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by grpspica | 2005-01-28 09:40 | 音楽・哲学・宗教 | Comments(0)
2005年 01月 16日

5502人からの手紙   by 姜 光重(カン カンジュン)

                                           
地震で町はくずれたけれど
火事で町は消えたけれど
ここが僕らの育ったところ
ここが僕らの住んでたところ
今でもあなたが生きてる街角

地震で町はつぶれたけれど
地震でいのちは壊れたけれど
僕らは消えたわけじゃない
空の向こうのそのまたかなた
遠くであなたを見守ってるよ

あなたは僕らに気がつかないが
僕らはあなたのそばにいる
時々背中をそっとなでて
風の便りを送ってあげる
春が来たのを教えてあげる

会いたい人とはいつでも会える
行きたい場所にはどこでも行ける
つぶれた手足も今はしなやか
空を自由に駆けめぐり
どこかであなたを応援してる
どこかで神戸を応援してる





by grpspica | 2005-01-16 12:38 | 命・平和・人権 | Comments(1)
2005年 01月 13日

子供の時 ⑻ 祖母 byマサコ

 
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生活に疲れていた母に比ベ、祖母と街を歩くと良家のお嬢様になった気持ちがした。それもそのはず、祖母は東京の上流階級の出身であった。曾祖父は検察官を経て式部官になった。そして明治天皇や皇族が日本各地で「一夜を共にした女性」から生まれた子供達を集めて教育を授けて宮家を設立した。それ故、祖母は千代田区の広大な敷地の中で暮らし、当時の一流人達とも交わりがあったと聞く。
 私はこの祖母64才の時の最後の孫で、祖母が74才で亡くなるまで晩年の生活を共にした。

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 何でも出来た人で、津田塾2回生主席卒業後、祖父と結婚するまで甲府で英語の先生をしていた。大変な働き者で、若き日は3時間しか眠らなかったという。母の話によると祖母は、朝5時に起きて、朝食の支度をしながら庭の畑を見回り、新聞を読みながら編物をする。家の中をホテル並に掃除をして、台所の床が少しでもべタベタすると日に2度は拭いていた。足の裏が少しでもべ夕つくのが耐えられなかったそうだ。外国のファッション雑誌を見ては型紙がなくてもデザイン通りの服を作り上げ、それはとても美しかったとの事。庭にはいつもお花が一杯。科理の腕は一流コック並みだった。若き日に能、仕舞い、邦楽一般をこなし、スポーツはホッケーまでした。教会ではいつもオルガンを弾いていた。又、歌が上手で人前で歌を歌う時だけ出歯が気にならなかったそうだ。そして夜中の12時を過ぎるといつも午前2時まで英語の勉強をしてから寝た。 

 世の中とは皮肉なところだ。勤勉で優秀な女性より、怠け者で無能な女性の方が運をつかみ、苦労の無い人生を送ったりする。祖母は、美男美女の兄弟の中でどういう訳か全く美人でなかった。そして生まれるのが早過ぎたのである。
 何でも出来過ぎる不幸と、ふさわしい場所を得ない不幸、世間の波長に合わない俗っ気の無さ。その世渡り下手の生き方は娘の結婚に大きく響いた。
 私が子供の頃に家庭内で見たものはまさしく自分の運命が配偶者によってデタラメにされていると悲嘆と憎悪に明け暮れした女性の葛藤であり悲劇だった。また「配偶者」ではないが一緒に寝起して食事を共にする家族に対して、憤慢やる方ない不満と違和感をもつ人間の姿だった。 

 あの嵐のような女性の感情を見て育った私は、数年前、自分なりの結論を出した。
「男の人は自分より上のレベルから配偶者を選ぶべきではない。どんなに頑張ってもボロクソに言われてしまう」というものである。しかし義理の息子への僧悪、一緒に住まなければ全く生まれなかった数々の悲劇も、反面では沢山の実りを生んだ。

 祖母と母の手芸品作りの才能は、今でも私の人生に大きな励ましとなっている。姉二人のマフラーと夏用のレースの帽子は母が編んだけれど、私の物は祖母が編んだ。学校のバザーの時など、祖母の作品を学校に持ち込むのは誇らしかった。祖母の作ったものはとても美しかった。
 祖母のお陰で庭にはいつも沢山の花が咲いていた。特にバラはあれこれあってとても美しかった。小さな畑からあの当時まだ珍しかったブロッコリーが採れた。祖母は自分のお碗のおつゆの実となったブロッコリーを象牙のお箸で私の口の中にそっと入れてくれたことがある。多分母が一番おいしい所を祖母に入れたのに孫の私に食べさせたかったのだろう。祖母が種から育てたブロッコリーはそれはそれはおいしかった。

 今も持っている英語の子供用の辞書は、祖母が丸善で私に買い与えてくれたもの。
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またラジオで英語を学ぶ方法を私がつかんだのも祖母の影響だった。台所仕事の合間、音もたてずに放送を聞かせている孫達の所に偵察にやってきては、障子をいきなり開けて、「又、そんなお行儀をして聞いている」と怒鳴りつけた。基礎英語が終ると時間通りに英会話を聞きに現れた祖母。

 お風呂では、いつも石鹸をつけたタオルで私の顔から始めて全身をていねいに手順良く洗ってもらった。祖母の鎖骨の上の所には大きなくぼみが出来るので、そこに手を伝わせながらお風呂の水を入れてよく遊んでいた。

 夜は布団を並べて寝る前に本を読んでもらった。この本読みが心臓の悪い祖母にはどんなに負担だったろう。本の内容の感動的なところでは二人して泣いてしまった。読めなくなって泣いている祖母に「おばあさん、はやくぅ」と涙声で次を急かせることが多かった。
 私は「お母さんはさせているようだが私はそんなことをさせませんよ」という祖母のおっぱいを、いい年をしてさわりにいった。

 祖母が亡くなった日、私はバッハのインヴェンシヨンの6番を弾いていた。夜、祖母の部屋に行くと「あなたは本当にピアノが上手ね」と言った。そして二人でお祈りをした。祖母の部屋を出る時、私はなぜか見納めのように祖母の姿をじっくり見てから戸を閉めた。その頃は母と姉達と同じ部屋で寝ていた。

 夜中に目を覚ますと部屋の中の上の姉と母がいない。
家の中が夜中なのに妙にザワついている。
「誰かぁ。何があったの?」と寝床の中で大声を出した。
 しばらくすると父と上の姉がやってきた。
「マサコ、びっくりしないでくれ。おばあさんが亡くなった」と父が告げた。
かつて祖母が父と激突した時、「僕に死ねというのですか?」と父が怒鳴り
「死んだらいいでしょう」と喧嘩していたその義理の息子から祖母の死が伝えられた。
記憶にある身内の最初の死だった。私はワーッと泣き出した。

 母の話によると祖母は夜更けに「心臓発作を起こした」といって部屋から出てきた。
両親は祖母を子供達が寝ている部屋の北側にあるピアノの部屋に連れて行くと、1人が医者を呼びにいった。祖母はお弟子さんが座るための出窓風のベンチに腰掛けていた。近所の医者が往診にきて下さり、注射が効いて発作は治まった。ところがこの先生は発作を起こした直後の祖母に、その後あれこれ雑談の質問をして喋らせたらしい。後にそれが心臓発作を起こした人に決してしてはならない処置であったことを知った。質問された祖母は丁寧に答え、最後に「これでだいぶ気分が良くなりました。どうも有難うございました」と言った途端、強い発作が起こり、祖母は「アッ」といってまるで「さよなら」のように手を振ってそのまま逝ってしまった。

 1962年12月15日の夜の事だった。祖母は最後の入浴の時に洗濯をしている。お風呂場で手洗いした大きな洗濯物が2つ、驚くほどよく絞ったままの形で洗面器に残されていた。その洗濯物の絞りの彫りの深さが今でも私の目に焼き付いている。その固く絞られた白い洗濯物をほどいて干すのはとても悲しかった。

 祖母の葬儀の時に故人の愛した賛美歌として、
「御神の風をば 帆にはらみて 今日しも我が舟 出で行くなり」が歌われた。
賛美歌302番が祖母の愛唱賛美歌だとは知らなかった。
 人生、1日たりとも怠けること、だらけることの無かった祖母。天皇制に近過ぎて、おそらく天皇家のおかしさなど、夢気付かなかったであろう祖母の人生。祖母の晩年10年の人生が、人生の初心者である孫の真新しい人生のページに書き記した事柄はあまりにも多い。



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by grpspica | 2005-01-13 18:10 | グループスピカ | Comments(17)
2005年 01月 12日

子供の時(7) 鍼灸院 byマサコ


子供の頃、足の裏がよくつった。痛くてたまらないし、よく歩けなかった。歩いている時足がつると、少し大きめの石を捜して,その上に足を乗せて、上手に体重をかけて戻そうとした。私はよく転んで足の膝下はいつも内出血の青アザで一杯だった。
そんな時、明石の「テラダ」という鍼の先生のところに通うことになった。小児鍼は当時100円であった。私は「心臓性のリウマチ」と診断された。
「テラダ」先生は気難しい、人をよく見る眼を持った偏屈なよい人だった。いつもとてもよく治療していただいた。

通い出してすぐにご近所の松本さん一家も通い出した。娘のみよ子ちゃんは小学校も同級で、よく一緒に通った。松本夫人は出歩くのが好きで、専業主婦なのに家事もロクにしないことで有名だった。その上、ケチンボでお金を出す時に惜しそうに出すので、その事も話題になっていた。

私はその頃、「げっぷ」という言葉に興味を持った。どういう意味かと母に尋ねると「お金を一度に払わず、何回かに分けて払うこと」と説明してくれた。「げっぷ」といっても口から音の出る「ゲップ」ではなく、『これは大人用の言葉』と私はいつか使える日を楽しみに頭の中に入れた。

さてある日、治療が終り、私は先生に100円のお札で治療費をお払いした。ところが、みよ子ちゃんは財布を袋の中に入れたまま、まず10円を先生に手渡した。「はい」と受け取る先生。みよ子ちゃんは袋の置いてある場所に戻ると、今度は20円、先生に手渡そうとしている。治療室といっても待合所も一緒で8畳もない。部屋の片隅にベッドど先生の机が置いてある簡素なもの。人気の高い治療師である先生を頼って、朝5時から人が押し寄せる家である。畳に座って待っている人の中を掻き分けみよ子ちゃんは又自分の袋の所に戻ると手を突っ込む。

一体この人は何をしているのだろう? 私は首を傾げて考えた。考えに考えた末に「これぞ正しく『げっぷ』だ」と思った。それでみよ子ちゃんが先生に小銭を渡している時に、「みよ子ちゃん、げっぷでお払いしようとしてるの?」と元気よく尋ねた。
先生もそこに居合わせた大人達もドッと笑い出した。「げっぷだって」と先生はヒィヒィ涙をこぼして笑いこけている。
みよ子ちゃんは10円玉を数回運んでやっと100円にした。皆につられて子供二人も笑ってしまった。

大人になった今日、みよ子ちゃんの奇抄な振る舞いがよく解る。人のお礼も惜しがる母親の心そのままに行動していたのだろう。その事も解って、周囲の大人達はあんなにヤンヤの騒動で笑っていのだろう。

先生の机の上にいつもミルク紅茶が途切れる事なく置かれていた。奥様によるとミルク紅茶以外はお飲みにならなかったそうだ。その大きめのお茶碗のレモン色が壊かしい。

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by grpspica | 2005-01-12 11:14 | グループスピカ | Comments(2)
2005年 01月 11日

子供の時(6) バースデーケーキ byマサコ

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私たち一家は体が弱い。昔も弱かった。子供達はしょっ中、眼と耳をやられて2カ所の町医者に通うのが常だった。上園眼科には三姉妹で数年通った。毎日行くので、治療費は年に数回まとめて払っていた記憶がある。
独身の女医さん、リン子先生は、西洋映画の女優さんのようなまなざしをもっていらした。おツムに真っ赤なベルベットの帽子を被って外出なさった。華麗なシングルの職業婦人のハシリだった方である。

ある年、先生から電話が掛かってきた。
「9月16日のマサコさんの誕生日にケーキを買ってあるので取りに来てください」とのこと。祖母と二人で取りに行った。先生は私をおんぶして駅まで見送るとおっしゃって、私をおんぶして歩かれた。リン子先生はやはりお母さんがしてみたかったのだろう。祖母は微笑みながら、大きなケーキの風呂敷包みを下げて後ろから歩いていた。

その丸い大きなケーキは白一色の生クリームで飾られ、表面にはピンクの大きなバラがそれは美味しそうに並んでいた。私は息を飲んで見つめた。
先生は、私がいつも見ほれているあのお菓子やさんのショーウィンドーからこのケーキを買われたのだろう。ところが、「夜遅いから甘いものを食べてはいけない。明日になさい」との言葉で私は寝ることになった。それがこのケーキとの永遠の別れであった。

翌日、学校から帰ると戸棚の中のケーキを捜した。いくら捜しても見つからない。
「お母さん、ケーキがない。ケーキどうしたの?」と聞くと、それまでシンとしていた別な部屋から母の困った声が聞こえた。
「ケーキね、タベお兄さんが夜遅く、お腹が空いたというから一切れケーキ出したの、そしたら、『悪いかな?』と言いながら後の残りも全部食べてしまったの。おばあさんも私も『いいよ』って食べてもらったの。あんなケーキ、いつでも、どこでだって買えるのよ。今度買ってあげます」
私は胸がつまった。いつだって家にケーキがあったことなどないのに。どこだって買えると言ったって、この家で買えたことがないのに。

10数日後、遅れに遅れてケーキがあった。びっくりするほど小さい。どこでこんなに小さな丸いケーキを見つけたのだろうか? 白い生クリームの代わりに薄いチョコレートが貼りつけてある。そして色生クリームの代わりに赤い実だとかアンゼリカに添える緑砂糖菓子の葉っぱとかが乗せてある。パチンコ玉のような小さな銀のボールのお飾りを噛むと、ガシッと歯医者のアマルガムの様な効果が歯の上と口全体に広がった。

本当のお母さんが買ってくれたケーキ。大きなケーキをリン子先生が下さらなければ買ってもらえなかっただろう。お母さんには、あのケーキを見つけるのが大変だったのではないかしら?



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by grpspica | 2005-01-11 09:42 | グループスピカ | Comments(0)
2005年 01月 09日

子供の時(5)聖マリアの園幼稚園その3 byマサコ

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けが 
 それは保育時間が終わった後のことだった。私は男の子と二人で園の遊び場で遊んでいた。そこへれい子ちゃんという女の子が加わった。れい子ちゃんは鉄棒のうんていがとくいなのか、すごい勢いで手長ザルのように運動して見せていた。
 感心して見ているとある瞬間、手が離れてワッと言いながら地面に顔をぶつけて落ちた。落ちた場所に鋭い石でもあったのか、顔面から血がしたたり落ちて止らない。すさまじく血が流れた。れい子ちゃんは泣き叫んでいる。私は腰を抜かしていた。子供が大慌てで先生を呼びに言った。かけつけた園長先生はれい子ちゃんを見ると顔が真っ青になった。私は大怪我になったと思った。
 その後、れい子ちゃんは顔とおでこを幾針も縫う大怪我のために園を長い間お休みした。久振りに登園した時は、包帯の白さが痛々しかった。次にそこはバンソーコーのガーゼになっていた。私はれい子ちゃんに「もう良くなったの?」と尋ねたが、れい子ちゃんは返事をしなかった。あの場に居合わせたのにまるで他人事でしかない私に怒っているのだなぁと気になったけれど、もうそれ以上話さなかった。


おにぎり 
 阪神パークへの遠足が近づくに連れ、ノイローゼが始まっていた。気掛かりは母の得意とするところのおにぎり弁当だ。麦が入ったご飯を大きく3つおにぎりにして、ゆで卵1個とおしんこ3枚とあれば塩コブ。竹皮に包んである。手に直接持って食べてもいいようにお医者さんの往診用のアルコール綿を入れた消毒用の入れ物、これもお弁当の一部だ。これがわが家の遠出の時の定番のお昼だった。
 お弁当そのものは嫌ではなかったけれど、いたずらっ子に見つけられて、からかわれるのは嫌だった。
 遠足の当日、お昼になるとわざと皆から離れた。皆が食べている斜面を避けて丘を登り反対側の斜面を少し降りたところで、恐る恐るおにぎりを食べていた。「もう安心かなぁ」と思った頃、ふいに後から「あっ、あんなおもろいおにぎり、食べとらぁ。」
と声がした。早飯が得意で自分のお弁当を食べ終えた後、人のを覗きに来る人がどこにでもいた。一緒にいた子も可笑しそうに声ををたてて笑っている。
 「やっぱりやられたぁ」と悲しかった。人と同じ様なお弁当を作って欲しかったが、母に頼めず悩んでいた。皆と一緒でないと心地悪い、そんな日本文化の影響をあまり持たないわが家で、一人、人の目を気にして悩むようになったあの当時の私の事は未だに不思議である。
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卒園写真
 私はその日、寝癖のついた髪の毛がパーマのようだと気に入っていた。何となくいい気分で登園すると「先日卒業写真を写す時にお休みしていた人達4人だけで写真を撮りますから」と言われた。
 その中には相撲力士の「あんねん山が好き」ということで意見の一致した男の子も入っていた。撮影の際、先生達は証書をどちら向きに持たせるか分からなくなったと慌てておられた。挙句、反対の持ち方の四人が別刷りの写真でアルバムに載ることとなった。
 「あんねん山の君」は「おにぎり」のことを笑ったあの悪ガキであった。でもそんなことはどうでもよかった。髪の毛のカールと個別に写す写真がとてもうれしかった。
 ズボラなくせに変なところで見かけに気を使っていたのかとおかしくなる思い出である。
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ひなまつり
 毎年3月、園では園児達でヒナ段を作ることになっていた。私は最初は5人囃、翌年は3人官女に選ばれたけど、実はおヒナ様になりたかった。最後の年にコダンヨーコさんがおヒナ様に選ばれた時はとても残念に思った。
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 小学校について、先生方から「マサコさんは繊細すぎて、ひ弱でとても公立の小学校に通えるお子さんではありません。この上の私立のI学園に入学なさっては如何がですか?」とのお話があり、そのアドヴァイスを受けてIカトリックの学園に入学を決め、園とはお別れした。
 女雛になったコダンヨーコさんとは小学校も一緒だった。

 若葉園の園長先生とは今でもお付き合いがあるが、「デリケートな、春の陽ざしの中にいつまでも置いて置いてあげたいような子供だった」と話して下さった。
 あれから40年。アメリカでは「人生に必要なことは全て幼稚園で習う」という題名の本がベストセラーになった。「幼稚園にて」を書き終えてその本の題名が全く本当のことであると痛感している。

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by grpspica | 2005-01-09 15:53 | グループスピカ | Comments(0)
2005年 01月 09日

子供の時(4)聖マリアの園幼稚園その2 byマサコ

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知能テスト 
  知能テストがあった。結果は知恵が遅れているとのことだった。後年、ニヤニヤしながら兄が教えてくれたが、母は「マサコは知恵遅れどころか知恵が進んでいる。ぶっ壊れているのはテストの方だ」と憤慨していたそうだ。
 知能テストの問題の中には、『丸の中に三角形を入れてください』とあって丸が描かれていた。私は『丸の中に三角なんて入らない』と、ただそう思った。次に先生が「これから横向くから、私の横顔を描いてください」と横を向いた。他の子供は、サッサと鉛筆を動かしている。その事の方が不思議だった、私はジッと先生の横顔を見つめていた。このテストは絵を中心に設問されていたため、図形の苦手な私は頭が混乱してうまく答えられなかった。
 人の頭の善し悪しは適材適所で測られるべきだろう。どんなにいい頭でも場違いの所で働かないのは当り前ではないかと思う。

マクルーハンは「メディア論」の中でこう言っている。
「われわれが誤った基準をわんさと生み出してしまったのが知能テストだ。活字文化のバイヤスに気づかないまま、検査者は画一的で連続的な習慣を知能のしるしと思い込み、それによって聴覚人間と触角人間をはみ出させてしまう」(「メディア論 第1章「メディアはメッセージである」p17)

まさしく私ははみ出された子供であった。



けんちゃん 
 クラスには、けんちゃんという男の子がいた。けんちゃんは全身に悲しみを漂わせている子供だった。園の敷地内には小規模な寄宿施設があり、家庭に事情のある何人かの子供達がそこから学校に通っていた。おそらくけんちゃんもそこに預けられていたのだろう。けんちゃんと触れ合うシスターや先生方のまなざしには、他のどの園児へのまなざしとも違った配慮があった。子供心にけんちゃんが大人達と親しいのを感じていた、時折先生は、「ゆうべ、けんちゃんとご飯を食べた」とか自然に話していた。けんちゃんを励まして他の園児の中に溶け込ませたかったのだろう。
 けんちゃんの親が幼稚園に現われた記憶はない。けんちゃんは中耳炎を患っていて、いつも耳だれが出ていた。どんなに包帯がよく巻いてあっても、とても臭い匂いがした。でもそのことで、けんちゃんをはやしたり、いじめる子は一人もいなかった。ツボタニ先生は、皆で何となく雑談する時、よくけんちゃんを抱っこしていらした。

 そんなある日、お弁当の時間にけんちゃんがいなくなったことに気付いた男の子が大声で尋ねた。「けんちゃん、どこへ行ったの?」 ツボタニ先生は「けんちゃんはトイレよ」と答えたついでに茶目っ気を起こしたのか、「けんちゃん、今、ウンコしているの」と楽しげに話した。どおりで長いこと戻らない訳だと子供達はまた、お弁当を食べ出した。

 でもウンチの匂いを想像してしまい、食事がのどを通らなくなってしまった園児がいた。私だ。毎朝、駅に向かう道で大人の男達が道に痰をはく音を聞く度にその汚さと自分の靴の裏にそれが付く恐怖で生きているのが急に辛くなるそんな神経質な子供だった。

 けんちゃんは卒園まで幼稚園にはいなかった。もし卒園写真に写っていてもきっと影の薄い、やっと見つけてもらえるような存在だっただろう。


お遊戯会 
 舌切り雀のダンスを踊った。園児達は人のを見様見真似で踊っていたためか、本番の舞台で、踊りが完全に止まってしまった。。その時、舞台の袖にいらしたシオミ先生がダンスを踊って下さり、いち早くそれに気がついた子供がその真似をすることで、全員がダンスを思い出した。「先生は頼もしい」とシオミ先生のダンスを一番近くで見られて私は感激した。
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お弁当
 冬になるとストーブの回りに金網の囲いが置かれた。子供が火傷をしないように置かれた銀色の金網。その上に早い者からお弁当を置いておくと、お昼には暖かいお弁当が食べられた。卵焼など茶色になるのが悲しかったが、暖かいので楽しかった。

 ある日のこと、左手でストーブの上のお弁当を取って、右手で支えているお盆の上にその弁当を乗せたところで他の園児が話しかけてきた。そのままの姿勢で答えていた。と、私の体にぶつかった男の子がいた。弾みで私の体は揺ぎ、弁当箱が床に落ちた。蓋が開いて全く食べられない程、ご飯が床の上に散らばった。
 男の子は「すまん」と男らしく頭を下げたが「しゃべっているからだよ」と鋭いことを言った。確かにお弁当を取ったままの姿勢ではなく、すぐ席に戻っていれば‥‥。でもぶつかる時はぶつかるし、食べられなくなる時は食べられなくなるもんだ。

 誰がどう、掃除をしたのかも覚えていいない。受け持ちの先生は席をはずしておられたように思う。私はトイレに行き、手洗い場の園児個人用のタオルがかけてある場所で自分のタオルに顔を埋めてオンオン泣いていた。昼食の時間なので園児は一人も入って来ない。
 その時泣き声を聞きつけた園長先生が「原さん、どうしてそんなに泣いてるの?」と入って来られた。先生は話をよく聞こうと私の目の高さにしゃがみこまれた。訳を話すと「大丈夫だから、お部屋に戻って待っててね」とおっしゃった。

 部屋に戻るとシオミ先生は、なぜか最初から全部知っているように落ち着いていらした。
 他の園児が食事中、若い女性がトーストを乗せた二枚のお皿をお盆に乗せてシズシズと現われた。その人は私と並んで腰をかけると一緒に食べ出した。
 園内には直接幼稚園のことには関係していない若い女性の姿がよく見かけられた。彼女もそんな一人だったのだと思う。今まで会ったことのない人だったけれど、なぜかトーストを二人でいただくと、お弁当がフイになった悲しみが薄らいだ。私はトーストとこの女性の顔を交互に見ながら『この方はいつもお昼にトーストだけ食べているのかしら?』
と思いつつお昼を済ませた。


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by grpspica | 2005-01-09 10:17 | グループスピカ | Comments(1)
2005年 01月 08日

子供の時(3)聖マリアの園幼稚園その1 byマサコ

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 いじめっ子のお陰で新しい幼稚園に行くことになった私には「電車通園」というものが待ち受けていた。
 今は明石海峡大橋の建設で見る影もなくなったJR舞子駅の南側の風景。当時は深緑色の松の美しさに海の青さがよく似合って、松林を吹き抜ける風が海の香りを運ぶ別天地だった。毎日、電車を待つ間、松の間の向こうの海の青さをパレットの中の絵の具のように飽かずに眺めていた。 

 私は、ゆり組に入った。毎朝ホールのような所でカトリックの話しを聴かされるのは嫌だった。朝日が強すぎて、ガラス越しでもその日に当たると気分が悪くなって吐きそうになる。他の何人かの子供達も具合が悪くなり、それに気付いた先生が、ぐったりした子供達を日の当たらない所に移動させていた。ということは幼児に1時間位説教していたのだろう。毎日でなかったかもしれない。ともかく、「良いことをした人は天国へ、悪いことをした人は地獄へ」と2枚の絵を見せて「さてあなたはどちらに行きますか?」とやられる。『もうここが十分地獄なんですけれど』と答えたかったものだ。

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 幼稚園は園舎も大きく2階建であった。2階には「ばら組」があった。わが家には2階がなかったせいか、2階に憧れていた。だから、年長組の部屋の中でも2階にある「ばら組」の部屋は私にとっては特別の場所だった。何度も階段を上がりかけては途中で慌てて降りてきた。度胸がなかったのだろう。「なぜ、用もないのに2階に行くのですか?」とにらみつけられて咎められたら‥‥と思うと怖かった。こんな具合に要らないことに特別憧れたり、気を回し過ぎて否定的になるところは拘われすぎのノイローゼの資質が現われている。
 それは立派な階段だったから、子供にとっては2段飛びやジャンケンで競争するゲーム等いろいろな遊びにもってこいの場所だった。でも幼稚園ではあの2階に通じる階段で遊ぶことは厳しく禁じられていた。だから私にとって尚のこと階段と階段の先にある「ばら組」は聖域のようなものになったのだ思う。1度だけ、「ばら組」へのお使いで階段をかけ上がりその戸を開けた時は嬉しかった。中にいる園児まで、特別な人達のように見えた。 

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 ある日幼稚園の広い庭を探険をしていて、マリア様の像が大きく中心に置かれた、湖風緑色の水を溜めた池のようなプールのような所に行き当たった。カトリックのマリア崇拝は、プロテスタントに殆ど無いものである。わが家は母方の祖父がカトリックである以外はプロテスタントだったので、カトリックのマリア崇拝には批判的だった。でもその大きな偶像には興奮してしまった。
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by grpspica | 2005-01-08 10:45 | グループスピカ | Comments(0)
2005年 01月 07日

子供の時(2)音楽教室 byマサコ

 小学校に上がる前に、ある幼稚園を借りて日曜日毎に開かれるこども音楽教室に通い出した。姉達が通い出したころの月謝は200円。私は400円の時から1200円位の頃まで約8年間通った。
 ↓ 祖母に見守られつつ明石こども音楽教室に通うマサコ
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建て直す前の家、ここに来た昭和29年頃、マサコの身長は、下から2枚めのガラスから顔がやっと出せるくらいで、そこから国鉄の列車が走るの見ていた。

 家の近くの停留所からバスに乗って10分。海に近い幼稚園は設備が良くて年に1回、生徒のコンサートも開かれていた。
 ハーモニ-、ソルフェ-ジュ、メロディー聴音を、美しい親切なまつもと先生が教えて下さった。チビと言えど、音楽教室に通うことは職業夫人になったような自分への誇りと喜びを感じさせた。そして教室には最愛の「まつもと先生」がいて下さる。たまに替わりの若い先生が教えて下さると何もかも嫌になる程、「まつもと先生」の存在は大きかった。

 帰りには、沢山の買い物のおつかいをこなさなければならなかった。勉強の帰り、わが家で「安い店」と呼ばれていた大原商店で家族の日用品、ちり紙、洗剤その他を買い、生きた鶏を殺してかしわにしていた後藤鶏肉店に寄ると、私の後の大きいクラスを教え終えた「まつもと先生」もよく買い物に来ていらした。そんな時は、お店の外で、「マコちやん、来週は来るのよ。かならずきっと来るのよ。来るのよ」と「さよなら」の代わりに言葉を掛けて下さった。

 体の弱い私はよく休んだ。1年に何度も、丸々1ヵ月お休みすることもあった。
 母の編んでくれた手提げ袋に入れて、何回先月分の月謝と新しい月の月謝を運んだかわからない。まつもと先生は最初の頃は「先月全部来なかったから」と丸ごと月謝を返して下さった。しかし年が大きくなると「皆に相談する」と言われ、小学2年生位になった時には、月謝は返還されないことになった。1ヵ月丸ごとと書いたけれど、実は1年、数年、丸ごと休んでいたこともある。そんな時は、「今来ないと前にいたクラスに追い付かなくなりますよ」とちやんと連絡して下さった。

 後年、私は英語とピアノの個人レッスンの先生になった。その時レッスンを月4回と決めても、何とか1回だけにして1回分払って子供に習わせたい人がいた。月謝袋を無くしたと言って先月分の月謝を払わないで済まそうとする人。最後の月謝を踏み倒して辞める人。自分の都合で休んだのにその分を差し引いて払おうとする母親というように、ご主人がちゃんとした会社に勤め、子供を私立の学校に通わせる日本の中流家庭の母親達の醜悪な心にモロに付き合うことになった。

 わが母を誇らしく思う。今の私の幸せも母の心の美しさのお陰である。子供は、生まれてすぐから母親の真心の世界の洗礼を毎日受けつつ育つのだとしみじみ思う。
 母は体が弱くて休んでいる私に「月謝を払っているのに勿体ない」とか「あんたが弱いからお金が無駄になって悔しい」というような事は言わなかった。先生が返して下さったと袋を渡すと「そう、返して下さったの」と言い、全額納入になったと告げたときも「そう」と同じような柔らかなきれいな声で答えていた。

 「まつもと先生」との懇談会の後、母はいつも「あの先生はこどもをよくかわいがっている」とつぶやいていた。

 「まつもと先生」の方は、「1ヵ月休めば月謝はいらない」と言われても、毎回、前月分も納めようとする母の姿に驚いていらしたかもしれない。でも後年、先生とはそんなお話を出来るようになる程近しくはならなかった。20代の頃、最後に先生と電車の中でお目にかかった時、「さよなら」の代わりに、やっぱり「マコちゃん、輪を広げるのよ」と言葉を下さった。
 人生にバラの香りのような出会いを与えて下さった「まつもと先生」のことは忘れられない。



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by grpspica | 2005-01-07 13:00 | グループスピカ | Comments(6)
2005年 01月 06日

子供の時 ⑴ 若葉園 byマサコ

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 近くの「若葉園」に通った。
 小さい組の時のこと、ある日園が終わって園の横道を歩いている時、あべみちこ先生に「マサコちゃん、先生と一緒にお風呂屋さんに行かない? お家に帰ってお母さんに行っていいかどうかきいていらっしゃい」と声をかけられた。母に「いい」との返事をもらい、着替えも持たずに幼稚園に戻った。
「若葉園」はプロテスタントの幼稚園で、園舎の東部分に先生達の住まいがあった。「そこの道の角まで行ってお風呂屋さんのエントツから煙が出ているかどうか見てきて頂戴」と先生。
 見に行くと、エントツから煙が出ていた。先生と私は歩いて数分の「花園湯」に着いた。銭湯はタイル張りで大きく広く、目を見張るような場所だった。大きな湯船に身を沈ませると家の狭い湯殿にはない感動が全身を包んだ。
 湯船から上がるとタオルにセッケンをつけて体を洗って下さった。あべ先生は余程お母さんがしたかったのだろう。先生は子供の世話をすることにとても幸せそうだった。

 脱衣場で着替えがすむと「ホラッ」と一包みのオレンジドロップを下さった。
私は、呆気に取られた。家ではドロップ類はおやつの品目ではなかった。たとえ一缶あったとしても親が管理をしていて私達の自由にはならなかったからである。子供はだれでも少ししかない「ハッカ」を欲しがった。子供心にも「全部ハッカのキャンディの袋があればいいのに‥」と思っていた。オレンジばかりのキャンディはロウ引きの紙に包まれていて外側の紙はチョコレート色だった。
 私は先生と別れてから全身がオレンジキャンディになりそうになりながら、家に戻った。そして引き出しの奥深くにそのキャンディの残りを仕舞い込んだ。一人になりたい時、家が混雑し過ぎていると思う時に少しづつ舐めていた。オレンジキャンディには、一人っ子の様にゆったりした味があった。

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 半年すると、同い年の「サイトー」という男の子が入園してきて幼稚園は修羅場となった。
 「サイトー君」は、きちんと椅子に腰掛けている私の椅子を左右からゆすったり力任せに引っ張っては、私が尻餅を着くのを何よりの楽しみとした。悪ガキ「サイトー」はじっとすることが出来なかったのだろう。先生の目を盗んでは襲いかかってくる。私はよく泣いた。いたずらに気付いた先生も止めに入ったけれど、いたずらを職業とする「サイトー君」には誰もかなわなかった。今思うと椅子からさっさと立ち上がってしまえば「サイトー君」も楽しくなかったのではないか?
 他の女の子も被害に遭っていたが、私ほど激しくはなかった。私はいつの間にか待ち伏せまでして人を蹴る「サイトー君」のせいで登園拒否を起した。
 そのことから、神戸市の西端の舞子にあるカトリック系のいじめっ子のいない上品な幼稚園に転園することになった。

 11歳の時、地元の小学校でこの「サイトー君」に再会した。「君のせいで幼稚園をかわったよ」と言うと「何も覚えていない」という返事だった。でも今でも幼稚園時代の彼の姿は野獣のように思い出される。「サイトー君」はきっとおもちゃに出来るウサギを見つけたトラの様な気分で毎日登園していたのだろう。ひょっとして「サイトー君」は幼き日の私を好きだったのかもしれない。




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by grpspica | 2005-01-06 18:37 | グループスピカ | Comments(0)