ペーパー版「海峡」の新スタイル
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# by grpspica | 2005-06-01 06:43 | 旅・ヨーロッパ | Comments(3)
2005年 06月 01日

うまくいかない接続 -3- by ノリコ

5月28日(土)の8:00
出発前に、マルセイユの旧港へ行く。なんてったて交通事情視察が今回の旅の目的だもんね。旧港は、海上交通の歴史ある場所だそうだが、普通の観光客もみな行くところでもあった。港には船が並び、陸にはその朝取れた魚が並ぶ。町の人が買うのだろうか、観光客はながめるだけ。

a0019212_16505232.jpg


バスでモンペリエまで2時間30分。バスの沿道には、黄色のエニシダ・赤のヒナゲシそして糸杉が目を引く。ゴッホの糸杉はこんな形だったのか。

ここで合流したガイドのTさんは、要領よく我々を案内する。

まずは徒歩で新しい都市アンティゴーヌへ。教会と軍の何もなかった所有地を壮大な開発計画のもと公募されたデザイナーによって作られた町。住宅にテラスがない・間取りが丸いので家具がおきにくいなどの難点はあるものの、法学部が旧市街から引っ越しをするなどしてモンペリエの町を東に向かって大きく広げた。障害者のための住宅もあり、車いすで介助を受けることなく町へ来て買い物などができる。

バスで旧市街の外側を回る。旧市街では公共のバスとトラム以外の交通はできない。トラムに乗る。7年前に見学したストラスブールトラムのようにかっこいい。まだ1号線のみ完成で、2号線は工事中。3号線は予定段階で経路も未確定だが、地中海までつながるとか。

サンクレマン水道橋へ。

日記はここで中断したので、後日機会があったら書き加えます。

-4- へ







# by grpspica | 2005-06-01 00:45 | 旅・ヨーロッパ | Comments(4)
2005年 05月 31日

これが二日酔い? -2- by ノリコ

関西空港発5月27日(金)12:00頃でパリまでは約12時間。
最初の機内食のとき、ワインを2本飲んだ。といっても175ml位の小さなもの。食事が済んだ頃からいつものように眠くなる。アルコールが体内に入るとたいていそうなる。
で、どれだけ眠ったのか、気づくと気分が良くない。首の後ろあたりの不快感と吐き気。お水を飲みたいが、自分で取りに行く元気がない。これが二日酔いだろうか。

と、旅の始まりはうれしくない状態から。
でも東ヨーロッパに入ったころから、落ち着いてきて水も飲みに行けた。その後食事の量をセーブして今のところ快調。残念なのはウラル山脈の上を寝ているときに通ってしまったこと。どんな山だったのだろう。

パリのシャルル・ドゴール空港は、ガラスをふんだんに使った丸みを帯びたデザインの明るい建物。しかし添乗員のYさんによると「外観はいいが、暑さには弱い」由。数年前に天井が落ちてきた話しをしてくれた。
マルセイユ行きの待合いに行くまでかなりゴタゴタした。
TT氏が、日本からの添乗員を依頼するかどうかのアンケートに「乗り換えのときに便利だけれど、いなくてもたどりつけるだろう」と書いた私を冷やかす。

飛行機の飛ぶのがかなり遅れた。待合いには自動販売機があるが、コインしか受け付けないんですって。機内でコップ1杯の水をもらってやれやれ。
教訓1:飛行機に乗るときは、ペットボトル持参の原則。

マルセイユ着。現地時間の21:00ころ。現地ガイドの日本人女性Tさんが待っていた。在仏21年だそうだ。ホテルに向かうバスで窓越しに、凱旋門と昔の城壁の一部を見る。
ホテルでは、からんから出るお湯をシャワーから出すことに失敗。あれこれの出っ張りを押したり回したりしたが駄目。テレビのリモコンらしきものには、Open URLとか Keyboard とかE-mailなどの表示があるが、これってなに?

まぁきょうのところは、メールをつなぐことはトライしないで早く寝よう(ここまでが24:00ころ)。
2:30ころ起きて機内食の残りのパンとチーズを食べる。5:30ころ起きて日記を書いた。6:00前外は明るい。3回目の就寝にしよう。

-3- へ





# by grpspica | 2005-05-31 04:12 | 旅・ヨーロッパ | Comments(1)
2005年 05月 28日

K.K君からピアノの話  byモニカ

5月27日夜

ノリコさんが出かけたその朝に、K.K君から電話。

「広いアパートを引っ越すので、今のグランドピアノを少し大きいグランド
(コンサート貸し出し用に使われていた物)に買い替るため、
今使っているコンディションのとてもいい、素敵なピアノを手放します。
もしよければ下取り価格56万円(普及品より少し上クラス新品アップライトの値段以下)+送料で引き取ってもらえませんか?」
という話。

手放すピアノは、購入時にカワイの工場にまで行って選んだ物。
響板はヴァイオリンで有名なストラデヴァリに使われる木を収穫する所として名高い谷で伐採したスプルースを使っている物で、カワイの音とは全然違ってとてもかわいい音らしい。

彼の買い換えの理由は 
 中高音域と低音のバランスが気になり出した事と
 もう少し大きい物が欲しくなったため。
 (一般家庭普及サイズのグランドでは仕方のない事。
  小さくするために低音の弦は無理をして縮めてる訳だから)

我が家に声をかけた理由は
 ・とても大切にしていたピアノである事
 (会社もKK君の熱意と愛情に応えて、
  コンサートピアノを専門に調律する調律師を特別に派遣していた)

 ・だから、持って来てすぐにも弾ける位いい状態である事
 (5年間24時間除湿器を付けて乾燥させていた。
  ピアノの為には最高の扱いをしていた訳。我が家では.....) 

 ・よって、素性のわかった所でよさをわかってくれる所渡したい。

 ・時々は顔を見に来て、弾けたら嬉しい(とは言っていなけど)

 ・嫁に出す子供の行く末を案じる親の心(とも言ってないけど)

 →以上のような理由。

カワイがこのピアノを中古で出す時にはとても高くなるであろうとも。

で..........マサコさんに話すと、
 ・「将来、必要になるので、その時までそちらのダイニングに置いておく」
1台手放す(ボロピアノ)案については
 ・「父の退職金で買ってもらった&母も弾いていた思い出のあるピアノ
   &象牙鍵盤だし、だから手放す気はない」とのこと。

新しいアパートへの引っ越しの都合で、6月3日までに要返事。

今(5月27日夜)、彼から電話があって 
・新しいピアノの支払は終っていて、当方がすぐ支払う必要はない
・別な場所に保管を頼めばお金がかかるから、止めた方がいい。
・置く場所があるなら、組立ずに、立てて置く事もできるって。

今度引っ越す先は桜で有名な川のほとり。最寄りの駅から徒歩1分。
賃貸だが、下にはテナントのはいっているアパートで、
ピアノ持ち込みも家主の了解済み。

5月29日
ここからは、29日土曜日の書き足しです。
今日14時半に、マサコさんの体調次第だけれど、
彼女と彼のアパートに出かけます。

今朝9時から新しいアパートにグランドが入るので、
その後神戸のアパートで合流して「試し弾き」させてもらう事に決定。
マサコさんの調子良さそうなら 新しいアパートに行って、
中古だけれど新しいお気に入りのピアノの「試し弾き」。

頂く決心はもうついてしまいました。事後承諾だけれど、
「きっとノリコさんも賛成して下さるでしょう」と思って..........

納入場所は、やはりレッスン室に決めようと思います。
ドラムセットをどこかに移動させて、そのあいたスペースに置く
(ドラムは一時仕舞込み。いずれ学校のブラスバンドに寄付するにしても、
メグチャンが他の子供に指導出来るようになって、
何度か子供達に体験してもらってからにしたいので)

********

****************
5月30日
昨日、譲り受けるピアノの入っているアパートに。
20数年ぶりに会うKK君は立派になっておられました。
5年前に出会って購入したお気に入りのピアノは、
本当にピアノ好きの彼が、大事に大事に育てた物。
30度に設定したエアコンで24時間除湿で管理。
響板などの乾燥を完璧にしたもの。
調律師は、K社側から今まで通り専属コンサートチューナーをつけるとのこと。
これは彼らがどんなにこのピアノを大切にしているかの証明。
その後、電車で新しいアパートへ。
「5階建てのアパート」という言葉から連想するアパートとはほど遠い、
古いけれどそれはおしゃれな建物。

「ピアノを4階まで階段を使って運び上げた」話に驚いたけれど、
建物中央の緩やかに登る準螺旋階段で、中央は空洞。
住居は4階から6軒分のみ。彼の部屋は以前、
何かの事務所だった関係で北側は床から立ち上がりのある、
ほぼ全面ガラス。まだブラインドもないので、
外からピアノの姿がガラス越しに見えた。
このピアノはマサコさんもお気に入りの、
とてもいいピアノで(中古と言ってもオーバーホールで、中身は新品に近い)。

北側の窓からは近くに山が丸見え。下を見れば、花咲く他人のお庭が見える。
「天国にいるようなとても幸せな1日」とKKさん。
「まるで天国にいるような夢のような時」とマサコさん。

KKさんの人生最高の日にご一緒させていただいた、最高の日でした。
0からの出発だった彼の人生。
あそこまでに独力で築きあげた、どの努力に感動でした。
...

今日はアヴィニヨンですね。
行く前に世界遺産の放送のアヴィニヨンを見せてあげるのだったと思いました。
しっかり見てきて下さい。
デジカメで、動画(ビデオ)撮れるの知ってますか?
それを知っていたら、奄美の土地を撮影するのだったと悔しがってるモニカです。


再びKKさんの話







# by grpspica | 2005-05-28 08:14 | 音楽・哲学・宗教 | Comments(4)
2005年 05月 25日

在日コリアンの回答を読んで by I.I.

  「在日コリアンの回答」を読んで当然のことながら、個々による捉え方の違いが、わずかながら感じられました。

  A氏の文章には、穏和な表現の中に「誇り」や訴えかけられている事が痛烈に感じられ、心に響くようです。特に質問 5. 9. 12の回答には強い想いがあるように思います。

  B氏の文章では厳しい文章で突き放された感じがします。私からは意見を述べたりすることも出来ない程の「怒り」があふれています。それから、1945年まで選挙権・被選挙権を有し、納税もし、日本人として参戦されていた事に驚きました。「怒り」はもっともだと思いました。

  私としては、文面が厳しいとどうすれば良いのか判らない戸惑いがあり、温和な文面の方が考えさせられます。ただ全ての人が温和だと問題がはっきり見えてこないので強く訴えていく必要性はあると思います。

  明石市内で高校まで過ごした私は、こういう問題がある事すら知りませんでした。
  20才前後、西宮や神戸の知人が差別を口にするのを聞いて初めて知りました。それ以後、「海峡」を読んで大きな問題であることを知り、日本人として恥かしい思いをしました。孫氏の「個々人の人格形成、市民社会に成熟が見られない」という意見は厳しいながら耳の痛い事だと思います。

  A氏の民族教育の原点はおじい様の存在であり、その努力の実は期待しないとおっしゃられますが、根は十分に張られると思います。私も親として恥ずかしくない民族教育の根を張らせてあげられるように努力していきます。

 '96.03.23  
             





# by grpspica | 2005-05-25 11:06 | 命・平和・人権 | Comments(1)
2005年 05月 25日

在日コリアンの回答を読んで by M.T.

  一人一人の個性(人間)を見ないで「‥‥だから」と言って決めつけ、その人を枠の中に入れて見ていることが多くあります。
  例えば「女だから無責任だ」とか、そうやって朝鮮の方やエイズの方、部落の方、学校に行かない子供や人と違った考え方や行動をする方、黒人、その他いろいろな方達を枠の中に押し込み、自分とは違うという理屈をつけて差別していく。

  今の日本はそういう社会だと感じています。差別される側でなく、差別する側に問題があります。それなのに、苦しみ、その苦しみから人間性を高めて行くのは、差別される側で、問題のあるはず(いや絶対に問題がある)差別する側はのうのうと生き、傲慢に生き、少しも苦しんでいない現実に腹が立ちます。

 金明石さんの考え方、生き方好きです。私も子供との関わり方、金さんと同じようにありたいと思っています。
 問15. に「在日に生まれて良かったと思っておられますか?」とありますが、もし、日本人に生まれて良かったと思っておられますかと聞かれたら、私はどう答えようかと考え込んでしまいました。「もちろんイエスです。」答えたいけれど、答えられないと思います。日本人って世界の人に、いや人間に対して悪いことをしているようなそんな気がして‥‥‥。
 
 人間は人間らしく悩める所がすてきです。 '96.03.14.







# by grpspica | 2005-05-25 11:04 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2005年 05月 25日

在日コリアンの回答を読んで by S.K.

  アンケート「在日コリアンの回答」は、読むのが辛く、私は毎回いちばん最後に、心して、相当のエネルギーを使って読ませていただいております。

  その辛い現実を直視してお答えくださる方々の、そのエネルギーはいかほどのものか、察するに余りあります。彼らの心情や家族の歴史がストレートに伝わってきます。

  かつて、逃げ場のない島国日本において、営々とお上に支配・管理・搾取され続けてきた日本人の底流に流れるいじけ、ねじれた根性がはっきりあぶり出されて見えてもきます。
  そして、この混沌として先の見えない時代状況を切り開き、生きとし生けるものが共生できる社会を創出できるのは、彼らのような方々がリーダーになった時ではないかと思えてきます。

  読みながら、素直にありのままの存在をありのままに受け止めることのできるしなやかな魂を、ありのままの思いを表現し行動することのできる強い意志を持ちたいと自分に言い聞かせております。
  '96.03.08





# by grpspica | 2005-05-25 10:59 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2005年 05月 24日

在日コリアンの回答を読んで by A.M.

  読み進むうちに、自分の表情が変わっていくのを感じました。
  在日、という言葉の持つ言いようのない重さを思い知った様に思います。
都会に住んでいる者が、自分の故郷を懐かしく、そして誇りに思うことがごく当り前なように、在日の方が祖国を思い、そして胸を張ってほこりにできる‥‥そんなことがどうして実現しないのか‥‥と歯がゆく感じます。

  でもこの目に見えない壁を崩していくのは誰でもない、私たちの世代なのですね。
私には6才と3才の息子がいます。彼らには、何の先入観もありません。誰に対してもまっすぐ、そのままの真っ白です。そんな彼らに間違った先入観を与えないように、親である私が、まず、在日の人達のことをきちんと知り、理解していかねば‥‥と思いました。そして、そのうえで正しく子供たちに伝えようと思っています。

 幸いなことに、私は「海峡」を通して在日の方の声を知ることができます。でも日本人の多くは、在日の人達のことを知る機会が余りに少ないのです。テレビ・雑誌・新聞 あらゆる所でもっともっと在日という言葉の重みを伝えて欲しいと思います。

 「日本」は家で言うなら基礎工事に手抜きがある-- というご指摘、とてもショックでした。充分頑丈な土台と信じ切っていましたから‥‥。皆と同じということが何よりの安心感ということの恐ろしさを勉強すべきかも知れません。

 Aさんの回答なさったことで最も印象に残ったのは、お子さんへの夢・願いという項目です。
 「韓国・朝鮮人であることを個性とし、そしてそれを普通のこととして受け止める」ということを、さらっと述べておられますが、とても深みのある言葉と受け取りました。これからも「海峡」でいろんなことをお話ししてください。お願いします。 '96.03.06






# by grpspica | 2005-05-24 11:30 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2005年 05月 18日

フランスは海の向こう -1- by ノリコ

フランスに行くことになった。8人の団体旅行。日本から日本人の添乗員つき。

だから旅行の準備になにもしなくていいので楽なはず。
が、いろいろと大変です。

その1,「パソコンでメールの送受信とブログを読んだり投稿したりする」
これが結構やっかい。何しろテレビが写るしくみは知らないままスイッチを押して見てる機械に弱いノリコさんは、パソコン界の用語がわからない。あれをせい、これをせいといわれていることの意味がわからない。
電圧がちがうのでコンバータ、プラグがちがうので接続プラグ、電話線も違うので接続器具くらいまでは自力(モニカの助けあり)でゲット。

マイパソコンを向こうで使えるようにすることはギブアップ。いつも助けてもらうキャノンサポートシステムの人に出動要請。「これでできるはずだけどあとはあちらでやってみないと」というところまで終了。

その2,MKタクシーが自宅から空港まで送迎すると聞いたのでネットで申し込もうとする。
途中で画面が動かなくなってやり直し。朝の1時間くらいかけて予約が完了。
それにしてもいくつもいくつもパスワードが増えて、ノリコの頭はパニックになりそう。
みなはIDやパスワードの山をどこにメモしてるのかしら?

その3,ユーロはいずこ。
ビルの隣の「三井住友」にはユーロの手持ちがない。
すぐ近くの「みずほ」に電話で聞いたらあるというので、買いに行ったら、ドルしかないって。
どうも三宮までいかなければならないみたい。
やっぱしアメリカは強い、か?

4万円分もユーロを持っているTH氏に最初の日のチップの分だけ借りたいと申し入れたが「いやだよ」と。だから三宮まで一走りしなきゃぁ。

-2- へ







# by grpspica | 2005-05-18 15:39 | 旅・ヨーロッパ | Comments(5)
2005年 05月 16日

在日コリアンの回答 その5 by 姜 光重(カン カンジュン) 

1,在日朝鮮人について一般的な説明をして下さい。
   「異国に永住することを決意しながら、その国の市民権や国籍を取得しようとする人が多数派ではない奇妙な集団」と捉えることが出来るでしょうか。勿論その奇妙さには相応の根拠や所以があるのですが。

2,ご自身が在日朝鮮人であることについて語って下さい。
  自分自身が朝鮮人であることについては残念な面もあります。
  日本の社会の中では、私のように医師であればかなり自由に活動出来るのですが、それでもアンタッチャブルなところがありますね。例えば政治活動に参加する、あるいは政治家になることは不可能です。

  それから日本人の目と朝鮮入の目という複眼で、社会のあらゆる現象を観察し、理解し、そして自分の入生にまた反映させるということが出来ますので、その意味では入生を豊かにしてくれたという風に思っています。

  医師という職業は、在日朝鮮入であっても日本の社会からは高く評価されますので、私の人生において、他者から評価されるときに、在日朝鮮人であるというより医師であるということの方が優先することが多いのです。そうすると在日朝鮮人である事を意識しなくでも生きていける・あるい在日朝鮮人であることのデメリットをより少なくして生きて行くごとができますから、私をもって、在日朝鮮人の一般像とすることは墨来ないのではないかな、私は非常に恵まれた位置にいるんではないかなと思っています。

  概して言えば在日朝鮮人というのは、社会的地位が不安定で経済的な保証も非常に不充分で危うい存在ではありますね。

3,ご両親が朝鮮から日本に住むことになった経緯にっいて教えて下さい。
  多分二人ともその親が食い詰めて日本にやって来たのだと思います。日本に来れば何とか食えるというので来たのでしょう。その背景には植民地支配と農地の収奪があったのでしようね。

4,現在のご家族について。
  妻が日本人、同い年。子供が3人、女の子。
  一番上の子は国籍法改正前ですから朝鮮国籍。下の2人は改正後ですから、取り敢えず日本国籍で、20才になったら日本国籍か朝鮮・韓国国籍を選択しなければなりません。
  両親はどちらも遠くに住んでいます。

5,ご実家での民族的な教育は、どうでしたか。また現在、どのようになさっていますか。
  民族教育は私の場合は余りなされていなかったと思います。むしろ家族は民族教育にっいては熱心ではありませんでした。
  私自身の子供に対する民族教育は、朝鮮総連系の西神戸朝鮮初中級学校に通学することで取り敢えず間に合わせています。
かなりうまくいっていると思っていますがどうでしょう。

6,ご両親の教育方針について思い出深いお話があれは1つ2つ、何か話して下さい。
  私達の両親の世代の場合、朝鮮人であるということだけで、あらゆる就業の機会、またしばしば就学の機会を奪われていました。例えば奨学金がもらえないために貧困家庭の子どもは進学出来ないとか。
  ですから自分自身に対して否定的な見解を持っていたようです。それとそういう処遇をする日本人や日本社会に対する反発というのもありまして、非常に複雑なメンタリティを持っているのではないかなと思います。けれど、エピソードというのは具体的にはっきりとは覚えていないですね。
  私の父親は事業(土建業ですけれど)に失敗して、その過程でアルコール依存症になりまして、今は、社会人としてはうまくいってないですね。お酒はやめていますけれども。

7,日本、日本人、日本文化について、感じておられる事を述べて下さい。
  重要なことは、反発したり否定したりしてもしょうがない、生産的でないということです。
つまり生きてる間に何かを産み出そうと思えば、敵は少なければ少ないほどいいわけです。
味方は多ければ多いほどいいと。少なくとも、何も達成出来なかったとしても精神衛生上、味方は多い方がいいだろうということですね。

  従って、私は最近「何事についても肯定的な評価をしよう」という風に考え方が変わってきています。
  実は私自身は、生まれてから今日までの40年間1度も臼本人から朝鮮人と言って罵られたことがないのです。どういうことかというと、私が勉強が出来て、気が強くて、そしていじめる側に廻るということが多いということで、向こうから私をいじめるとどんな仕打ちをされるか分からないので、面と向かって言われたことはないです。
 
  日本の社会というのは、秩序や調稀を優先しますね。それで天皇制を頂点とするヒエラルキーがあって、そのヒエラルキーの上下の階層構造が、その集団ピラミッドの存続や拡大発展をまず第一に優先する社会ですね。

  これはまあ俗に言う集団主義ですけれども、集団主義の良い面というのは、あることを成し遂げる、例えば経済の近代化を成し遂げるとか、高度成長を成し遂げる、そういう何か特定の目的があって、集団の力を必要とするときに非常に効率良く、目的は達成されるということですね。

  例えば、第二次大戦前の軍備の整備ですね。軍備整備についてもそうですし、高度経済成長もそうでしょう。それから、物を作るということにおいては非常に有効に働く。それから他の集団と競争するということでは、やはり集団内部の結束は有利な条件です。

  その裏返しですけれども、集団の存続や発展を最優先させるために、個人の人権や人間性が、しばしば尊重されないということが起きる訳ですね。一人一人の人間性が優先されませんので、少数者や社会的弱者はどうしても置き去りにされたり切り捨てられたりしやすい。

  在日朝鮮人がそうですし、傷害者がそうですし、阪神大震災で判りましたように高齢者がそうですね。それから精神障害者もそうですね。そういう集団ヒエラルキーの中に取り込むことが出来ない存在あるいは集団ヒエラルキーの規格に合わない存在というのがどうしても排除されてしまうという、集団主義の弱点もありますね。

  個人的に付き合えば非常にいい人ばかりです。まず柔軟で人の意見をよく聞き、自己主張はほどほどにして、調和的人間関係を保とうとする。こういうふうに穏やかですね。これは朝鮮入より穏やかです。

  朝鮮人に話してる話と日本人に話してる話、1個人を比べてみた時に、日本人と朝鮮人のどちらが侵略者であったのであるかと判断すると、話の過激振りからだけ推察すると、朝鮮人の方が侵略者だと誰でも言うと思います。それ位日本入は穏やかで調和的です。

  ただある特定の時代に、特定の民族の特性について一般的に語るというのはとても困難になって来ました。何故かと言うと、時代の変化が余りにも鋭く移り変わっているからです。従ってその時代の変化、出来事に応じて、日本人や日本文化もある程度適応しながら進んでいます。ですからこれから、そういう集団主義から速いスピードで脱皮するのではないかなと思っています。何故ならばそうでないとちょっと21世紀に日本社会が生き残って行くことが出来ないのではないでしょうか。

  その理由は1番目に他国との関係ですね。諸外国との関係が保てなくなるということですね。集団主義というのは競争を目的としています。決して共存を目的にしている訳ではありませんから、競争社会から得た多大な黒字が続く限り、他国から益々疎んじられる存在になるでしょう。だから競争社会から共存社会へ考え方を変えて行かないと臼本の社会は全く生き残って行けないと思います。

  2番目に自国内でも重要な問題が起きます。これは社会の超高齢化ですね。あと20数年で高齢者が人ロの1/4を占めます。その時に彼らは決して生産者には成り得ません。しかも社会的弱者がマジョリティーとして発生してきますから、これを今までのような弱者切り捨てでは済まされないと思っています。
  しかもそのマジョリティーは戦後の民主主義教育を受けてきた層ですから、切り捨てられることに我慢できるかどうか。多分我慢しないと思いますね。日本、日本人、日本文化というのはこれから急速に、おそらくいい方向に、共存社会の方向に変わると思います。

8,ご自身が朝鮮入であることを意識なさったのはいつでしょうか。
  小学校の先生が教えてくれた、小学校3年位からですね。
  その頃の学校の先生は戦前教育を受けた方ですので、日本と朝鮮の関係について、戦前の皇国史観的な自説を私達の前で臼本の学校で展開してくれました。そこで自分自身強く意識したと思います。

9,在日に生まれてよかったと思っておられますか。(イエスでもノーでも理由を聞かせて下さい)
  イエス。
  今は忙しいけれど豊かな人生を歩んでいると思います。それは私が在日として生まれたという条件が非常に大切だった。たまたま2番目に医者になってそういういろんな視点が持てる立場にいるということがありますね。

10,日本入になりたいと思われた事はありますか?
  中学生高校生の時に非常に厳しい就職差別があるということを知った時に、日本人であればこういう事がないのになと思いました。
  今は全くないですね。全くとは言えない、今はないですね。

11,今までで1番侮しかったた事は何ですか?
  妹が小学生の時に朝鮮入といわれて、沢山の男の子にいじめられたということですね。それを知らなかったわけですが、ひどいいじめに遭ったようですね。それが1番悔しかったですね。

12,最近の日本入の在日社会に対する変化をどう受け止めておられますか?
  かなり寛容になってしかも仲間として、受け入れようとしていますね。してると思います。世代によって違うでしょうし、階層によっても違うでしょうけれども、積極的に仲間として受け入れようという基本的な態度の変化がありますね。
  「さきがけ」がそうですね。「さきがけ」は自民党、新進党から分かれた党ですけれども、いわばリベラルな保守勢力です
  けれども彼らの態度は変わってますね。素晴らしいことだと思います。

  私はいつも言っていますが、日本というのはアジアのり一ダーですから、日本が市民社会的な文脈で民主主義国家になれば、他のアジアの国も続いて行くと思います。ですから日本社会のこの変化はとてもいいことだと思っています。

13,お子さんへの夢、願いを語って下さい。
  3人とも女性ですけれども、将来は男性に依存しなくても生きていけるようなライセンスであるとか能力を身に付けて欲しいと思っています。

14,この頃、考えておられる事を教えて下さい。
震災後の高齢者や障害者の置き去りにされた状況をどう変えていくかということを頭の中で8割考えています。

それから、私も40才の節目になりますので本を出すことを考えています。
1番目が詩集ですね。震災後にいくらか書き溜めたものがありますので詩集を出したい。
2番目が元々やっていたホスピスに関係したターミナルケアの教科書を出したい。
3番目が糖尿病の食事指導についてあまりいい本がありませんので、糖尿病の食事指導の本を出したいと思っています。
  人生の聞に1冊の詩集と1柵の小説と1冊の評論と、また数冊の臨床医学書を書きたいと思っています。

15,入生のモットー、ご自身の目指すゴール、その他、地球社会に望むことを教えて下さい。
  時間がもっとあればいいのですが、私自身は日本や韓国・朝鮮、アジアそういった価値観を越えた、人類が共有出来る普遍的な価値観を生きている間に見出せればいいと思っています。

  その一つは個人としての人権の尊重ですね。ヘンリーアキエニノミヤ氏が、「競争祇会の上に共存社会という価値観を置くべきだ」ということを言っていますけれども、彼と全く岡じ意見です。
  人類が平和共存出来るような価値体系がどこかにできたらいいな、あるいは自分がそれを作ることに寄与できたらいいな。

  そういう意味で私の全ての運動は関連があります。
  インフォームドコンセントに熱心なのもそうですね。ホスピスケアもそうですね。ガンで死を目前にしている人たちを人として処遇する。それから、阪神高齢者・障害者支援ネットワークも同じですね。弱者や少数者が生きていて良かったと思えるような環境でなければ、その社会はいい社会ではないという風に思っています。






# by grpspica | 2005-05-16 11:45 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2005年 05月 16日

オモニとアボジたちへ by マサコ

1995年9月22日

  お元気でご活躍のことと存じます。
  私が、在日朝鮮人の事を詳しく知りたいと思い、その存在の輪郭がつかめてから、約5年の年月がながれました。

  91年の6月には、兵庫県外国人保護者の会の当時の代表、I.J.さんと朝鮮に関する日本人の問題解決にカを注いでおられる学校の先生に初めてお目にかかりました。
  それから今日まで、私は数名のオモニたちと長く話込んだり、お互いを解り合う事で、友情の華を咲かせてきたと思います。

  そして色々な出版物、小冊子を丹念に読むことで、何も知らなかった頃よりは、日本人には想像もつかない在日の方々の経験、日本人が判っていない在日としての気持を考えるようにな
りました。

  今回、未だに在日朝鮮人の存在がつかめていない日本人向けにメッセージを発信することを思いっきました。
  世の中には、『アンケート・インタビュ一』という言葉はないように思いますが、文章にして回答なさりにくい場合はテープ録音でお答え下さってもかまいません。
  質問の内容ですが、やや抽象的であると思います。どうか実例をあげて答えて下さい。

  また、私自身は、私の霊体験に苦しんだ経験から「在日朝鮮入」のところを「シャーマン」に変えて、このアンケートに答えるっもりでいます。

  原稿には長さの制限はありません。答えたくない質問は飛ばして下さい。
それではどうかよろしくお願い致します。



在日コリアンの回答 その5 へ







# by grpspica | 2005-05-16 09:55 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2005年 05月 15日

AT KAGOSHIMA AIRPORT

Now I'm at KAGOSHIMA AIRPORT, found a computer corner.

Unfortunatly can not use ROMAJI NYURYOKU IN JAPANESE.

I'M DOING FINE. WE ARE LEAVING HERE ABOUT ONE HOUR LATER.

BEST REGARD FROM UNCLE RYU.







# by grpspica | 2005-05-15 12:34 | グループスピカ | Comments(0)
2005年 05月 13日

在日コリアンの回答 その4 by 金 明石(きむ みょんそく)

  私にとって思い入れの多い設問群でかなり文章が長くなってしまいました。
  しかし、せっかくの蓮遁ですから、ご迷惑でしょうが最後までお付き合い下さい。

1.在日朝鮮人について一般的な説明をして下さい。
  在日1世は自分たちのことを、歴史的経緯に万感の思いを込めつつ、日本に住んでいる韓国(朝鮮)人という意味で『在日』と言っていたと思います。当然自分が韓国(朝鮮)人であるということには揺るぎはありませんでした。
  2世は、自分たちが韓国(朝鮮)人でもなく、日本人でもないという意味で『在日』ということばを使っているように思います。アイデンティティーの揺らぎは深刻です。しかし、「私は韓国(朝鮮)人だ」と思いたい人は『在日』という言葉が嫌いなようです。
  3世以降は、自分たちが韓国(朝鮮)人でもあり、日本人でもあるという意味で『在日』という言葉を使えたらなあと思っています。両方ともが自分らしさだから、両方とも否定せず楽しみたい。現在『在日』大好きキャンペーン実施中!もちろん私は3世です。

2.ご自身が在日朝鮮人であることについて語って下さい。
  私にとって民族や民族的に生きるということは、目的ではありません。自分が人間らしく生きるためのとても大切な手段なのです。特に他民族を排斥する風潮が強い日本社会では欠くことができません。しかしそれはあくまで目的ではなく手段なのです。

  従って私は民族的なものそれ自体に価値があるとは思っていません。もしそうであるなら、特に在日3世以降は生まれた時から価値の低い、あるいはマイナスの存在になってしまうと思うのです。
民族的に生きることに価値があるのではなく、民族的に生きることによって民族的劣等感を払拭し、自分を差別せず、人間としての尊厳をもって生きて行くことができるようになることにこそ価値があるのだと思います。
  祖国の統一も、統一それ自体は目的でも、それだけで価値のあるものでもなく、一つの手段でしょう。その意味で私は民族主義者ではありません。

3.ご両親が朝鮮から日本に住むことになった経緯について教えて下さい。
  父方の祖父母はなんと1923年の関東大震災のとき、すでに日本に住んでいて、駆け落ちして東京の方に行っていたということです。5円55銭といわされたが危ういところで助かったと聞いています。
  母方の祖父母もほぼ同じころ済洲島からきています。面白いことに私の連れ合いの両方の祖父母もほぼ同じころ韓国から来ています。在日のはしりですから44歳で3世だというとよく驚かれます。

  今、日本では、日本に来ている外国人に不法滞在だ、不法就労だとかいって非難したりしますが、誰が好き好んで、住み慣れた国を離れて、言葉も分からないところに来たいもんですか。でも食うためには、仕事があると聞けば、人間はどこだって行くのが自然の道理だと思うんです。
  自分たちの豊かな果実を盗みに来た盗っ人みたいに外国人を見ないでほしい。
  心の卑しさが透けて見えるから。

  在日1世たちは正にその心の卑しさのまっただ中で斗って来ました。子どもを育てるという目的のある力強い、逞しい女たちと違って、男たちは勝てない悔しさに酒まみれになった。心の弱さから女房子どもに暴力をふるった。自暴自棄になった。
  一体責められるべきはだれなのか?

4.現在のご家族について
  連れ合いとの間に小学4年2年5歳の三人の子どもがいます。日本の学校や保育所に通っています。

5.ご実家での民族的な教育は、どうでしたか。また現在、どのようになさっていますか。
  民族教育は特別には受けませんでした。親自身が受けていないのだから、特に子どもに受けさせる必要性を感じなかったようです。しかし祖父母が身近にいたので、その存在そのものが民族教育だったと思います。
  自分たちの子どもに対する民族教育の必要性は強く感じています。本名で日本の学校に通わせているから余計そう思います。在日も4世ともなると自分の韓国人の部分を探してもなかなか見つからないくらい小さくなっています。自分はほとんど日本人だという訳です。

  日本の民族的差別がそれほど強くなければそれでもいいんでしょうが、あまり小さいとそこを攻撃されたとき太刀打ちできないと思うんです。だから攻撃されてもそれをはねかえす程度には大きくする必要があると思っています。
  いま性教育をしなければ、子どもをポルノ産業に売り渡す危険性があるのと同じくらい、私たち在日が民族教育をしなければ、子どもが親も自分自身をも否定してしまう危険性があるのではないでしょうか。

  具体的には韓国人ぽい名前にしたり、ハングルやノレ(歌)やチャンゴ(長鼓)を教えたり、韓国に2年に1度くらい家族で旅行したり、普通の家よりは少し韓国や民族の話題が多かったりというところです。
 しかし家庭だけだとどうしても不足がちです。福島区は大阪でも少数地区ですので、学校の民族学級や民族クラブというよりもう少し広い地域から集まれる土曜学校のようなものを現在模索中です。
  もちろん民族教育は民族的アイデンティティーの確立が目的ではなく、民族を通して人権の大切さを理解すること。
  自分を大切にし自分を好きになることだと思っています。

6.ご両親の教育方針について思い出深いお話しがあれば、1つ2つ、何か話して下さい。
  父親が2年前の正月に亡くなったとき、連れ合いの実家の名古屋から臨終に向かう名神高速の車の中で、父親が自分になにも無理強いしなかったことに初めて思い至りました。
  長男の私に仕事を継いで欲しかったのだろうけれど、それを強制はしませんでした。
  学校や結婚のことで親の権利とばかりに拒否権を発動したりする親が多い中、子どもの人格を認めてくれていたんだなと気がついてうれしかった。

 享年65歳。若すぎるが、すべてのことをやり尽くして、いつ死んでもいいと納得していた人でもありました。

7.日本、日本人、日本文化について、感じておられる事を述べて下さい。
  いま日本はとても危険な状態にあると思います。
人間に是非ともなくてはならないもの、そしてそれがそのまま民主主義を育てるためにもっとも必要なもの、『自立』と『信頼』なんですが、いまの日本には両方ともがとても希薄だからです。いじめをはじめとする教育の危機はそこに根本的な原因があると最近ますます確信を強くしています。

8.ご自身が朝鮮人であることを意識なさったのはいつでしょうか。
  小さいころからだと思います。

9.日本人になりたいと思われた事はありますか?
 大学で民族と出会うまで、韓国人に生まれたことが自分の最大の欠点だと思っていましたが、不思議に日本人になりたいとは思わなかったです。

10.今までで1番悔しかった事は何ですか?
  長女(小4)が去年の夏、同学年の男の子からロゲンカの末、「なんや、韓国人のくせに!」といわれてしまったことかな。

 親の自分たちは通名を使って、日本人のふりをして生きてきたせいもあって、面と向かっていわれたことがなかったもんだから、自分にいわれたように悔しくて涙がでた。

 もっとも、長女は「韓国人のどこがわるいねん!」と言い返すことができたようだが、戦後50年も経つのにいまだに韓国人を見下す言葉がこどもたちの口からでてくることを重く受け止めたい。

11.最近の日本人の在日社会に対する変化をどう受け止めておられますか。
 『共生』という言葉が好きです。いろいろな文化をもった人たちが互いに認め合い、尊重し合って共に生きる。
ことにユーゴスラビア等の民族紛争をみるとき、『共生』こそ核に代わる戦争の抑止力として、被爆国日本が世界に向けて発信すべき考え方ではないでしょうか?より一層の意識変革を期待します。

12.お子さんへの夢、願いを語って下さい。
 子どもは神様からの預かり物。大人になったら、彼らの人生を歩むことになります。
  その意味で期待も夢ももちません。彼らの人生ですから。大人になるまで十分楽しませてもらっていますし、勉強(成長)させてもらってもいます。

 ただ、大人になるまでに次の2つのことをするのが親の義務だと思っています。
ひとつは子どもたちが人を信じられるよう、まず、親と子どもの問で信頼関係をしっかりと持てるようにすること。
もうひとつは、自立した子どもに育てること。自立とはなるべくなんでも自分ですること、むやみにものを与えられないこと、自分で自分の身を守ること、自分の意見をもち、自分で判断して行動することです。

  子どもと一緒にいるときには、こうすることが子どもの自立につながるか、子どもとの信頼関係を深めるか、または壊さないかと考えて行動するよう努めています。
もっとも、子どもと長時間一緒にいると、ヒステリックになることが多いですし、酒飲んで酔っ払って、エッチでだらしない父親の部分もしこたま見て、愛想をつかせているかもしれません。

13.この頃、考えておられる事を教えて下さい。
  参政権のことです。『帰化』は国籍だけでなく民族まで変わることを強要する制度ですが、『参政権』は民族を変えずに市民権を得るための運動だと思っています。

  しかし、この『参政権』を在日がなかなか欲しがらない。日本社会にどっぷり浸かっている分だけ民主主義に対する信頼感が低いせいもあるんでしょうが、なんとも歯痒いのです。
 低所得者や女性に参政権がなかった時代にはもっと参政権要求の運動が盛り上がったはずなのにと思ったりします。

  が、まだ運動は緒についたところ、あせってはいけません。いつの日かきっとこの運動が瞭原の炎の如く燃え広がることでしょう。なぜならこれは人間の自由と平等、すなわち自己決定権の獲得と自分達の人権を守るための斗いだからです。ご理解とご支援をお願いします。

14.人生のモットー、ご自身の目指すゴール、その他、地球社会に望むことを教えて下さい。
  民主主義的に生きること。即ち人間らしく生きること。自分を差別して来た心の痛みが背景にあると思います。また結婚と子育ては大きな転機でした。
生身の生活はきれいごとではなく、人と人とのつながりの大切さを普段着のまま教えてくれました。
 
  教育基本法第1条に「教育は人格の完成を目指す」とかかれています。この人格とは何か、いろんな辞書を調べたら「人格とは、真偽を識別し、他人の価値を認め、社会的に責任のある行動をとろうとする、人間固有の品位や性格である」とかかれていて、とても心に響きました。
私の社会的責任は何か、いつも心にとめています。

15.在日に生まれてよかったと思っておられますか。(イエスでもノーでも理由を聞かせて下さい。)
  もちろんYES。
  でも日本人に生まれていても、日本人に生まれてよかったというと思います、きっと。
  自分を肯定して、自分を好きになること、自分を尊敬して大切にすることは人権意識そのものだと思えるのです。



オモニとアボジたちへ by マサコ へ
在日コリアンの回答 その5 へ






# by grpspica | 2005-05-13 13:22 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2005年 05月 11日

在日コリアンの回答 その3

質問事項に対する想い
  個々の質問事項一つをとっても、詳しく表現しなければ、日本人には理解できずに誤解を招く恐れが、多分に生じる可能性が高く、誠に申し訳ないのですが、時間の都合もありますので、抽象的に簡潔に回答させていただきますので悪しからずご了承くださいませ。

1. 在日朝鮮人について一般的な説明をして下さい。
  帰りそびれている間に、国籍選択権と帰国の保障すら与えず、一方的に外国人として仕立てあげ、放置し続けてきた状態で、日本に生活を余 儀なくさせられている人々のことをいう。

2. ご自身が在日朝鮮人であることについて語って下さい。
  当り前のこととして国籍が本来あるとするならば、日本の中での在日 韓国・朝鮮人とは、まるで当り前のように否定されるべきものとして日本人の中で家庭教育され、民族教育を保障されたことがない両親の許で育った子供が、ただ親の国籍がそうであるということだけで、子が親と世間を見て、誇りを持って成長することができるのであろうか。
私にとって在日韓国・朝鮮人とは、奪われたものを取り返し、人間尊厳を取り戻していくための「シンボル」であり「十字架」であり「生き方」そのものである。

3. ご両親が朝鮮から日本に住むことになった経緯について教えて下さい。
  侵略されてまもない 1923 年に日本で父が生まれ、母は祖国で生まれ歳のころ日本に渡航して来ました。
  両親ともに、祖父母が日本で生計をたてるために、家族ともども日本に渡航してきたのであり、しかも「日本人」として 1945 年まで、一貫して日本で、選挙権、被選挙権も有しながら、納税もして生活していたのであります。

4. 現在のご家族について
 妻と子供3人の5人家族です。

5. ご実家での民族的な教育は、どうでしたか。また現在、どのようにさっていますか。
  両親は一貫して日本人になるための教育しか受けておらず、父は、日本人として赤紙を貰い、村から「万歳」のもと参戦しております。戦後帰りそびれて、日本での生活を余儀なくされ、朝鮮半島の情勢と、外国人管理取締の政策の節目ごとに、私たち子供の人生を思案し、6人の子を、民族学校、あるいは日本の学校にと進学させています。

6. ご両親の教育方針について思い出深いお話しがあれば1つ2つ、何か話して下さい。
  特になし。

7. 日本、日本人、日本文化について、感じておられる事を述べて下さい。
  家に例えれば、基礎工事に手抜きがありますので、何かあれば非常に 弱い。外来文化の消化吸収には、すばらしいものがあり、世界で群を抜きかけている。
  集団、会社、全体、平均を重んじるあまり、個々人の人格形成、市民社会に成熟が見られず、形、表面だけの幸福に満足しており、精神的な真の意味での幸福感を享受できないでいる。
  社会参加せずに、ヒマを持て余している人が、本当に多いのには驚くと同時に、日本社会の先が案じられます。

8. ご自身が朝鮮人であることを意識なさったのはいつでしょうか。
 6、7才の頃

9. 日本人になりたいと思われた事はありますか?

  否定的に生きていた中学3年生の頃までそんなことを感じていました。

10. 今までで1番悔しかった事は何ですか?
  6、7才の子供の「こころ」に両親がともに持つ祖国朝鮮に対して、 マイナスイメージを植え付けた日本社会の「風土」を、私は、許せないと思いました。

11. 最近の日本人の在日社会に対する変化をどう受け止めておられますか。
  1部の日本人有志の努力の賜物だと感謝しています。ただ、文部省教育の中に正しく反映されず、また、十分な教育的努力が全くなされていないので、将来を案じております。

12. お子さんへの夢、願いを語って下さい。
  韓国・朝鮮人という個性を普通のこととして受け止め、日本で生まれて、育ったということを誇りにしていけるような子供に育てたいですね。

13. この頃、考えておられる事を教えてください。 
  民族差別は、差別する側の日本人の心の問題であります。失礼な言い方になるのですが、先進国の中では社会資本整備が、最も遅れている日本は、まだまだ、豊かではありません。
  早く豊かになって、生活にゆとりの時間を持ち、「心にゆとり」を持ってもらう中で、民族差別解消に努力していただきたいと考えています。

14. 人生のモットー、ご自身の目指すがゴール、その他、地球社会に望むことを教えて下さい。
  モットー  いつも心に太陽を!
          いつ死すとも悔いなき毎日を!
         出会いを大切に!
   目指すゴールなんて、考えたこともありません。暗中模索中です。

15. 在日に生まれてよかったと思っておられますか。
    (イエスでもノーでも理由を聞かせて下さい。)

  文明は、偉大な先達の「なぜ?」の解明から始まったのではないかと考えています。
  私にとって「在日」とは、全て「なぜ?」につながってしまうのです。私に飽くなき「なぜ」を与え続けてくれる「在日」は、良きにつけ悪しきにつけ「大切」なものの一つであり、元気を与えてくれるものであります。


在日コリアンの回答 その4 へ







# by grpspica | 2005-05-11 12:50 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2005年 05月 09日

在日コリアンの回答 その2

1. 在日朝鮮人について一般的な説明をして下さい。
  日本の植民地政策の結果として、今日の在日朝鮮人としての存在がある。
  最近思うのだが、朝鮮籍、韓国籍、日本籍あるいは、両親のどちらかが朝鮮人である場合を含め、出自が「朝鮮」であることを明らかにすることが、差別の対象となりうる人々すべてを在日朝鮮人と規定することができるのではないか。

2. ご自身が在日朝鮮人であることについて語って下さい。
  質問が難しい。

3. ご両親が朝鮮から日本に住むことになった経緯について教えて下さい。
  1937年、父が12歳の時、祖父に連れられ渡日。
  1934年、母が 8歳の時、両親に連れられ渡日。
  共に朝鮮での生活が成り立たず、日本行きを決意。
  1945年、結婚。その後、今日まで故郷を訪問していない。
   (母は7年前に他界。)

4. 現在のご家族について 
  妻と日本の公立学校に通学する子供(中2の息子、小6、小4の娘)の5人家族。
  夫婦で「在日」に関わる会話が多く、長男は若干、閉口しているのではないかと思う。それでもおかまいなしに話すことにしている

5. ご実家での民族的な教育は、どうでしたか。また現在、どのようになさっていますか。
  私が12歳の頃まで祖父が健在だった。祖父は、パジ・チョゴリを身につけ、日本語を話さなかった。生涯、その姿勢を変えることのなかった祖父の存在が、私の民族教育の原点でなかったかと思う。
現在、私の子供には、「朝鮮」に関わるあらゆることを語りかけるよう努力はしている。その実は期待しない。

6. ご両親の教育方針について思い出深いお話しがあれば1つ2つ、何か話して下さい。
  思い浮かばない。

7. 日本、日本人、日本文化似ついて、感じておられる事を述べて下さい。
  日本、日本人、日本文化。この「日本」3連発には言葉につまってしまいます。

8. ご自身が朝鮮人であることを意識なさったのはいつでしょうか。
  物心がついてから、朝鮮人であることを意識し続けている。

9. 日本人になりたいと思われたことはありますか?
ありません。

10. 今までで1番悔しかった事は何ですか? 
  どれが1番どれが2番ということはないが思い出として残っているものを1つ。
  今から20年前、朝鮮半島見たさに対島へ出かけた。2泊3日でレンタカーを借りて、朝鮮半島を望む場所を中心に走り回った。快晴続きにも拘わらず、結局この目に朝鮮を焼き付けることなく旅は終わった。
ところが、港で福岡行の船待っていると、1人の男が寄ってきて「誰か待っているの?」と聞くではないか。
  「イイヤ」と答える間もなく、今まで乗客と思っていた回りの男たちが急に私を取り囲み、
  「警察の者や。外登を見せろ。」
  「何しに対島に来た!」
  「署へ行こう」
と、四方八方から言いたい放題。押し問答の末、出港直前にやっと解放された。明らかにいやがらせであった。
1人の朝鮮人の、祖国を見たいという夢さえ、日本は拒むのかと当時思ったのを今も鮮明に記憶している。

11.最近の日本人の在日社会に対する変化をどう受け止めておられますか
13.この頃、考えておられることを教えてください。
   

  11番と13番の質問も含めて回答します。
  最近、いろんな場所で、朝鮮のチャンダン(リズム)に触れる機会がある。
  近くは子供たちの通う小学校や保育園。ちょっと足を伸ばせば、生野民族文化祭、長田マダン、東九条マダン、奈良サンウリム等々。
ハードでいくならライヴハウスでも。それらでは、日本人も朝鮮人もともに歌い踊り、笑い、泣いている。
  あーこれが戦後50年の姿なのか。  

  しかし一方、政治家に眼を向ければ、相変わらずの歴史認識発言だ。それも確信犯がぞろぞろ。私たちはこの落差を一体どう考えればいいのだろうか。
  この日本には、かってのアジア侵略に対して反省するパブリック・コンセンサスが育っていないということなのか
  あー これも戦後50年の姿なのか。

12.お子さんへの夢、願いを語って下さい。 
  自らの出自を忘れてはならない。それだけで十分。 

15. 在日に生まれてよかったと思っておられますか。   
  もちろんイエス。在日ならではの経験をさせてもらった。



在日コリアンの回答 その3 へ







# by grpspica | 2005-05-09 10:34 | 命・平和・人権 | Comments(0)
2005年 05月 08日

在日コリアンの回答 その1 

1,在日朝鮮人について一般的な説明をして下さい。
  日本人とは?  朝鮮入とは?  在日朝鮮人とは?
  それぞれ相対的なものでは?
  日本の植民地支配によって産み出された流民とその子孫。 三世・四世の時代になり、これまでの「民族」の概念では説明不可能。
  近年、マージナルマン(境界人)あるいはマイノリティーとしての方向を模索する傾向もあるが、少数。賛否に関係なく、日本人との婚姻と日本国籍取得(帰化)の増加によって今後ますます民族的意識はうすれるだろう。

2,ご自身が在日朝鮮人であることについて語って下さい。
  質問が袖象的。在日朝鮮人でなく歴史的所産としての在日朝鮮人問題が日本人に問われるべき。

3,ご両親が朝鮮から日本に住むことになった経緯について教えて下さい。
  生活が苦しくなって出稼ぎに(?)。以来、今日に至る。

4,現在のご家族について
  韓国舞踏に励む妻。本名で学ぶ民族問題に無関心な3人の子供。

5,ご実家での民族的な教育は、どうでしたか。また現在、どのようになさっていますか。
  食卓にはキムチ、日常語は日本語、感情表現は朝鮮語。子供の健康と幸せを願うこと以外に、特別な教育はなかった。
子供に幸せになって欲しいと願っているが、特に何もしない。自ら学び取るもの。

6,ご両親の教育方針ついて思い出深いお話があれは1つ2つ、何か話して下さい。
  教育は未来への投資。その日その日を口に糊するだけで必死だった一世。教育方針は選択肢のない自由放任。

7,日本、日本人、日本文化について、感じておられる事を述べて下さい。
(沖縄を除いて)異民族に軍靴に躁躍されなかった幸せな歴史。議論の必要のない(以心伝心)文化的均一と単一民族観。 勤勉・忍耐・一丸がぴったりの国民性。
  温暖で肥沃な国土。天皇を頂とする平和な家父長国家。

8,ご自身が朝鮮人であることを意識なさったのはいつでしょうか。
  生まれた瞬間から意識することを余儀なくされていた。

9,日本人になりたいと思われた事はありますか?
  なれるはずのないことを思わせる罪。

10,今までで一番悔しかった事は何ですか?
  在日朝鮮人に生まれたことを悔しいと思わせる国に生まれたこと。

11,最近の日本人の在日社会に対する変化をどう受け止めておられますか?
  在日社会に封する変化ではなく、日本国の利益追及の結果に過ぎない。

12,お子さんへの夢、顯いを語って下さい。
  楽しく、イキイキと

13,この頃、考えておられる事を教えて下さい。
  楽しく、イキイキと

14,人生のモットー、ご自身の目指すゴール、その他、地球社会に望むことを教えて下さい
  under-take→under-stand→ケンチャナ

15,在日に生まれてよかったと思っておられますか?(イエスでもノーでも理由を闘かせて下さい。)
  選択不可能な問題はただ、under-take。

16,今までに日本人から問われた質問などで、おかしかったもの等があれば書いて下さい。
  在日を知るには、日本人の貴方が自問してみて下さい。貴方自身の問題ですから。
  日本人と在日は、両者にしか通じない特殊な意味書葉で話し、互いに囚われた関係の中にあります。鏡の中の自身の姿に思わず顔を背けるような。

☆注 ケンチャナとはハングルで大丈夫という意味


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# by grpspica | 2005-05-08 11:35 | 命・平和・人権 | Comments(3)
2005年 05月 06日

つゆのあとさき by マサコ

沖縄地方の梅雨入りをニュースが伝えている。神戸もここ数日、曇った暗い空から、お水がどっさり落ちてくる嫌な天気だ。

その中で永井荷風の「つゆのあとさき」を読んだら、何もかもご機嫌になってしまった。
文が旨い。活きのいいお寿司のよう。文の形が細工物のように美しい。文体が長い。長いものは七つもの小節がつなげてあり、一つの意味になっている。ユーモアがある。流れと展開が見事。四百円の文庫本で、ここまで楽しめるのは、ありがたい。

読んでいる時から、一杯の新茶で上等の和菓子を食べたくなる。今日は、虎屋の「母の日」用のおまんじゅうを買ってきた。
「荷風さん、これからも仲良くしてくださいね」と言いつつ、手を合わせる。

何となく話し相手にも恵まれない今の私には、荷風は最良の人かもしれない。もう五十才なのだから、それなりの恋人を見つけなければ、つまらない。荷風を愛する人に評論家の川本三郎さんがいる。この方の手ほどきで荷風に引き込まれるようになった。

しかし私は小学生の頃、荷風の名前だけは知っていた。
小学生の頃、「あめりか」「ふらんす」物語をめくってもいる。
 「荷風? アー、おばあちゃんの大嫌いな人よ」
 「おばあさんはなぜ嫌いなの?」
 「くだらない小説を書く人だから。いやらしいの」

祖母は西田佐知子の歌う「アカシアの雨が止むとき」にもカンカンに怒る人だった。
 「下品だわ。こんな歌が流行ると国がつぶれる」
 荷風が嫌われる訳はすぐわかった。荷風は女性を徹底的に性的なものとして扱い、色事を好んでいた。これだけで荷風は祖母にボロクソに言われていたのである。

しかし、漢文が読めて、英仏詩の訳詞が出来て、美しい日本語を使える人材が平成の世にどれだけいるだろうか? 国が潰れるどころか、貴重なものを残してくれたことにはならないか?
 私はその香りを楽しんでいる。

荷風はグールドに似ている。二人とも株が大好きで、集団を好まず、一人を好み、残酷なことを嫌う。文士として戦争に協力しなかった荷風とカナダ文学のユニークな作品「戦争」を愛読して、その映画音楽の企画を担当したグールドには一脈通じるところがある。
グールドの私生活は荷風程「色好み」ではなかっただろうけれど、グールドの強烈な個性は、ピアノで何かしている。

梅雨時の色々な表現が散りばめてあるこの作品は、「つゆのあとさき」に読むには絶品である。そして好きな人に別の好きな人の面影を見つけることは、いつも楽しい。






# by grpspica | 2005-05-06 08:45 | 音楽・哲学・宗教 | Comments(1)
2005年 05月 04日

母の思い出 by マサコ

 母との28年に近い生活を思い出すと、女性として自分の結婚をとこぎり嘆く心と音楽に対して鋭い感性を持っていた姿が大きく残ります。

 幼い頃の無数の子守唄。寝る前に聞こえてくるピアノの音。なんと幸せな一時。
 グールドに関しては、いつも「ブゾーニそっくり」と評していました。1981年トロントで初めてグールドがドイツの批評家からこう評価された事を知りました。
 去年(2000年)出版されたオストウォルドの伝記で、グールドがこの評に狂喜していたことを知ると、「東洋の一主婦が、ブゾーニにそっくりなグールドに気づいていたのだよ」とグールドに教えてあげたい気持ちです。
 こんな母に育てられたので30才で音楽院に入学しても何も困らなかったのでしょう。

 母は、常に結婚しなければよかったと思っていました。そして自分の実母のことも「一人でいればよい人だった」と言っていました。
 父が夫として妻子をかまわない心で生活し続けること、妻に母親を要求するだけの妻にとってのしんどさに音をあげている風情でした。
 妊娠中に父に対して「殺してやりたい」と思っていたと同時に「音楽の好きな素晴らしい精神力の持ち主が生まれる」と確信していたことをよく聞かされて大きくなりました。

 私の体が激しく痛むとき、
 「私があんなに腹を立てたから、こんな体に生まれてしまったのかねぇ」
と嘆いていました。霊的な原因を除くと正にそのとおりでした。
 願わくばグールドのおっかさんのような胎教であれば、もう少しピアノの才能もあったのではないでしょうか!
 グールドの母は妊娠中に、大ピアニストにすると確信していたそうです。母の場合、この世的な欲がないのが、おもしろいです。

 このように母は父のことを常に恨んで悲しんでいましたので、子供である私は、女性にとって結婚が最悪のものと考えるようになりました。
 それでも私は結婚したかったのです。なぜなら多くの霊能者が私は結婚すれば幸せになれると言ったからです。

 次に、母は何事にも熱心で真剣。心細やかにできる限りの最高の努力で日々を生きていました。料理も洋裁も手芸も素晴らしくこなし、直感・情緒・知性・洞察に秀でた女性でした。
 人間の幸せとは、
  1.打ち込むものを持つこと
  2.人間相手で生きないこと
 人生についての母の教えは、どれも素晴らしいものでした。50才が近づきますが、これまでにも「お母さんが教えてくれたとおりだ」と思うことは沢山あります。そのほとんどが私の今日の幸せの鍵になっています。

 母は1980年1月に60才の誕生日を迎えたすぐ後にガンであることがわかり、闘病生活に入りました。
 私にとってこのタイミングは辛かったです。その頃ようやく体の調子が英語の勉強向きに整いそうで、喜んでいた矢先でした。
「この家にいる限り、私はなんにもできない」と私は看病する状態を受け入れることはできませんでした。
 そんな不幸感や不満は折々に表れたとみえて、母から
 「あなたは自分のことばかり考えている」
となじられて、
 「早く死んじまえ」
とけんかしました。本気でそう思いました。

 母が亡くなると、やっとしたいことが出来ると大喜びで英語の勉強を始め、カナダに渡り、就学のチャンスに恵まれました。
 しかし、折に触れ、母の看護の際の自分の幼稚さやわがままをジワジワと後悔せずにはいられませんでした。
 何もかもあげ尽くした娘から、いざという時にあんなひどい言葉しか返ってこない母が気の毒になりました。

 愛とは
①自己犠牲
②見返りを求めない
③愛しぬいた人から深く傷つけられること
 これが愛なら、こんなものは必要ないし、持ちたくもないでしょう! この三大原則を順送りでいつか、自分も体験するのだと恐ろしくなりました。

 世の中には、親子の縁が薄い方がおられます。特に生みの親の愛に恵まれなかった人々は、母の愛がどんなものか、といい面だけ想像して悲しく思っていらっしゃるようです。
 現実には、人間同士、絡み合い過ぎれば、親子でも相克し合うのではないでしょうか?
 母の人生を振り返る時、彼女の人生のテーマは「愛」だったと思います。
 その「愛」こそが、私の前生からのテーマであったと思う時、神様がこの母の赤ん坊として生まれることができた巡り合わせを感謝せずにはいられません。

2001年7月28日母の22回忌に

                           





# by grpspica | 2005-05-04 14:46 | グループスピカ | Comments(5)
2005年 04月 28日

母の思い出 by ノリコ

1,はじまり
 1980年2月、お餅が喉をとおりにくい、胸に痛みがあるというので病院嫌いの母を説得して明石市内の開業医の診察を受ける。
 バリウムを飲んで胸部レントゲン撮影、側でスクリーンを見ていた次女が「あれっ」と思うほど大きな丸いものが食道の半分以上を占めていた。
 「兵庫県立ガンセンター」では、年齢(60才になったところ)および体重35kg位、心臓の下垂が激しいことから手術は無理。放射線治療をするとの説明があった。
 家族会議(長男夫婦、長女・次女・三女)で、「放射線治療は受けない、自宅で丸山ワクチンをためす」ことに決定
 その理由。
 ①医療に対する不信
  ・母自身、三女の「認められぬ病」のために、長年の苦労を経験しており、
そもそも現代医療を信用していなかった
  ・1972年3月父が全身性エリテマトーデスで死亡した。
前年9月に体調不良を訴えて明石市民病院に入院したが、11月まで診断が
つかなかった。夜間に緊急に気管支切開をした時に人手不足で次女が手術を
   手伝った。治療法が現在ほど確立しておらず、なにもしない(ようにみえた)
うちに病態がどんどん悪くなる。医師との信頼関係を最後まで作ることが
でき なかった等
  ・「病院で死ぬものではないね」というのが母の結論であった
 ②家で最期を迎えることが本人の希望であろうと考えた
 ③放射線治療に対する期待の低さ
  ・素人なりにその効果に疑問を持ち、また副作用によって母の状態がより悪く
なることを恐れた
  ・入院しなければ放射線治療を受けられないという面もあった
 ④丸山ワクチンには、以前から母も興味をもって話題にしていた
 ⑤現代医療を拒否するなら、それにかけてみよう。副作用がないのだから

2,医師探し
 丸山ワクチンを引き受けて下さる医師が見つかり、2月25日から療法を開始。ただしT医師は、高齢の親を抱えておられて、当初より「往診はできない」と言われていた。母の通院が可能な間に、往診をしていただける医師を探さねばならない。
 5月、山川鍼灸師に、近くにさくら診療所が開設されたことを聞いて、N医師に出会う。
 「家で最期を迎えたいということ、丸山ワクチンを使って欲しいこと、本人にはガンを告知していないこと」を長男夫婦が伝えた。
 N医師は「丸山ワクチンは水と同じで効果はありません。自分としてはこの治療をさせてほしい」と身近な方に試みて効果があったという副腎皮質ホルモン療法を提案された。この療法は副腎が反応している限り効果があるが、反応しなくなったら急激に身体は悪化するという説明もあった。
効果がないと明言されながらも丸山ワクチンの使用には快諾を得て、家族は一安心、医師の支援を心強く思う。
 さくら診療所からはN医師と看護婦の往診が始まった。毎日の点滴で楽になったと母が喜ぶ。

3,告知
 ガンの告知はしなかった。喉に腫瘍があることは隠すことができなかったので、「それは悪性ではない、ガンではないからカンだ」と名付け、「今日のカンクンの調子ははどうですか?」などと言っていた。後にガンは英語でキャンサーと知る。
 6月半ば頃までは調子が良かった。食事もはかどり、庭に出て草花を楽しんでいた。しかしだんだん食べ物が喉を通らずに気管支に入ってむせることが多くなった。身体の倦怠感・寝ていられないほどの苦しさも増加した。身体を起こして枕などに寄りかかっているのが楽だという。この快適な姿勢作りは次女が得意だった。母は、この頃、体調が良くならないので「なぜなのよ。どうして?」と三女にあたった。

4,死の受容
 6月のある日、母は「私はもう1階には下りないわよ。人が来ると会わなきゃならないし、体力を使うのがもったいないから」と宣言。そのときは元気になると思っていたようだ。
 その頃、次女が医師にホルモン療法について尋ねると、「もう限度いっぱい使っています。これで効かなくなったら、悪化してその後は1ヶ月ですね」との返事。
 家族は、丸山ワクチンに望みをかける一方、鍼灸・太陽光線療法・ベルジュバンス・親戚が送ってくれた「猿の腰かけ」・どことやらの水・なんやらの木を煎じて飲むなどいろいろ試みていた。
しかし6月末頃には食べ物が気管に入るのはガンが気管にまで及んだことと理解し、「やはりだめか」という気持ちになった。
 そして薬が効かなくなったらあと1ヶ月と聞いて家族5人で24時間の看護体制を組み直した。
 母もそのころから死を意識したのではなかろうか。
 7月のある朝、「もう死ぬような気がする。長男夫婦を呼んでくれ」と言う。車で15分のところに住む中学の教師であった長男の妻は、夏休みでもありすぐに来てくれた。
当時、県立図書館職員の長男は仕事に出ていた。「すぐに命がどうこうとは思わないけれど、かあさんが来てくれって言うのよ」と伝えた。長男は上司から「本人がもう死ぬと言っているのだから帰りなさい」と言われて帰宅。
 長男夫婦と3人の娘に囲まれ、母はひとりひとりにお別れの言葉を述べた。
しかしいっこうに死がやってこないので、「おや、まだ死ねないらしいね」と恥ずかしそうにしていた。

5,葬儀の用意
 三女は子どもの時から身体の不調に苦しんでいたが、仏教徒によって先祖供養を指導され、それによって苦しみが少なくなったという経験があった。そのことが大きな理由で、子どもの時からキリスト教であった母は信仰を離れ、教会とも縁がなくなっていた。
 そこで葬儀をどうするかが問題となった。母を除いて話し合った。仏式の葬儀は子どもたちはまったく知らない。お寺とも縁がない、お経にもなじみがない。葬儀は故人よりも参列する人のためにあるのだからとの結論で、キリスト教式で行うことにした。
 次は牧師をどなたに依頼するかである。大川義篤氏にたどりついた。大川牧師は一度来宅され、子どもたちの意向を聞いて下さった。そして母には会わずに帰られた。
 長女が何かの折りに「お葬式をして下さる牧師さんが決まったよ」と伝えると、母からは「ああそう。それはどうも」といういたって淡泊な答が帰ってきた。

6,副作用
 ある日突然母が、1昼夜延々とおしゃべりを始めた。1晩、くるんと目をあけたままで、口をからからにしながら、ぶつぶつ言うのである。「自分には罪があるからお水を飲むことができない」といって水分を取ろうとしない。また「金大中さん、ごめんなさい」と繰り返す。その他聞き取れないことを休む間もなくしゃべっている。金大中氏が日本から拉致された事を謝っているようだ。後に彼は韓国の大統領になった。
 これは治療薬の副作用だった。
 来宅したN医師から強力な鎮静剤を注射されてうわごとが治まり、布団に身体を横たえた。
 医師が帰られた後でまだ鎮静剤の効果が持続しているとき、母は布団から身をずらそうとする。「そこは畳だよ」と次女が言っても、お尻を動かして布団からずり落ち、そして小水を始めた。「ああそうか、布団を汚したくなかったのね」と次女が言うと母は「そうだ、わかったか」というように頷いた。
 N医師は「あんなに強力な鎮静剤を打ったのにそんな意識があるなんて」と驚かれたという。

7,最期のとき
 7月28日、長女は大阪で仕事を終えた。いとこから母のために黄色のバラを買ってほしいと頼まれていた。適当な黄色のバラがなかったので、ピンクを選び花束を抱えて帰宅する。
 まず2階にあがり、それを母にみせる。
 「これ藍子ちゃんからのお花」
 「きれいねぇ」
 最後が近いということで、そのころは皆が家に集まっていた。
 その日、朝から緑嚢を出していたので往診を依頼した。夜、N医師の診察が終わり、1階で話をしていたとき、2階にいた長男の妻の大声が聞こえた。
 全員急いで2階に行く。医師が母の目を見て脈を調べる。とその口を母の口に近づけてマウスツーマウスを2〜3回行い、続いて心臓マッサージを繰り返す。胸に手を当てて全身の重みをかけて押すことを繰り返す。
 「もう止めて」と次女と三女が声をあげ、N医師はその声で手を止められた。

8,長女の告白
 ところで母の死の床で長女の心に浮かんだことをここで書いてしまおう。家族以外には言っていないことだけれど。
 「今年の冬はスキーに行ける」
 「大川先生でお葬式ができる」
 「保険が間に合った」
 長女はその頃スキーに夢中になっていた。食道の写真を撮ったその日にもスキー場に向けて出発する予定だった。次女から事務所に「診察してもらったら、食道に大きな腫瘍があってガンかもしれないらしい。私は今夜のスキーには行かないけれど(あんたはどうするの?)」と電話がかかった。一瞬悩んだ長女も、スキーバスをキャンセルし、雪を見ることなくそのシーズンは終わった。それで「今年の冬はスキーに行ける」である。
 平和運動家として著名な大川牧師にとって、夏は広島・長崎ときわめて多忙な時期で、行事と母の死が重なるのではないかとみなで本当に心配していた。
 最後の生命保険のこと。母は飛び込みの勧誘を受けて、毎月1万円を5年間積立て、満期保険金60万円、死亡保険金90万円という保険に、しかも2口入っていた。その5年目がまもなく終わろうとしていた。なんと長女は母の死の枕元で「これで死亡保険金がもらえるなぁ」などと考えていたのである。

9,終わりに
 医学的な治療をしないという方針(N医師によってホルモン療法はなされたが)を選んだことに、子供としての悔はない。もし母の立場であったらきっと同じ事をして欲しいと思っただろう。
 また自宅で死を迎えることができて良かった。いつも家族のだれかが側にいた。長男夫婦は別居しているし勤務がある。長女は弁護士という自由業で定時に出勤しなくてもいいうえに、自宅からの電話でかなりの仕事ができる。
 自宅にいたから知人から鍼や真光のお浄めをしてもらうこともできた。ベルジュバンス(毛髪の酸性トリートメント)のために神戸から毎日美容師が来てくれた。
 とはいえやはり終日自宅にいる次女(ピアノ教師)と三女にかなりの負担がかかったようだ。後にある知人から「最期まで自宅なんて無理だ。もう家族の限界が来ているので病院に連れて行くように忠告しようと思っていた」と言われた。
 
 現時点での長女の後悔はただひとつ。母の義姉(クリスチャン)だけが、告知をしたらと控えめに言って、数冊の本を渡してくれた。どうしてあの時、その言葉に従ってガンと言わなかったのだろう。知っていれば母自身は、自分の体の不調について懐疑心を持たずにすんだ。ガンと告げた上で治療をするかしないか、どのような治療をどこでするかについて、母自身と話をして決めることができていればとの思いは今でも心に残っている。







# by grpspica | 2005-04-28 10:15 | グループスピカ | Comments(9)
2005年 04月 24日

ナボコフの誕生日 by マサコ

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Vladeimir Nabokov 1899.4.23~1977.7.8

今日(4月23日)はナボコフのお誕生日です。
シェークスピアのと同じだとか。
何か特別な事をしたいと思っても、うっかりピアノは弾けない。彼はピアノ嫌いだから。
かといってロシア語の歌も歌えない。(余計に悪い)

そしたら身分不相応なレストランへのご招待をナボコフがアレンジしてくれたのです。
ラパンというお店。
ここのアペタイザ-は、幼き日の砂遊び、お母さんごっこの台所仕事を思い出します。
砂で作ったごちそうを小さな葉っぱやビンのフタに次々に盛り付け、友人と食べるフリをするのです。幼き日は、こんなおいしいものを夢見て、オシャマに作っていたのでしょう。

人の心を全く傷ついていない昔に一瞬にして戻す作業は、人間の仕事の中でも貴いもののひとつだと思います。
その例のひとつが「母さんの子守り歌」を思い出すこと、これも最高!

ナボコフは理想の男性です。(と言っても最近は、アメリカ文学のアップダイクに没頭しておりますが。)
苦労と共に各国を渡り歩いたナボコフの波乱の生涯が、20才までのロシアでの「幸せな子供時代」に支えられているのはいうまでもありません。
そして「終り良ければ全てよし」の生活をスイスのモントルゥ-で送ります。

私はナボコフの霊に一度も逢っていませんが、それでも不思議に思う事があります。
晩年の大作「アーダ」を読んだら、我が家にはめずらしいクム産の絹の絨毯2枚を手に入れる事が出来ました。その上に乗ると、なぜかナボコフから贈られた気がしたものです。

空飛ぶナボコフの時間空間。
あなたもこの春、お試しになってはいかがでしょう。






# by grpspica | 2005-04-24 12:27 | Happy Birthday | Comments(3)
2005年 04月 21日

マサコと帽子  by マサコ

昔からの帽子好き。日光と電磁波の過敏症になって、益々必需品となりました。
きょうは、帽子を巡る色々な経験を。

家の中では毛糸の帽子、ちょっとゴミ捨てに行く時はその上に「サンバイザー」を乗せる。私を見た子連れの母親は、腰が抜けたようにびっくりした顔。そんなに珍しい事をしているのかしら? 

外出時に小さめの帽子を被って、更にひさしの大きい帽子を被る。
外からは確かに帽子を2つ被っているのがわかる。
初めての人々の目の形、心の奥がびんびんと響く。
「どうして、帽子を2つ被っているの?」と聞く人はいない。
 あーれ、チトイカレているようね
 危ない、危ない。(子供を)下手に近づかせては大変。
 何よ、この人!
 一体、どーゆー人? キ印ね。

人が、見た目、外見で、内容を推し量り、他人に対する態度を決めるなんて、この年になるまで経験した事がなかった。

そして全く思いもかけない記憶が蘇った。
昔、父の購読していた「リーダースダイジェスト」に、衝撃的な記事が載った。
若く美しい女性が、ヨレヨレのおばあさんに変装して、街を歩く。
薬局で、目が見えない振りをして、薬の事を薬剤師に聞こうとすると、どんなに冷たく邪険にされるか。彼女が生来のままの姿で同じ薬局に行くと、同じ人(男性)がチヤホヤ必要のない親切までしてくれるというのだ。同一人物かと思う程接し方が違うそうである。

私は、見事な変装とレポーターの天性の美貌にびっくりしながら記事を読んだ。そして子供ながらに、幼い頃、王様が乞食の恰好をして「家に泊めて下さい」と村を歩き、誰が本当に親切な人が見分けたお話を思い出していた。

その記事を思い出していたら、2005年4月20日の神戸新聞に
 「高齢者の視点で商品開発」未来の自分へ思いやりを
の見出しで、よく似た話が載った。

パット・ムーアさん。
工業デサイナーの彼女は、26才であった1980年から3年間、老女に変装した体験を本にした。高齢者である彼女への人々の仕打ちが、いかにひどかったことか。高齢者が生きにくい社会であることへの実体験から、高齢者にやさしい、栓抜き、ハサミ、ザルなどのユニバーサル製品を生んだそうだ。

パトリシア(略称パット或はパティ)、もまた美貌の持ち主だ。あなたはその美しさゆえに、日々人々から疎まれる役も演じる事ができたのでしょう。乞食は王様にはなれず、年老いた人は若くなれない。その聡明な知性を、他の人々の幸せのために働かせた女性のひとりである。

でもどうしても40年前にリーダイで読んだ記事が引っかかる。
1980年に26才ということは・・・1954年生まれだからマサコのふたつ下。
マサコが少女のころに読んだのだから、彼女がそんなことができたはずがない。

そこで考えられることは・・・

1,マサコの記憶違いで、読んだのは80年以降である。
でも80年なら、母が亡くなった年であり、81年からカナダに行ったから、そんな時期にリーダイを読んだとは思わない。そもそもあの本は、72年に父が亡くなって、しばらくして買わなくなった筈だ。
2,同じ事をした人が他にもいる。
3,彼女が年齢を偽っているといって悪ければ、彼女の年齢が間違っている。
皆様はどう思われますか?

 ★パティさんの本 「私は3年間老人だった」(朝日出版社)
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# by grpspica | 2005-04-21 20:00 | グループスピカ | Comments(4)
2005年 04月 21日

ケンポー9条 by マサコ

古殿さま 

貴重なお話をありがとうございました。
鹿児島は父の故郷です(といっても彼は住んだ事はありません)。
街に愛着を覚えます。
「平和の貴さ」を憲法9条がずっと守っていてくれたはずが、なし崩し的に、山の土が流されている感じです。敗戦後の日本人には、9条を作るセンスが元々なかったのかもしれません。

 「いつまでもあると思うな平和と人権」「ないと思うな戦争と人災」
「慰安婦」の文字も教科書から消え、NHKの改ざん問題を報じる新聞はほとんどないようです。

電波や化学食品兵器に犯される私の健康は、また質の違った戦争、「ハイテク戦争」といえる気がします。攻撃を受けると家でフトンを被って籠っているしかない。

どうぞもっと知っておられる戦争の話を聞かせて下さい。  マサコ






# by grpspica | 2005-04-21 19:57 | グループスピカ | Comments(3)
2005年 04月 18日

かかりたい医者 byマサコ

・柳澤桂子さんの本を読んでいるか、3冊は持っている。 
・夫人が医院をきちんと掃除する。
・本人か家族が、野菜や花を作っている。
・個人的に話す時には音楽の話が出る。例えば「グールドはいやだねぇ」とか
・夫人や娘がブランド商品を持っていない。 
・患者1人1人に読んだらピッタシの本を紹介出来る。
・医療エッセイ(医療に対して感じたり考えている事)が書ける。
  (夢、綴り方であってはならない)
・カネとコネで子供を医者や歯医者にしようとしない。

ハハハ、こんな医者は、きっと6月32日生まれで、別の星になら生まれているかも!






# by grpspica | 2005-04-18 00:47 | グループスピカ | Comments(2)
2005年 04月 17日

イランイランの新芽  by モニカ

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年明けそうそう10日程留守にし、1月13日に帰宅してみると
昨年あんなにきれいな花を咲かせてくれたイランランがダウンしていた。
南国の樹なので出かける間際までヒーターをどうするか考え込んでいたが、
最終的にスイッチをオフにしたためだ。
最後の2、3日の冷え込みがよくなかったようで、葉っぱはまだまだ蒼かった。

でも1日1日葉が枯れ落ちて、最後は丸裸。
18℃に設定したヒーターは24時間付けっぱなしで、
忘れる日もあったが心して声がけをしていた。

そんな棒状の樹に1、2ミリの新芽がついた。
嬉しくて心配していて下さったもらんさんに報告。
彼女のネットショップのチラシには私が送ったイランイランの花が使われていて、
大切に思っていてくださったのだ。
するとそれを記念して、こんなプレゼントをいただいた。
http://mtaof.mamegura.net/archives/2005/04/post_108.html

さて、今からどうなって行くか、毎日見守っています。
でもここ2日、芽が大きくなっていないような、
おまけに先が少し茶色くなっているような.........状態。

イランイランの育て方なんて、ネットどこ見てもないんですよ。
まあ、暖かくなれば、それだけでも生き延びるチャンスが増してくると信じて......。
写真はまだアップの技術が習得できていないので、取り敢えず文章のみ。

元気なころのイランイランを見たい方は

  イランイランですよ byモニカ


その後のイランイラン日記です。

  イランイランとランタナ  by モニカ

  カナダいくら・鎌倉かりん・イランイラン byモニカ






# by grpspica | 2005-04-17 22:18 | グループスピカ | Comments(2)
2005年 04月 16日

ミニ・スパーク考   by マサコ

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金曜日は「趣味の園芸Q&A」があるのですが、思いきって近くでやっている、モニカたちが始めて10数年になるピアノのメソッド研究会に、初めてお邪魔しました。ミュリエル・スパークの「黒眼鏡」さながらの眼鏡をかけて。 スパークの丸薬は一度飲むとそのサイケな効き目が、体のあちこちにまわり込むのです。研究会会場ではいつもの自分と違い、私は完全なスパーク世界の人形でした。それを楽しんですらいたのです。
 人生を色なしの万華鏡のように感じる癖をスパーク丸薬からもらったとでもいうのでせうか?
 その内、舞って歩けて、もう足はいらなくなるかも。 人間をさり気なく、こんなに怖く書けるタッチは、まるでマニュキア用のヤスリで心を磨かれるよう。読後は登場人物と一緒に暮らしているかのような錯角。

(註)ミュリエル・スパーク 1918年スコットランドのエジンバラ生まれ。本名 Muriel Sarah Camberg Spark Stanford。同地で教育を受けた後、8年近くをアフリカで過ごす。戦後、創作活動に入る。不気味なユーモアに満ちた作品で、ミステリ畑の作家ではないが、いくつかのミステリ的な作品がある。『ポートベロー通り』[教養文庫]など。(海外ミステリ簡易データベース ミスダスより)





# by grpspica | 2005-04-16 23:04 | グループスピカ | Comments(1)
2005年 04月 11日

鹿児島のいたましい中学生の犠牲 by 古殿 宣敬

 鹿児島市武岡は、私の子供の頃の、探検場所でした。
武岡や、城山には、防空壕があるのを、私らは知っていました。
小学生頃の昭和30年代は、まだ引揚者などが住んでいたのを覚えています。

 私は、怖くて防空壕の中に入ったことはありませんでしたが、山中で火遊びをして、山火事を起こしたことがありました。なつかしい思い出です。
 鹿児島に防空壕が多いのは、本土決戦のために、日本軍がたくさん掘ったためです。
終戦の頃の日本軍には、本格的陣地を構築するための、コンクリートや、鉄骨はもうありませんでした。
 日本軍は、防空壕に籠もって、銃剣突撃の機会を狙っていたのでしょう。軍は、国民のために、防空壕を掘ったのではありません。
 私の母なんか、「終戦の頃の兵隊さんは、防空壕堀ばっかり、しちょったど」と言っていました。

 米軍が上陸して、本土決戦になったら、防空壕は軍だけが使い、国民が入ろうとしたら、追い出していたでしょう。あるいは、壕の中で子供が泣いたら殺されていたかもしれません。沖縄戦の悲劇が、何倍の規模で起こっていたかもしれません。

 そう考えれば、この中学生たちは、戦争被害者と言うことができます。





# by grpspica | 2005-04-11 12:54 | 命・平和・人権 | Comments(12)
2005年 04月 11日

私の場合 by 小田 まき

「それで治療費は?」
「○万円から○万円くらい」
その差は1万5千円。

まるで土建屋のような歯科医。勿論、高い方になりました。歯科医が高い方に決めた。
小さなコップで足りなめの水。うがい台が浅く小さくて、麻酔でしびれた口から吐き出した水が床に落ちる。それを誰も拭こうとしない。
前の治療を受けた人の吐いたものが残っていた事、7回通院中に2回。
この歯科医は治療中に気が狂ったように喋り続ける。
思わず「おしゃべりは止めて下さい」という。

「歯グキは、さし歯をした後、紫色になっているけれど、それ治るよ」
と差し歯を削り出す。軸にしようとした歯は、前の歯医者が小さく削っていなくてほぼ丸ごと残っている。それを軸歯にするために、ながーい時間ほじった。

続いて、弱っている歯グキにレ-ザ-光線を掛け過ぎたのか、歯グキは焼けただれて真っ赤。
治療の前に1度も消毒なし、消毒のうがい薬も出してくれない状態が続いたせいか、菌が入り、それはひどい事に、見るも無惨な色で歯グキが広範囲に腫れる。
そこへ仮の差し歯を押し込んだり、引き抜いたりで私は空前の苦しさ。

内科医に駆けつけてサルファ剤をもらう。その後歯科医はうがい薬をくれた。
ようやく「消毒液」と「薬」が歯科医から出る。なぜ院内の滅菌に気が使えないの? 患部の消毒はどうなっているの?

なぜ一時に2つの治療を長時間しかけるの? 歯とその歯グキの治療。別々にしたらトラブルは少なかったのでは?
と、素人の私にも不思議な事ばかり。

結論。基礎力を失った人間はどの分野でも困り者。

ところで薬を売りたい内科医「痛いでしょう。鎮痛剤をあげよう」「我慢します」「我慢強いんだね」サルファ剤使用で1ヶ月間、白目が真っ赤。薬物反応。ガタガタ震えて、歯科医の恐ろしさにため息数千回。

結局、別の歯医者を探して、治療を引き継いでもらった。
ここでも、患者の7割が月に1度呼ばれているのを、受付での会話から知る。
「顎関節症」を言い立て、マウスピース使用開始とともに「みせてえなぁ」と週1度呼び込もうとする先生は、顎関節症の治療の為に口にはめるマウスピースについて「1回目は保険治療ですが、2回目からは私費です」と不可思議な事を言う。前の歯医者では保険の話はなく、自己負担で制作費1つ7000円を取られていた。

「あーもー、止めて」と思うのは歯科医? それとも受難者?
保険不正請求の実情を知らないで、歯科医に行かざるを得ない庶民の悲しさ







# by grpspica | 2005-04-11 10:00 | グループスピカ | Comments(9)
2005年 04月 10日

憲法9条Q&A 11 byノリコ

タグ・「共謀罪」←クリックで記事一覧へ


質問29 9条を改憲することは、憲法改正手続で、行うことができますか?

回答29
 憲法の根本部分ですから、出来ないと解するのが正しいと考えます。もし、変えた場合は、現在の憲法の改正ではなく、法的には、新しい憲法を制定したと言うべきでしょう。もっとも、通説的見解は、9条1項の改正はできないが、2項の改正は、理論上不可能ではないとしています。

質問30 9条改憲と連動する法律の改定や立法の動きはありますか?

回答30
 教育基本法の「改正」や、有事立法、共謀罪の新設など、いろいろ関連している動きがあります。

質問31 憲法改正の手続について教えてください。

回答31
 下記の憲法96条〔憲法改正の手続〕に規定されています。

「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
②憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」


つまり
①衆議院と参議院それぞれの総議員の3分の2以上が賛成すること
②特別の国民投票(または国会の定める選挙の際に行われる投票、これは衆議院の選挙などと同時に行われる投票という意味です)で過半数の賛成によって承認されること
の2点が必要です。
1票1票が集まって半分以上になれば「改正」を阻止できるのです。

質問32 国民投票法とは何ですか?

回答32
 96条に規定されている国民投票について定めた法律ですが、まだ制定されていません。

質問33 現在議論されている国民投票法(案)について、問題点を教えてください。

回答33 日弁の意見書(案)参照


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Commented by grpspica at 2005-04-10 12:24 x
つまり、国民投票の方法を法律で作らなければ憲法の「改正」はできないのです。
「投票出来るのは20才以上なのか」
「過半数とは有効投票のか」
「ひとつひとつの改正案ごとに投票するのか、一括してするのか」
等、いろいろな輪点があります。
日本弁護士連合会の意見書(案)というのがあるので、興味がある方はそちらで勉強して下さい。



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# by grpspica | 2005-04-10 11:00 | 命・平和・人権 | Comments(1)
2005年 04月 08日

これが憲法9条よ 10 byノリコ

ところで憲法9条ってどんな内容なのか、知ってますか。
中学や高校で読んだ人、覚えていますか。世界に誇る憲法9条です。

日本国憲法 第2章 戦争の放棄
第9条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 ②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。


ごらんのとおり、第1項と第2項にわかれていますが、第1項に①はついていません。

ついでにこれが英語版、知らない単語が結構ありますね。

CHAPTER II. RENUNCIATION OF WAR
Article 9.
 Aspiring sincerely to an international peace based on justice
and order, the Japanese people forever renounce war as a
sovereign right of the nation and the threat or use of force as
means of settling international disputes.
 In order to accomplish the aim of the preceding paragraph,
land, sea, and air forces, as well as other war potential, will
never be maintained. The right of belligerency of the state
will not be recognized.






# by grpspica | 2005-04-08 16:46 | 命・平和・人権 | Comments(0)