A・シュナーベル & G・グールド byマサコ |
1.アルトゥール・シュナーベル
1951年8月15日、シュナーベルは、スイスで客死した。
今年は没後56年である。
シュナーベルの若い頃の写真を見ると、きつい表情で、
恐らくユダヤ人差別の嵐の中を生き抜いた人生と思える。
第2次世界大戦直前のウィーンの知的職業は、
ほぼ、ユダヤ人によって占められていて、
そうでない人々の妬みがすごかったという噂を読んだことがある。
シュナーベルは、シャガールのようにこの地に住む所がないから、
宇宙に音楽を描いた。
その結果、人間のドロ臭い想念とはかけ離れた、
洗練された響きとなり、一般人は取りつく島がない。
彼のように、月や星に、澄んだ大気に近く
音楽を発音している人がいるだろうか?
他には、エドウィン・フィッシャーしか思い浮かばない。
グレン・グールドは、22世紀には、バッハ、モーツァルト、
ベートーヴェンと同格の音楽家に扱われるだろう。
その前に、19世紀の知性と教養に恵まれた音楽家の咲かせた花が
死滅するのは、とても淋しい。
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2.シュナーベルとグ−ルド
グ−ルドは「フィッシャーは知らない」と言い、
「ランドフスカは嫌い」とのこと。そして、
「ロザリン・チュレックのゴルトベルクを手本にした」
といち早く表明した。
それは、自分がチュレックとは比べ物にならない程、
上手に弾けたからだと思う。
もしも、グ−ルドが生きていて、
今の自分の人気に目を廻して、余裕があれば、
「シュナーベルをみならったけど、遠く及ばなかった」
と微笑むかもしれない。
グ−ルドは、「シュナーベルは10代の頃のアイドル」
と言っただけで、その後シュナーベルの名を口にしなかったようだ。
シュナーベルを乗り越えられたら、
チュレックのように「私淑した」と公言したと思う。
勿論、ベートーヴェン作品に限ってのこと。
なあんちゃって、庭のカボチャ、どうなるかな。
むかしむかし、市場の中に2件のお漬け物屋がありました。
大高、大安。
大安は秘かに「大高にはかなわない」と思っていました。
大高は店を閉じました。
何せ、大安よりは50年早い店開きでしたから。
大安は、大いに踏ん張り、今や大安のお漬け物は海外レベルで、
特にバッハは、宇宙船にまで乗っております。
大安は、縁日(地上)に強うございました。
グ−ルドファンのシュナキチを見つけたい。
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3.成功者とファン
「こらこら、余計なことを書くな」
「いいじゃない。こんなにグ−ルドふぁんで、
書いた文章をお金にしていない人、いないよ」
「ついでにピアノもダメじゃない」
「いいのよ、無料程、高いものはないというから。
私は平気よ」
「今年は、カボチャになってあげたよね」
「はい、わかっております」
「フライングソーサー、咲いていないけど、
僕のバラ咲いていたから夕べキスしたでしょう」
「ハイハイ、それが何か?」
「もっと、歯間ブラシを使って欲しいな」
「フライングソーサーはきっと咲くわ。
だってシュナーベルですもん。
そうしたら、私は、花を平べったい峡谷の間において
お眠りするのだわ。
シュナーベル先生は一言も何も言わないのに、あんた、
その出しゃばり振りでみんなを幸せにしたのね」