香雪記念病院の思い出2 byマサコ |
香雪記念病院受付には中華風美女がいて、
2Fの6人部屋に入院すると母は帰った。
東京のテイラーの娘のN・Hさんだった。
しばらくして、荒れ狂う痛みから解放されると思ったから、独り言で
「明日でこの痛みともお別れ、嬉しいナ」と言った。
そしたらHさんが「でもネ....」で始まる一連の副作用について話し出した。
私は病室を飛び出し、ナースステーションの横にある椅子付きの電話で
気づくと夜勤のナースさん達が総立ちで聞き入っていた。
Hさんは若くて副作用が恐ろしかったので、
翌日、母が飛んで来た。私は毒づいて、
「自分が寝たいから、こんな病院に入れたのね」と言った。
私の痛みは壮絶だったけど、病人らしくない振る舞いをしていた。
何かと動き回り、ベッドのシーツ交換の時、お手伝いしようとして
その内、チーフに
思えば8才の時から身体の混乱で、苦痛には慣れ過ぎていた。
ある日、病院から六甲のカイロプラクティックに行くために、母とデートした。
そして髪がグジャグジャするので、母がその辺りの美容院で頭をちゃんとしようと
これがKK美容室との出会いだった。
母は初めてのその美容室で先生に包み隠さず(相手が尋ねてもいないのに)
同じ日だったかも覚えていないけれど、三宮で室内履きのような履き心地から、
こうして病床の娘を、なんとか品物で気を紛らわせようとしたことが、
Hさんはその後、年下の男性と結ばれて一男一女の母になった。
写真の女性は、京都と湯河原からの方々。
私の外出中に注射が済んでしまって、助けられなかった。
医学も科学も進歩していると言えるのか?
100人殺して100人障害者に出来る人たちが贅沢な暮らしが出来るとすれば...。
私は高い服を着ている医者や弁護士の所へは行かないだろう!
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