子供の頃 ⑻ 祖母 byマサコ |

生活に疲れていた母に比ベ、祖母と街を歩くと良家のお嬢様になった気持ちがした。それもそのはず、祖母は東京の上流階級の出身であった。曾祖父は検察官を経て式部官になった。そして明治天皇や皇族が日本各地で「一夜を共にした女性」から生まれた子供達を集めて教育を授けて宮家を設立した。それ故、祖母は千代田区の広大な敷地の中で暮らし、当時の一流人達とも交わりがあったと聞く。
私はこの祖母64才の時の最後の孫で、祖母が74才で亡くなるまで晩年の生活を共にした。

何でも出来た人で、津田塾2回生主席卒業後、祖父と結婚するまで甲府で英語の先生をしていた。大変な働き者で、若き日は3時間しか眠らなかったという。母の話によると祖母は、朝5時に起きて、朝食の支度をしながら庭の畑を見回り、新聞を読みながら編物をする。家の中をホテル並に掃除をして、台所の床が少しでもべタベタすると日に2度は拭いていた。足の裏が少しでもべ夕つくのが耐えられなかったそうだ。外国のファッション雑誌を見ては型紙がなくてもデザイン通りの服を作り上げ、それはとても美しかったとの事。庭にはいつもお花が一杯。科理の腕は一流コック並みだった。若き日に能、仕舞い、邦楽一般をこなし、スポーツはホッケーまでした。教会ではいつもオルガンを弾いていた。又、歌が上手で人前で歌を歌う時だけ出歯が気にならなかったそうだ。そして夜中の12時を過ぎるといつも午前2時まで英語の勉強をしてから寝た。
世の中とは皮肉なところだ。勤勉で優秀な女性より、怠け者で無能な女性の方が運をつかみ、苦労の無い人生を送ったりする。祖母は、美男美女の兄弟の中でどういう訳か全く美人でなかった。そして生まれるのが早過ぎたのである。
何でも出来過ぎる不幸と、ふさわしい場所を得ない不幸、世間の波長に合わない俗っ気の無さ。その世渡り下手の生き方は娘の結婚に大きく響いた。
私が子供の頃に家庭内で見たものはまさしく自分の運命が配偶者によってデタラメにされていると悲嘆と憎悪に明け暮れした女性の葛藤であり悲劇だった。また「配偶者」ではないが一緒に寝起して食事を共にする家族に対して、憤慢やる方ない不満と違和感をもつ人間の姿だった。
あの嵐のような女性の感情を見て育った私は、数年前、自分なりの結論を出した。
「男の人は自分より上のレベルから配偶者を選ぶべきではない。どんなに頑張ってもボロクソに言われてしまう」というものである。しかし義理の息子への僧悪、一緒に住まなければ全く生まれなかった数々の悲劇も、反面では沢山の実りを生んだ。
祖母と母の手芸品作りの才能は、今でも私の人生に大きな励ましとなっている。姉二人のマフラーと夏用のレースの帽子は母が編んだけれど、私の物は祖母が編んだ。学校のバザーの時など、祖母の作品を学校に持ち込むのは誇らしかった。祖母の作ったものはとても美しかった。
祖母のお陰で庭にはいつも沢山の花が咲いていた。特にバラはあれこれあってとても美しかった。小さな畑からあの当時まだ珍しかったブロッコリーが採れた。祖母は自分のお碗のおつゆの実となったブロッコリーを象牙のお箸で私の口の中にそっと入れてくれたことがある。多分母が一番おいしい所を祖母に入れたのに孫の私に食べさせたかったのだろう。祖母が種から育てたブロッコリーはそれはそれはおいしかった。
今も持っている英語の子供用の辞書は、祖母が丸善で私に買い与えてくれたもの。

またラジオで英語を学ぶ方法を私がつかんだのも祖母の影響だった。台所仕事の合間、音もたてずに放送を聞かせている孫達の所に偵察にやってきては、障子をいきなり開けて、「又、そんなお行儀をして聞いている」と怒鳴りつけた。基礎英語が終ると時間通りに英会話を聞きに現れた祖母。
お風呂では、いつも石鹸をつけたタオルで私の顔から始めて全身をていねいに手順良く洗ってもらった。祖母の鎖骨の上の所には大きなくぼみが出来るので、そこに手を伝わせながらお風呂の水を入れてよく遊んでいた。
夜は布団を並べて寝る前に本を読んでもらった。この本読みが心臓の悪い祖母にはどんなに負担だったろう。本の内容の感動的なところでは二人して泣いてしまった。読めなくなって泣いている祖母に「おばあさん、はやくぅ」と涙声で次を急かせることが多かった。
私は「お母さんはさせているようだが私はそんなことをさせませんよ」という祖母のおっぱいを、いい年をしてさわりにいった。
祖母が亡くなった日、私はバッハのインヴェンシヨンの6番を弾いていた。夜、祖母の部屋に行くと「あなたは本当にピアノが上手ね」と言った。そして二人でお祈りをした。祖母の部屋を出る時、私はなぜか見納めのように祖母の姿をじっくり見てから戸を閉めた。その頃は母と姉達と同じ部屋で寝ていた。
夜中に目を覚ますと部屋の中の上の姉と母がいない。
家の中が夜中なのに妙にザワついている。
「誰かぁ。何があったの?」と寝床の中で大声を出した。
しばらくすると父と上の姉がやってきた。
「マサコ、びっくりしないでくれ。おばあさんが亡くなった」と父が告げた。
かつて祖母が父と激突した時、「僕に死ねというのですか?」と父が怒鳴り
「死んだらいいでしょう」と喧嘩していたその義理の息子から祖母の死が伝えられた。
記憶にある身内の最初の死だった。私はワーッと泣き出した。
母の話によると祖母は夜更けに「心臓発作を起こした」といって部屋から出てきた。
両親は祖母を子供達が寝ている部屋の北側にあるピアノの部屋に連れて行くと、1人が医者を呼びにいった。祖母はお弟子さんが座るための出窓風のベンチに腰掛けていた。近所の医者が往診にきて下さり、注射が効いて発作は治まった。ところがこの先生は発作を起こした直後の祖母に、その後あれこれ雑談の質問をして喋らせたらしい。後にそれが心臓発作を起こした人に決してしてはならない処置であったことを知った。質問された祖母は丁寧に答え、最後に「これでだいぶ気分が良くなりました。どうも有難うございました」と言った途端、強い発作が起こり、祖母は「アッ」といってまるで「さよなら」のように手を振ってそのまま逝ってしまった。
1962年12月15日の夜の事だった。祖母は最後の入浴の時に洗濯をしている。お風呂場で手洗いした大きな洗濯物が2つ、驚くほどよく絞ったままの形で洗面器に残されていた。その洗濯物の絞りの彫りの深さが今でも私の目に焼き付いている。その固く絞られた白い洗濯物をほどいて干すのはとても悲しかった。
祖母の葬儀の時に故人の愛した賛美歌として、
「御神の風をば 帆にはらみて 今日しも我が舟 出で行くなり」が歌われた。
賛美歌302番が祖母の愛唱賛美歌だとは知らなかった。
人生、1日たりとも怠けること、だらけることの無かった祖母。天皇制に近過ぎて、おそらく天皇家のおかしさなど、夢気付かなかったであろう祖母の人生。祖母の晩年9年の人生が、人生の初心者である孫の真新しい人生のページに書き記した事柄はあまりにも多い。
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