの? by 原 野里子

 月に一回の美容院での楽しみは、なんてったって女性週刊誌。2種類8冊を読むためには読み飛ばすしかない。知らない芸能人の記事はパス。続き物もパス。ところが読み飛ばせなかった記事がある。中山千夏が「なんで戦争はいけないのか」を娘に説明しているのだが、目が釘付けになって2度も3度も読み直した。
「ねぇ、この週刊誌。古くなったらもらえない?」
 そのことばをちゃんと覚えていてくれた「おしゃれBOX」の美容師さんが、切り抜いて渡してくれた。
 で、以下引用します。

ひとつ、戦争は破壊する。
 家や町、古い遺跡や美しい山河をあっという間に破壊する。もちろん貴い生命も破壊する。

ひとつ、戦争は腹がへる。
 田畑が破壊され、交通機関が破壊され、店が破壊され、食べ物がなくなって、とてつもなく腹がへる。

ひとつ、戦争は人殺しを強制する。
 いくら人を殺したくなくても、兵士になれば、平気で人殺しをしなければならないし、たいてい無理やり兵士にされてしまう。

ひとつ、戦争は自由を奪う。
 戦争の足しになることをする自由はあっても、戦争の邪魔をする自由はまるきりなくなる。

ひとつ、戦争は病気を持ってくる。
 破壊された不潔な町には伝染病がはびこり、細菌兵器や原爆による病気がはびこり、兵士たちの間には精神病がはびこり、爆弾は地球全土の水や空気を汚染して生き物を弱らせる。

ひとつ、戦争は男を威張らせる。
 なんたって戦争の主役は男だから、世の中の役に立つのは男、ということになってしまって、人間としての女の価値は必ず下がる。

 娘よ、こんなバカなことをしたがるのは、
1.正気じゃない、
2.戦争になれば儲かったり威張ったりできる、
3.そういう連中にだまされている、
のどれかさ。 
 覚えておおき、軍備をしない、国家間のもめごとは必ず話し合いで解決する、と決めている日本の憲法第9条は、だから、世界一かしこい憲法なんだよ。


日本国憲法 第2章 戦争の放棄
第9条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 ②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

CHAPTER II. RENUNCIATION OF WAR
Article 9.
 Aspiring sincerely to an international peace based on justice
and order, the Japanese people forever renounce war as a
sovereign right of the nation and the threat or use of force as
means of settling international disputes.
 In order to accomplish the aim of the preceding paragraph,
land, sea, and air forces, as well as other war potential, will
never be maintained. The right of belligerency of the state
will not be recognized.

「海峡53号」2004年1月より





by grpspica | 2004-07-18 13:39 | 命・平和・人権 | Comments(0)