ペーパー版「海峡」の新スタイル
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by grpspica | 2004-08-16 11:13 | グループスピカ | Comments(0)
2004年 08月 14日

入力できた!  by モニカ

どういうわけかimacからはこのblogに日本語入力が出来ませんでした。化けてしまうのです。
そんなバカな事が.......? AppleのLive HPのトップにはpowered by exite.ってあるのにです。でも実際には困ってる人が随分いたみたい。
久し振りにあきらめ気分で今試してみたら、オオッ!出来るではないですか。誰かがどこかで苦労して下さったようです。
英文入力しか出来ないmusoさんの問題がどこにあるかわかるといいね。

お盆は全員集合の2日になりました。

名無しのゴンベイ改め、モニカ






by grpspica | 2004-08-14 13:10 | グループスピカ | Comments(4)
2004年 08月 13日

シリウスの白 by 原 真砂子(マサコ).

a0019212_2335221.jpg


「夢用絵の具」という楽しいテレビ番組がある。
「ピンク」には主に宇野千代さんにスポットが当てられていた。「青」ではイタリーの青。「白」には幸田文さん母娘の着物にまつわる「白の物語」が編集されている。
番組の中では呉服屋さんが「白いユカタ地が似合う人、白地を着こなせる人は滅多にいない。そんな美人がいたら‥‥。」と話していた。

同じ白でも色々あるが、本来の白の魅力は他の色のぶつかり合いを避け、全てをつなぎ合わせることにあるのではないかしら?

カナダ産のスイトピーの白は夜空に輝くシリウスの白に近い。この白い花は、スイトピーの花束を作る時に色々な色を見事に1つにまとめる力がある。日本産の白のスイトピーにはその力がない。私にとっては「白」に「濁象牙色・濁黄緑色」が混じっているように思われる。
花束を作って見るとすぐにわかるけれど、混ざり合う色の衝突のうっとおしさを避け、全ての色にその色本来の特質を輝き出させるのは、あの「白」以外にない。「人を寄せつけない白」でもなく「やたら自分についた汚れだけが目だって気になる白」でもない。

毎年、同じ朝顔から種を採り続けていると最後には全部真っ白の花になったという話を聞いたことがある。全ての色を含んでいながら「白」でいられる。この白を何と呼べばいいのだろう?

音楽院の学生だった頃、クラスメイトの手作りニットの展示会でハーモニーのクラスの先生と顔を合わせた。その時に「マコはウィンタータイプ(冬型)だから、白ならexact white。看護婦さんの制服のような白が似合うよ。」とにわかカウンセラーになって言われた。
この「exact white」の「exact 」をどう日本語に訳せばいいのかしら? 「完全な、全くの、〜の中の〜、精密な‥‥」

シリウスの魅力は全天で一番明るいこと、地球に1番近いことにあるのではなく、あの高潔にして気さくな色と万色を受け入れるあの「白さ」にある。 
シリウスが忙しく瞬いて色を変える印象から、シリウスを「えぬぐぼし(絵の具星)」と呼ぶ地方がある。
私にとってシリウスが他の色に光って見えたことはないが、この地上でシリウスの白を宿した百合の花にで出会えたら、いや、シリウス星には、星の色と同質の百合の群生があるだろうという幻想にひたりながら、シリウスの白をこよなく愛している。  

心にシリウスの白を持とう。人間が発色出来るならやっぱりシリウスの白を発光しよう。



写真 カナダのスイトピーではないけれど......




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by grpspica | 2004-08-13 16:46 | グループスピカ | Comments(0)
2004年 08月 08日

バラのいたずら by 原 真砂子.

 ロシアのピアニスト、今は亡きリヒテルが「墓参りに来る時は、白バラ一本と紫のグラジオラスを手向けて欲しい」と言っているのを知り、白いミニバラを鉢で育てることにした。
「リヒテルは語る」は生前の彼の言葉をまとめた本なのだが、共感覚者であるリヒテルの住んでいた感受性の世界が、彼のピアノ演奏より数倍魅力的である。
 私には気の合う人だとわかったので何度も恐山のシャーマン(巫女)のようにリヒテルの霊を招霊しようとした。ある時は、彼の好きだったタバコと日本酒を供えて、お出でをお待ちしたが、何も答えてくれなかった。庭に石を置いて拝んだこともある。
 ハハン! リヒテルは自分がグールドより重きをおかれていないから、出て来ないのかもしれないと、それでも諦めずに花を育て、語りかけていた。

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 そのバラは白といってもクリーム地、外側の花びらは咢に近い感じで緑がかっている。
毎日、挨拶に行くと花びらの量や形でさえ、一度たりとも全く同じ花が咲かないことに気づく。私の好きなシリウスの白を宿した花が三本咲いても、まだ気づかなかったが、ある日、淡いピンクの花に、ようやくリヒテルの心を感じた。リヒテルは、私の色好みに答えてくれるかのようである。

 その横で、我をはっているのが「グレン」と名付けたミニバラ。色はセクシーなパープルピンク。バーガンディとも。アンリ・マティスという名のバラみたいなスプレー系で、花の中に白い模様が入る。花の大きさはうずらの卵がやっとのところなのに、枝によっては六つも花をつけて、六本の指でピアノを喋らせたグールドの片手みたいに見える。
 色なし自慢の彼の音にしたら、花びらは有色で、そのうち透明バラを咲かせるつもりかもしれないが、今のところ、朝鮮語の「  (モッ)〈オシャレ・粋・優雅・雅致・真珠〉」が、このバラの「ため息」というところ。
 このバラは、丸っこい端の形のはずが、一輪だけ、四角の形を取り出した。花びらの数も少ない。出来損ないが育つと見守った。
 色はどんどん紫に傾いていく。紫が白味を帯びたピンクを覆いかぶすような花びらを手にしてテーブルの上においた。
 
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 グググーと体が唸る。そっそれは「フィアルタの春」色であった。こころなしか、花びらが唇の形に見える。
「フィアルタの春」は、ナボコフの短編で、作者と読者の私が最も好む作品の一つである。
読後、あまりの衝撃にこの「情事」を記念して口紅を買おうとフィアルタの春色を求めて、デパートを歩いた。思っていた色の口紅があった。しかし何千円もするので買わなかった。そんなことをグレンというバラが逐一知っているのではないかと思うほど、あの口紅そっくりの色バラが産出されていたのである。これでは「ナボコフ・スローニム(ヴェーラ夫人の旧姓)」の名のバラを育てると、どういうことになるのか今から楽しみである。

 バラの絵といえば、お嬢様っぽい少女や奥様が、金持ち風のガーデンに咲くバラの中にいる絵が多いのに、イギリスの画家、チャールズ・キーピングの描いたバラを見つめる少年の絵は忘れることが出来ない。人生の苦渋があどけない顔にのっている。少年の潜在意識がバラの花びらの角度に乗り移ったかの様。人間とバラのサイケックな感性を表わしている作品にバラの甘ったるい香りはしない。貧しい生活と希望の匂いがする。

 二階のバラたちはテラスに住んでいる。
 そのバラの横に、しわがれだらけの、葉も縮くれている病気だらけの「MAKO」と名付けたミニバラがいる。グレンと同じプランターに入れておいたが、仲が悪そうなので離してみた。グレンは意気揚々と次々に咲き出したが、MAKOは固い蕾が一つ付いただけ。それでどうやら透明な赤のバラらしいことがわかってきた。
 マコや、あんた、いたずらをする元気がアルン?と分身に向かって話しかける。

(注)ハングル文字が入力できないので空白の部分があります






by grpspica | 2004-08-08 19:44 | グループスピカ | Comments(0)
2004年 08月 05日

カマスゴとポピー by 原真砂子.

       
 私の住む町では、イカナゴの成魚を「フルセ」と呼んでいる。
このフルセ、三重産は「カマスゴ」と呼ばれて市内に出回る。

 カマスゴは、柔らかでつぶれやすい。その割れた腹から、卵や白子がそれぞれに春らしい色(サーモンピンク系)でシックな魚が芸術品に見える。
 1月の三重県からのカマスゴは子持ちで、本来産卵前は獲ったらいけないはずなのだが、この時期の親魚は、水産試験場が資源量と成熟度を調査し、解禁時期を決定するために、漁業者に依頼して「試験曳」を行っているものとのこと。
 関東では「小女子」、仙台・宮城地区では「メロード」、英名は「サンド・イール(砂のウナギ)」と呼ばれる早春魚を柚子の果汁をたっぷりしぼりかけて、そのまま食すると、遠い日の思いでとの差異にしばしば時を忘れる。

 私が子供だった頃、フルセは魚の匂いを嫌う母のオカズのひとつだった。
酢醤油を入れた容器を用意して、練炭を入れた「七輪」の上の金網に、店で買った釜あげされたフルセを並べる。母は、「よく焼き上げて、つけ汁につけた時ジュッという音がしたものが美味しい」という。
 油ののったフルセは、焼くとその油がよく火に落ちる。
その度に炎が、練炭が、音を発する中で、フルセを黒こげにしてはいけないし、生焼けでは母の好む「ジュッ」という音は出ないので大忙しだった。
 我が家ではこんな苦労をしてフルセを食していたのである。

 店売りの釜茹フルセをポン酢やショウガ醤油で美味しく簡単に食べる事が出来たのに、なぜこんな手間をかけたのだろう? 雅量の狭い祖母の「こだわり」だろうか? それとも他所者だった祖母か母が、地元の人に習った調理法だったのかもしれない。今となってはわからない。
 ともかく、油ジュージューのフルセは滑りやすく、しかも潜り込むにはうってつけの穴の多い練炭だから、穴をめがけて金網の目やお箸から逃げ出して、潜り込んでいく。
そうなると長い菜バシを燃え盛る火の中に入れて、そのフルセを拾い上げなければならない。魚もハシも黒こげのイメージがある。いやそれよりも網の上で、燃え過ぎるフルセも多かったかもしれない。

 「釜茹フルセ」はそんなに臭みがないのに、このオカズの時は、酢醤油がしみ込むように早く準備を始めて〈二度焼きするため〉、しかも少し熱く(あたたか味程度)ないとおいしくない。
したがってお弁当のオカズに入っていたことはなかった。
母としては「カルシウム」をねらって、子供達に食べさせていたのかも。焼き役が兄なら、フルセが食卓に辿り着く前に兄の腹の中に全部納まっただろう。

 平成不況の日本は物が売れなくなり、あちこちで価格破壊が始まった。
「カマスゴ」は老人の私にはちょうどいい量が100円で、しかもこの壊れやすい小魚は四角のビニールザルの上にのっている。捨てるには勿体ないザルを見ていて、その活用法を考えたくなった。
 ある園芸家は、卵ケースを開いた形にして前もって底になる部分に穴を開けておき、種まき用の床にするという。移植可能の小さな苗、コントロールしにくいすぐ厚播きになるような種の種類に、このザルはどうだろうか。
 
 生まれて初めて、「虞美人草(ポピー)」の種を播いた時、私は困惑してしまった。
ひと袋で100本から120本の種は、今まで手にしたどんな種よりも意のままに地面に落すことが出来ない。
 そこで、重なりあうように発芽した苗を大きめの小鉢60個を用意した場所に植え替えると、ナント、まるで亡命者のように新しい土地に馴染めず、一つ、また一つと消えて行った。
ところが、例外はあるもので、10余りが残る。しかも3本ぐらい束になって成長してくるのだ。

 それを今度はまた地面に植え替えた時、どんな根をしているのかと眺めた。移植を嫌うスイトピーの根とは全く違った細い雨のような根が、春雨を切ったように一杯伸びている。
 種袋には、間引くように書いてあるが、勿体なくて、どれか1本に出来ないまま冬が過ぎて行く。直播きのまま苗になっているものもスコップで数本ごとに広い所に移す。
 
 この作業は、私につくづくと移住、移民を思い起こさせた。
 人間も土着の根深になると他の土地に移ることは困難になる。
移った先の土地がその植物(人間)に合うか合わないかで、消えるも花が咲くも自由自在になる。

 もしも日本が攻撃されて、安全な国に逃げるとしても、私が2才から28才まで、36才から16年も住み続けた土地を離れると、この苗のようなことになりかねない。

 私は7年住んだカナダで、日本にいては到底得ることのないチャンスに恵まれたが、もしも行き先が英語圏で、私の知人・友人が残っているカナダであるとしても、異国で生涯を暮らすその苦しみはどんなものになるだろうか?

 ビニールの網の目をくぐれそうな細い根のポピーの様子に、自分の根の種類を想像する。そして1919年にロシアを永遠に去ったナボコフが、ヨーロッパを転々として1940年には、アメリカに渡り、「ロリータ」の収益による経済的安定で60代は再びヨーロッパに戻り、スイス、モントルーのパレスホテルで暮らした、その波乱の人生にナボコフは一体どんな形の根を持っていたのか見てみたい気がするのである。







by grpspica | 2004-08-05 17:24 | グループスピカ | Comments(0)
2004年 05月 11日

いよいよwebで登場

1993年6月から2004年1月(53号)まで「海峡」は、印刷物として発行されました。
きょうからこのblogで、運転を開始します。
まずはこの文章を送ってみるところから。野里子
by grpspica | 2004-05-11 14:46 | グループスピカ | Comments(0)