香雪記念病院の思い出 1 by マサコ |
「消えた香雪記念病院」byモニカ
私は17才になる年の4月18日から5月の連休明けまで、
院長はスモンを患って車椅子生活のO先生。
息子も医師としてその病院に勤めていた。
場所は西宮市鷲林寺。
16才の冬から、想像を絶する苦痛に見舞われていた私は、
患者にとって最も不利益な条件が、医者や病院勤務の人々から患者に伝えられず、
私が院内で患者の方からその情報を得たのは、神の助けだった。
ともあれ、病院内で注射を断り、孤軍奮闘していた私に、
医者とは原因不明の人の痛みをせせら笑うのか?
ある朝、瓢箪池の回りを散歩していたら、スモン院長に出会った。
病室内では、院長の注射をめぐって様々な光景があった。
うまくいって喜ぶ人。とんでもない目に合ったと泣いて怒り狂って帰った人。
実はスモン院長の弟子で異端視されていたWという医師が、芦屋で開業していた。
私はその年の3月にそこで凄まじい注射を顔中にされた。
顔が腫れ上がって痛みが少しも取れないどころか、
「味覚を失い、痺れによって唇が閉まらなくなり、よだれが垂れ続けタオルが
この「勘」も鈍ったのか、40代では、歯科医にコテンコテンに出鱈目されてしまったけれど。
「体や歯を守りたければ専門医の所へ行かないようにしなければ......」
その後、香雪記念病院に入院していた時の友人に
同じ時に入院していた患者さんと
医者の申し出を断ることが一生の倖せを約束してくれた事件であった。
注射より1ヶのリンゴが人の心を倖せにするのかも。
香る雪は私にとってリンゴの匂いと同じ。
香雪記念病院病院の思い出2へ
約40年前のお顔だからマスキングしなくてもいいことにしました。ノリコ
この年は、年明けから痛みのために全く眠れていません。
想像を絶する状態でした。
お話は変わって、この頃は紫外線予防のクリームをつけると、PM2.5や黄砂への反応がより激しくなって咳き込み、窒息しそうです。私にとっては、化学が重なり、体内汚染が激化するのでしょう。
今日は、飛び入りの9ヶ月の「りく君」が登場。お守りをしました。
TVが盛んに、陸海自衛隊のフィルムを流していますが、男の子も女の子も、どんどん兵隊になっていく時代が来るとは,,,,,。
消費税10%への意味をもっと考える必要が、、、。
日本がアメリカの植民地だとしても、日本政府は日本人のことを考えているのでせうか?
以上、ベビーピンクの代表、スピカの末娘でした。マサコ
wikiによると朝日新聞の創設者村山 龍平(むらやま りょうへい、嘉永3年4月3日(1850年5月14日) - 昭和8年(1933年)11月24日)氏は、政治家、美術蒐集家、数寄者としても有名で号を「玄庵、香雪」と称した、とあります。
これからみると日本画の野生司香雪(のうす、と読むのですね)氏とは別人のようです。
また村山氏と香雪記念病院との関係も今のところ不明ですが、建築した会社も朝日系らしいから、関係はあるのかもしれません。
あやふやな情報ですが、何しろ香雪記念病院そのものは、2002年に西宮協立リハビリテーション病院となってしまって、ネットで探しても出てこないのですものね。
曰く「病院は朝日新聞の創設者によって作られた。その人の雅号が『香雪』だったのでそう名付けた」と。。 モニカ
大阪万博の年、長女(当時2才)が股関節脱臼の手術のため1ケ月入院いたしました。
福岡在住で、当時地元の病院では回復の希望はない状況でしたが、私の母の知人紹介で、当病院へ… 手術も成功、お陰さまで長女も45才元気でおります。
マサコさまにこのようなコメント差し上げては申し訳ないと思いましたが、当時の病院のことをご存知で、懐かしくなってしまいましたので~
お許し下さい。
マサコさんが、香雪記念病院で経験したことは、彼女にとっては大変苦しいあるいは悲しい思い出のようですが、当時の(そして今でもでしょうが)ブロック療法の結果、良くなる場合もあればそうでない場合もある、という気がします。医療行為には、それはつきものなのかもしれませんね。医療には不確実性が当然伴っているのに、医療者側はそのことを事前に十分に患者に説明しないことが問題だと思います。
マサコさんも治療を受けた結果、生じるかもしれない事柄の説明をきっちり、受けていたのなら、それでも「痛むよりはまし」と考えて受けたかもわかりません。(期待した痛みが無くならない場合もあるかも!)
私達家族はマサコさんの選択は彼女にとってよかったと思いますが、逆にこの治療で助かった人もたくさんおられることでしょう。
お嬢様がそんなに小さなときに股関節脱臼と聞いて、ご両親はどんなに心配なさったことでしょう。そして遠方の病院を見つけ出して手術を受けられたこと、その手術が成功してお元気でお過ごしとのこと、本当に良かったですね。ノリコ
お優しいコメント有難うございました。
7~8年前に当時お世話になった先生にやっとお会いする事が出来感無量だったことを、思い出します。一人旅の途中、偶然連絡先が分かったもので、長女を見て頂きたかったのですが…
勿論ご高齢でした。
現在は西宮共立リハビリテーションに変わっているとか、機会があれば近くを歩いて見たくもあります。
香雪記念病院は、美しい名前のせいか、私の思い出も楽しいものに変わりつつあります。
覚えていらっしゃいますか? 病院の入り口のドアは回転式で、初めて行ったとき母は父と一緒に入ってしまったそうです。
それを聞いていたのに私も初めてのとき、母と一緒にくっついて入りました。
1人ずつ入るようになっているのに.....とても大きな空間に思えました。
最上階のレストランは眺めがよく、おいしいサンドイッチや手作りのアイスクリームがありました。
写真に写っている男の子「ひろちゃん」も股関節の手術を受けていて、ヒョコンと歩き出した頃、私が入院し、こんな小さな子も頑張っていると思いました。
お嬢様は可愛い盛りの赤ちゃんで、お母様がどんなに心を尽くされたことかと存じます。
mokumoku様は、人との繋がりを丁寧に考えていらっしゃるのですね。
あれから45年、相手を思いやるというより、荒い心を持った人々がたくさん育ってしまった気がしています。
香雪記念病院の思い出を明るいものに変えてくださったmokumokuさまに感謝します。
と共に皆々様のお幸せを心からお祈り申し上げます。マサコ
大変楽しい時を過ごさせていただいて、ありがとうございます。
今日はハンドルネームの「モクモク」についてお尋ねしたいのですが....
「煙」からのネーミングなのですか?
昔、お守りをした坊やが、汽車の煙が大好きで「きかんしゃトーマス」の白い煙の所を数十分ごとに開けては、夢のような顔をしていたことを想い出しました。
私は親にもならず、小さい人たちに遊んでもらっていましたが、この頃は頭も身体もガタが来て、子供のお守りはもう自信がありません。
mokumoku様のお嬢様は、おじい様、おばあ様、ご両親の愛情を一身に受けてお育ちになりました。だから、その愛情の光を職場で分け与えて、お仕事に励んでいらっしゃることと存じます。
空に広がる白い煙のように、mokumoku様とお話が弾んでしまうこと、幸せです。
「海峡」はそれぞれの船が人生を進んで行く姿の文章やコメントを集められたらなぁと1993年6月にペーパー版の1号が出ました。その夢を叶えて下さり、ありがとうございました。
マサコさまのお察しの通りです。
3才頃から、いろいろな高さの煙突から立ちのぼる
煙が大好きで、いつも、いつも、見とれていました(笑)煙突からのぼる煙が雲になると信じて、ちっちゃな物語りの世界に浸っていました~
遠い、遠い昔のことですが
近頃では、現実的な事しか考えなくなりました。
少し寂しいですけど…
「海峡」凄い歴史があるのですね。
何だかとても感激致しました
小さま煙、大きな煙が雲になる想像、小さな子どもならではの発想ですね。煙突からきれいな煙ばかり出てソファーのような雲になると、空に帰った人たちもみんな成仏できるのに。
それにしても偉大なのは、淡い色合いの母の色でしょうか?えぐい色だって透明感があれば、きれいですけど。
実は今朝、初めて私宛に届けられたコメントを直に拝見して感無量でした。iPadを使える!どんなオモチャより面白いです。といっても今のところチイチイパッパですけれど。
実は姫路城のお堀のそばで62年前の今朝4:00に生まれました。こうやってmokumokuさまとお話していると、その時に帰ったような気持ちになります。それぞれに天命と役割を抱えて、この世にうまれるのでしょうね。
実は1970年頃、香雪記念病院に入院されていた和歌山のkameさまの近況を知りたくて、このコメント欄を拝借させていただきますが、よろしくお願いいたします。その後、彼は山口大学医学部で学ばれたとか。現在65歳くらいのお医者様かな?多分、近畿地方で活躍されていると想像しております。どなたかご存知の方がいらっしゃっいましたら、お知らせくださいませ。ああ、香雪記念病院がとても懐かしい!!
65歳というと、当時18歳位でいらした方ですね。
残念ながら、その年頃の方は男女共、覚えがありません。
1969年の4月に入院し、その年頃の男の子は見かけませんでした。
山口大学に問い合わせてご覧になればいかがでしょうか。
マサコ
早速お返事をありがとうございまいた。
先日、私の大好きなビートルの音楽を聴いていたら、同じくビートルズ好きなkameさまのことを突然思い出しました。その後どのような人生を送られているのかしら?興味津々。こちらはすっかりお婆ちゃんになったけれど、ビートルズを聴いて気分は若人。さて、山口大学まで問い合わせる勇気がありや?なしや?
先ずはお礼まで。
マサコ さま
はじめまして
何気なく 香雪のことが 気になって
ネットをいじっていて
貴女の 香雪での思い出の記述に遭遇しました
何時 入っておられたのですか
40年前のことだから 写真をカバーしていない
との記述もありましたね
僕は 今から 35年ほど前に 勤務しておりました O院長のことも 子息のO先生のことも
芦屋の開業医 W先生のことも わかります
懐かしいですね 常勤で一年勤務しましたが
いろいろありました
それ以前には 当直医で 何年か 行っていました
これも 懐かしい 思い出だらけです
香雪が 経営がかわる前に 夜 守衛さんの許可を得て 七階のレストランスペースまで上げてもらい
一人しずかに 大阪湾の夜景を楽しんだこともありました
ほんとうに 特殊な 医療機関でした
では また
コメントをありがとうございました。
私は1969年の4月18日から、
確か5月の連休まで入院していました。
今年66歳で、17歳になる年でしたから、
49年前ですね。
先生は私が退院してから14年後に常勤となられたのですね。
レストランからの眺めは素晴らしく、
また母は給仕なさる方のマナーの良さにびっくりしていました。
一種の贅沢病院でした。
まだ回転ドアに馴染んでいない時代で、
2人一緒に入ったりしたことも懐かしいです。
姉たちがお見舞いに来るとナースが
「みんなお利口そうな顔してる」とか
外出(買い物)から戻るといち早く足元を見て
「いい靴を買ってもらったね」とか、
声をかけてくださいました。
私立の小学校に通っていた頃と雰囲気が似ていました。
先生は何科でいらしたのでしょうか?
マサコ
p.s. 新着コメントのお知らせが、画面に出ていなかったようで、
お返事が遅くなりました。ごめんなさい。
マサコ さま
こんばんは
お返事 有り難うございます
昔の話なので 僕よりお姉さんだと
勝手に考えていましたが
僕のほうが 少し 兄貴でした
関西一 優雅な 優美な病院でした
よいところ もありましたが そうでないことも
多かったです
僕は 外科医で 息子さんの O先生の下に
いたことになります そのころは もう
O院長は亡くなっておられましたね
ほんとうに いろいろありました
思い出して嬉しく得意げになることも
思い出したくないこともーーー
一度 全部 さらけ出したい気もありますね
マサコさまの 病衣姿 とても懐かしいです
コメント、ありがとうございました。
私は1952年生まれで来月66才になります。
8才の頃からの病歴を考えると、
よくここまで長生きしてきたと思います。
こうしてお便りしていると、
去年逝去された鎌倉の外科の先生を思い出します。
ちょうどこの「海峡」のpaper版を作っていた頃、
所属していた文集のお仲間として親しくなり、
海峡にも原稿をいただきました。
30年近く、折々の文通が続きました。
お住いの能勢は妙見山のあるところですね。
HNの「赤ひげ先生」は、山本周五郎の小説を思い出します。
O先生の息子さんは「坊ちゃん」という感じで、
お父様のような強引なところがありませんでした。
W先生はよくあんな野蛮な注射法を考え出されたものです。
一度、ご自分に試されればいいのに.....。
レストランでは、時々変わるアイスクリームが美味しかったです。
同室のお姉さんにご馳走していただいたり、
その真似をして姉が来た時、一人前顔して連れて行ったりしました。
朝食のトーストは冷めないように紙ナプキンで包んでありました。
病人食なので、心細かに気を使っている感じでした。
又々、思い出すままに書きました。
台風が近づいているせいか身体が疼いて寝られませんでした。
低気圧が来るといつもこんな調子。
近年は大型化しているせいか、堪えます。
先生もくれぐれもお身体を大切にお過ごし下さい。
マサコ
マサコ さま
こんにちは
七階の 大阪湾を眺望できる レストランスペース
は ホテル阪神の経営でしたから
他の病院の食堂とは まったく違っていました
不思議な病院でした
O 院長 と 大阪経済連 が連携し つくった
オープン病院 (手術するにしても 高名な医師を
つれてきて 手術をしてもらうことができる)
朝日の村山さんの 号 「香雪」 を頂く
名称からして 曰く言い難し ですかね
マサコ さまがおられた 二階病棟だけが
保険がきき 四人部屋 六人部屋
もありました
三階 以上は 全部 個室
高級ホテルの部屋よりも 落ち着いた
いい感じの ものでした
一泊 その個室は 部屋代だけで
45000円 医療費は自費 (健康保険が
きかない) ですから
2-3 週間 入院されると
その当時で BMW 一台買えるほどの
費用になったの 覚えています
結局 マサコ さまの診断は
三叉神経痛 だったのですか
側頭動脈炎??
変わったタイプの 片頭痛??
低気圧がくると 不調になられるようですね
どれだけ 役に立つかは わかりません
がーーー
次に続きます
アドバイスができるかも知れません
話は かわりますが 香雪に入られたころは
どちらにお住まいだったのですか
僕は 北野町で生まれ 小学校4年までは
庶民の街 西神戸の繁華街で育ち
4年の夏 西宮の甲東園に越してきて
結婚して 門戸 現在は 逆瀬川
の住人となっています
能勢は 開業している場所です
田んぼ にかこまれた いいとこですよ
妙見の住職も 知っています
では また
NN
楽しいお話をありがとうございました。
私の身体はいろいろなことに影響を受けやすく、
5才の時に天文科学館東の内科医に出会わなければ、
おおごとだったと思います。
その先生は
「太陽に当てないよう、北風に晒さないように。
盆栽造りをする老人のような刺激のない状態に置きなさい」
と生活管理の指導をしてくださいました。
母は素晴らしい人だったので、それ以後トラブル続きの娘の面倒を
良く見てくれました。
ご指摘のように、香雪記念病院に入院する1年以上前から、
特に顔面と歯に集中した痛みがあり、
入院した時は、その痛みのために1年以上ほとんど寝ていない状態でした。
医学的には「三叉神経痛」と言われたけれど、原因は別のことでした。
1969年秋、化学者だった父が学会で九州に行った時、
親類に私のことを「もう打つ手がない」と話したら、
「教え子の母親で、色々と視る人がいる」と紹介され、
タコとタイで有名な街から、次姉と宮崎市に移り住み、
観音経の写経生活に入りました。
キリスト教一家からすると、思いもかけない法華経の霊能者に縋ったのです。
そこで霊体質だということがはっきりし、以後、霊能者とのご縁も深く、
能勢の妙見さんには1977年から数年、
ご縁のあった六甲の先生と一緒に行ったことがあります。
甲東園には新興宗教の集会所があり、度々訪れました。
甲山での集会もその宗教の青年部の人たちと1泊しました。
今日、NHKの番組で「不思議な体験」をした人々が語っていましたが、
私とってはかなり、ごく当たり前の話でした。
でも、この世と同じで、お金が絡んだり、団体となるとややこしくなりますね。
次に続きます。
私は姫路の坊主町で生まれ、8ヶ月でタコと鯛の街へ。
その後17歳で香雪記念病院へ入院。
山陽新幹線が開通した1972年、父が全身性エリテマトーデスで亡くなり、
その後、1975ー1976年は岡山の西式健康法の治療院で過ごし、
28才半で、カナダ・トロントへピアニストのグレン・グールドに逢いに出かけ
そこで7年過ごしました。
30年前(1988年)に帰国し、1996年、大倉山に別宅マンションができ、
以来、両親の残してくれたタコ&鯛の町の家と
大倉山のマンションを行ったり来たりしています。
先ほど、「能勢の赤ひげ」で検索し、
先生の書き込まれたコメントを読ませていただきました。
楽しかったです。
先生ご自身はブログをお持ちではないのでしょうか?
もしお持ちなら教えてください。
では、ごきげんよう。
マサコ
マサコ さま
こんばんは
お返事 有り難うございます
病気のことは 兎も角として
マサコ さまは とにかく 数奇な?? (失礼かな?)
珍しいことを 経験されたのですね
姫路 明石 宮崎 米国
今は 明石 と 大倉山
相当に恵まれた環境で 育たれたのですね
よく わかります
香雪 に入れることが
もう 異次元の世界でしたからね
僕らのころは 大倉山というと 親和
とつながってきます
僕は 灘のすべりで
神戸高校へ行くため 母の実家の北野町に
籍をうつし 甲東園から 生田中学に通って
いました
ですから 大倉山は近く 友と
親和の 道路をはさんだ南側にあった
おいしい うどん屋さんにもいったことがあ ります
近頃では 数年は行けてませんが
もっこす のラーメンは大好きです
阪神大震災の際 被災者に 一番早く
ラーメンの炊き出しをした店です
話は かわりますがーー
マイ ブログ なんて もっていません
ブログをもてるような 代物ではないです よ
いい加減な奴です 笑 笑
ときどき 二木先生のサイトとか
エムズの片割れさんのサイトで
思うところを書かせてもらっています
嫌がられている存在でしょうね
非公開入力のままになっていて、お返事が遅くなりました。
ごめんなさい。
~~~~~~
昔、霊能者の助言で名前を「千晴」に改名。
先祖の要望で「母方の姓を名乗れ」と言われ、
阿波丸事件で夫(母の兄)を亡くした伯母の気持ちも考えずに
(熱心なクリスチャン)使っていたことがありました。
その時、その名前で姓名判断をしてもらったら、
「数奇な人生を送る」と言われました。
20歳の時です。
そういう訳で、先生が「数奇」と仰っても、
私には何の抵抗もないです。
この頃は、生きている人を助けられないことを痛感しているので
「亡くなった人々を助けた私の生涯も苦痛ばかりだけれど悪くない」
と思っています。
「もっこす」 胃腸の弱い私には消化しきれません。
「おうどん」は大好きです。
それから海外生活はカナダでした。
近頃、アメリカと仲良しのサウジアラビアに抗議している
トルドー首相の国です。
カナダは人権が日本より守られている国と言っても、
先住民族の女性はその犯罪被害が、
そうでない女性よりはるかに多いそうです。
毎回、能勢への通勤、大変ですね。
美味しい空気のご褒美がありますか?
きっと妙見様のお守りが行き届いていることでしょう。
まだまだ暑い日が続きます。
暑さ負けにご用心ください。
こんばんは
時間が すぎるのは早く また 世の中いろんなことが
おこりますね
この 能勢でも 風 雨 でおちつくことがない
状況です
他の地方の被害には 比べるまでもないのですが
安定した 日々がきてほしいものです
能勢と 家(宝塚)の関係ですが
今は 土曜日に帰り 一泊して 一週間分の
食料をもって 日曜日にクリニックにでてくる
のが 普通のサイクルです 笑 笑
では また
こんにちは
お元気そうで何よりです。
こちらは小さな毛の先のような蟻に噛まれ通しで
辛い思いで生きています。
私も昔はたくさんの食料を作って姉たちに差し出していました。
でも考えたら家事のし動し。
昨日もそのせいで死にそうに疲れていました。
四人兄姉中、料理を好きでするのは末っ子だけ。
なんたる悲劇でしょう。
愚痴はともかく、天候も含めてお互い心地よく暮らしたいものですね。
尊敬する女流作家高村薫さんが
「食べ物と心地よいもの美しいものは人間から卑しさを取り除く」と。
これは至言だと思います。
それではまたいつかお話をしましょう。
どうかお元気でお過ごしください。 マサコ