私は400円の時から1200円位の頃まで約8年間通った。
祖母に見守られつつこども音楽教室に通うマサコ
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建て直す前の家、ここに来た昭和29年頃、
マサコの身長は、下から2枚めのガラスから顔がやっと出せるくらいで、
そこから国鉄の列車が走るの見ていた。
家の近くの停留所からバスに乗って10分。
海に近い幼稚園は設備が良くて年に1回、生徒のコンサートも開かれていた。
ハーモニ-、ソルフェ-ジュ、メロディー聴音を、
美しい親切な「まつもと先生」が教えて下さった。
チビと言えど、音楽教室に通うことは職業夫人になったような自分への
誇りと喜びを感じさせた。
そして教室には最愛の「まつもと先生」がいて下さる。
たまに替わりの若い先生が教えて下さると何もかも嫌になる程、
「まつもと先生」の存在は大きかった。
帰りには、沢山の買い物のおつかいをこなさなければならなかった。
勉強の帰り、わが家で「安い店」と呼ばれていた大原商店で家族の日用品、ちり紙、
洗剤その他を買い、生きた鶏を殺してかしわにしていた後藤鶏肉店に寄ると、
私の後の大きいクラスを教え終えた「まつもと先生」もよく買い物に来ていらした。そんな時は、お店の外で、
「マコちやん、来週は来るのよ。かならずきっと来るのよ。来るのよ」と
「さよなら」の代わりに言葉を掛けて下さった。
体の弱い私はよく休んだ。1年に何度も、丸々1ヵ月お休みすることもあった。
母の編んでくれた手提げ袋に入れて、何度、先月分の月謝と新しい月の月謝を
運んだだろう。
まつもと先生は最初の頃は
「先月全部来なかったから」と丸ごと月謝を返して下さった。
しかし年が大きくなると「皆に相談する」と言われ、
小学2年生位になった時には、月謝は返還されないことになった。
1ヵ月丸ごとと書いたけれど、実はその後1年とかそれ以上、
丸ごと休んでいたこともある。そんな時は、
「今来ないと前にいたクラスに追い付かなくなりますよ」
とちやんと連絡して下さった。
後年、私は英語とピアノの個人レッスンの先生になった。
その時レッスンは月4回で月謝制だった。
でも自分の都合で休んだのにその分を差し引いて払おうとする人、
月謝袋を無くしたと言って先月分の月謝を払わないで済まそうとする人、
最後の月謝を踏み倒して辞める人というように、 ご主人が一流企業に勤め、
子供を私立の学校に通わせる日本の中流家庭の 母親達の醜悪な心に、
モロに付き合うことになった。
わが母を誇らしく思う。
今の私の幸せも母の心の美しさのお陰である。
子供は、生まれてすぐから母親の真心の世界の洗礼を毎日受けつつ育つのだと
しみじみ思う。
母は体が弱くて休んでいる私に
「月謝を払っているのに勿体ない」とか
「あんたが弱いからお金が無駄になって悔しい」
というような事は言わなかった。
先生が返して下さったと袋を渡すと
「そう、返して下さったの」と言い、
全額納入になったと告げたときも
「そう」と同じような柔らかなきれいな声で答えていた。
「まつもと先生」との懇談会の後、母はいつも
「あの先生はこどもをよくかわいがっている」とつぶやいていた。
「まつもと先生」の方は、「1ヵ月休めば月謝はいらない」と言われても、
毎回、前月分も納めようとする母の姿に驚いていらしたかもしれない。
でも後年、先生とはそんなお話を出来るようになる程近しくはならなかった。
20代の頃、最後に先生と電車の中でお目にかかった時、
「さよなら」の代わりに、やっぱり