25歳の1945年 その9 |
バナヽが三房もなってゐます。
大福を食べても、おしるこを食べても
懐しい懐しいおぢいちゃま。
今頃どうしていらっしゃるでせう。
兄上なき後の、すつかり変った日本での生活。
もうしばらくまってゐて下さい。
又ススムやノリコとすぐ会へますよ。
それまで頑張って下さい。
日本から端書が届いた。
待望のハガキ
何日もお米を食べてゐない、千円もなくなりさうとの事に、
けれど後につゝいて来たお便りで、どうやら、生活の道がついた事を知り、
父上、母上、姉上にとって、なんといふ大きな試錬の一年余であらう。
兄上を失ひ職を失ひ、家を失ひ衣を失ひ、
神の御旨いづこにかある、と云ひたくなる。
けれどヨブの様な信仰を神は欲し求め給ふ。
どうぞ、神は与へ又取り給ふほむべきかなとの信仰のうちに
必らず必らず神のなさり給ふ事を賜として受くるものに
静かではありますが、 敗戦国と今から強制帰国させられる様子が伝わって参ります。 生前の母親を知る者として、飾り気のない地味な性質の母が書いたものだとはっきり分かります。
現在私たちは祖父の家の保存活動に協力したいと思っています。 と言っても経済が豊かであるわけではないし、台北の家が資産価値が高いので、この先どんな計画が成就するか全く見当もつきません。
伯父が乗船して亡くなった[阿波丸事件の家]として平和を考えるために保存されたらこんな嬉しいことはありません。 マサコ