25歳の1945年 その7 |
これから落着くまでの事を考へると全く前途は暗の方がまさってゐる。
ススム、ノリコたちの事を考へるとき、
設計も計画もたてられない状態である。
真実を語り合へる友を持てる人は幸福な入人。
真理について真剣に心を開いて語り合へる信頼すべき人をしれるものは、幸福な人。
熊ケ谷姉と兄との美しき間柄。
二人が共に語る時、どんなに楽しく意義ある時をもった事だらう。
亡き兄の思ひ出の最も楽しいものの一つ。
俊子姉どうしていらっしゃる事だらう。
なんだか満されない気待ち。
なんだか張りのない生活。
心の奥深く、自分の思ひ、考へ、感情をしまつてゐる生活。
語る人なし。
皆こんな生活をしてゐるものかしら。
僅かに紀子が光を与へてくれる。
一人、私は人が嫌なのかしら?
独り、時々非常な懐しさを覚える。
何もかも離れて、独りの生活の中に入りたい気持がする。
語り合へる人 心から語り合へる人を持ちたい。
今の生活は自分の好むものでもないし、
なりゆきのまゝに、なにもかも、人にまかせた様な生活。
どうして真剣に努力出来様。
あまりにもまわりが重すぎる。
こゝで努力する事は只肉体を労費し、病気になるのみ。
いゝ加減な生活を考へないでする事がすべての事に
原節子さんのような美しい喋り方をして、
歌が上手でピアノも抜群に素晴らしいものでした。
レース編み毛糸編み刺繍も独創的。
バリカンを上手に使い、あたしたちをユニークなヘアスタイルの子供にして。
母に作ってもらっていたカーディガンや下着、
素晴らしいアイディアの古着利用再生した子供服。
実生活もですが精神生活も世界超一流のアーティストと言えると思います。
しかし実際の母の精神生活はこの25歳の時の日記に見られるように、
ひどい輩に囲まれていたのでした。
母の苦しむ状態は私が17歳で宮崎の霊能者に出会うまで続きました。
母は1980年7月28日食道がんのため自宅で、この世を去りました。
その最後の時、一心に上の姉、野里子さんを見つめてばかりいました。
姉の性格や気持ちが、後の3人の子供達と全く違うのは疎開をしていて、
台湾の新竹の山奥クァラパイで、婚家先の人々と別れて暮らしたせいだと言っていました。
音楽だけでなく色々なことを教えてもらい、美しい見本を見て育った経験。
母の世界は私の66年間の人生に、大きな影響を与えたと思います。
マサコ