暁の誕生 島崎藤村 |
東の空のほのぼのと
汝(な)が世は白みそめにけり
この暁のさまを見て
命運(さだめ)をいかに占なはむ
ことにさやけき紅の
光を放つ明星や
やがて処女(おとめ)となるまでの
汝がおひさきのしるべせよ
朝風舞(まひ)をまふごとく
はるかに雲の袖を吹き
鶏は寝覚に驚きて
先づ黎明(しののめ)を呼びにけり
はじめて朝の床の上(へ)に
汝が初声(うぶごえ)をきくときは
蕾(つぼみ)を破るあけぼのの
蓮(はちす)の花にまがふかな
ぬるき潮(うしほ)に浴(ゆあ)みして
朝日に匂ふ茜染(あかねぞめ)
まだ罪もなきすがたこそ
なかばは夢の風情なれ
いかにいかなる世なりとは
思ふこゝろもなからまし
そのうるはしき眼(まなこ)もて
なにをか見んと願ふらむ
まだ生まれ来し世の中に
願ふもとめもなからまし
空にやさしき手をのべて
なにをか早やも慕ふらむ
行く末花と生ひ立ちて
いかなる夢を重ぬとも
かゝるゆたけき朝のごと
心の空の静かなれ
あゝ朽ちずてふ九つの
芸術(たくみ)の神も心あらば
このうるはしきみどりごに
香(にほひ)の露をそゝげかし
やがて好みて琴弾かば
指を葡萄の蔓(つる)となし
耳をそよげる葦となし
たなれの糸に触れしめよ
やがて好みて筆持たば
心を文(ふみ)の梭(をさ)となし
胸を流るゝ雅(あや)となし
色あたらしく織らしめよ
よし琴弾かず歌よまず
画をかくわざにすぐれずも
せめて芸術(たくみ)を恋ひ慕ふ
深き情(こころ)を持たしめよ
盃あげて美(よ)き酒を
こゝろごゝろにくみかはし
歌をつくりてよろこびの
この暁のうたひうたはん
写真 自分で挿し芽をして育てた白小菊。撮影マサコ