web版1 書評 『戦争とわたし そして日ノ本』 by 前野育三 |
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弁護士で仔ひつじ会会長だった伊東香保さんから『戦争とわたし そして日ノ本』をいただいたとき非常にうれしく思いました。私は姫路出身であるし、それにとどまらず、日ノ本学園には、若き日の大きな思い出があるからです。私は宣教師のマクレラン先生が行われるバイブルクラスの生徒として、私の友人である数名の西高生とともに参加していたからです。1953~56年の頃でした。
あの日ノ本学園には、このような素晴らしい歴史があったのだ、そして同窓会には、このような素晴らしい冊子を作る実力があるのだ、と知ることができ、強い喜びを感じました。
中身を読んで、その喜びはさらに大きなものになるとともに、厳粛な気分にもなりました。70年余り前の太平洋戦争が、自分たちの生活にどのような影響を及ぼしたか、そして、日ノ本学園の教育にどのような影響を及ぼしたか、が、体験を通じて克明に描かれていたからです。
私自身も小学校(当時は国民学校)2年生の時に敗戦を迎えた世代であり、戦争の惨禍を体験していることも重なって、読みながら相槌を打つことになるような箇所がたくさんありました。執筆者の中では、寺沢晴美さんと同時期の学校生活を送ってきたことになるでしょうか。大塚和子さんとは、マクレラン先生のバイブルクラスで2年間ご一緒させていただきました。
冒頭いきなり最初の原爆を広島の対岸の江田島で体験した多田蔦子さんの文章から始まります。戦時とはいえ、そして極度の物資不足の中とはいえ、そこには日常生活があります。天気の良さを喜ぶ普通の生活があったのです。それが原爆の投下で一瞬にして地獄の真っただ中に変化するさまが想像されます。当日の広島出張の予定が変更されて、九死に一生を得られた運命の不思議さが感じられます。その逆の運命の方からは残念ながら体験を聴く機会もありません。
戦時中は、キリスト教主義の学校が、キリスト教主義の教育を守るだけでも大変な抵抗だったのだと感じられます。日ノ本学園はよく頑張ってキリスト教主義の教育を維持したのだと感心します。しかしそれも1944(昭和19)年の3月まででした。波岡三郎校長が逮捕され、数名の教員が日ノ本学園を去ることを余儀なくされ(大塚和子さんは、お父さんについてごく控えめに書かれています、112頁以下)、普通の学校としてかろうじて存続を認められることになります。
この事実をどのように受け止めておられるか、が、世代によってすごく異なることに気づきました。古い卒業生は、「宗教弾圧」(荒木さん17頁)という語で語られています。在校生として当時を経験した方も、当時を振り返って「言論弾圧」という語を使っておられます(大野さん56頁)。母校に生じている事態を心から心配されたことでしょう。しかし在籍当時の感覚としては、何が起こったのかの説明もなく、語ってはならないことのように感じられたことでしょう。何かわからないけれども「スパイ事件」で校長先生が逮捕されたという感覚でとらえられ(坂谷さん69頁、井上さん72頁)、非常に暗い気分が校内に漂ったのではないかと思われます。校内に奉安殿があり(井上さん71頁)、講堂の十字架が叩き壊されるなど(立川さん62頁)、キリスト教主義の学校から戦時色へと急変して行きます。
宣教師の帰国は、この時期ではなく、日米関係が緊迫した1941(昭和16)年に始まっているのですね(森さん37頁)。やがて開戦でした。
このような校内の変化もゆっくりと感傷にふける暇はなかったでしょう。学徒動員で播磨造船所(大前さん23~24頁等)やダイセル(黒田さん40頁)での勤労が始まり、学校へは卒業式の日にしか出席できなかった学年(大前さん24頁)、その卒業式すら、列車の遅れのために出席できなかった人も(福島さん34頁)。学徒動員が始まって3年目の学年になると、学校内で作業を行っています(大野さん58頁)
終戦とともに、また自由が回復されます。波岡校長が帰ってこられ、宣教師もビクスビー先生を先頭に帰ってこられ(立川さん65~66頁,坂谷さん70頁)、新しい宣教師も着任されます。戦後の自由な教育の先端を行く日ノ本学園でした(湯口さん82頁以下)。英語ができるだけでスパイの疑いをかけられる時代(寺沢さん95頁、100頁等)から、英語能力が誇りになり、生活に役立つ時代に変化します(寺沢さん102頁)。
このような変化が本書から読み取れて、興味津々でした。
姫路西高生と日ノ本生、若き日の前野氏もおられるでしょうか?
このように考えると、ミッションスクールが日本の教育に果たした役割の大きさも理解できます。日本が世界に目を向け、日本人が国際的に活躍するうえで、ミッションスクールの果たした役割は非常に大きかったといえるでしょう。
欧米の先進的文化の魅力やその水準を伝え、日本人が世界に目を向ける道を拡げてくれました。
ミッションスクールはなぜ女子校が多いのか。政府の富国強兵策にしたがって行われる教育は男子中心で、女子教育が軽視されてきたからではないかというようなことも、本書は感じさせてくれました(佐藤さん50頁)。
私の世代の者が共通に経験した戦争の惨禍は、戦争末期から終戦直後にかけての物資の不足、とりわけ食料の不足です。これは多くの方が書かれています(森さん39頁、大野さん56頁、土屋さん78頁等)。今の若い方には想像することも難しいでしょうけれども、配給の食料だけでは飢え死にする。田舎へ買い出しに行って、持って帰るところを見つかってしまえば、持っている食料は没収され、罰金が科せられる。それはそれは大変な時代でした。
戦時中や終戦直後の食糧難は、みな共通の経験です。しかし、食糧難が戦後いつごろまで続いただろうかというような話になると、貧富の差が影響してくるように思います。日ノ本学園の卒業生のみなさまは裕福な方たちだったのだな、と思わずにはいられません。貧しい生活をしていた私などは、もっと遅くまでひどい生活が続いていたように感じています。読みながら、現実はもっとひどかったよというのが実感でした(西村さん31頁)。
物資の不足は、日常の消費生活に苦難をもたらしただけではありません。商う物がなくなれば、商売は続けられないのです(西村さん28頁)。こうして商売の継続をあきらめて工場勤めになった人もいます。私の父もそうでした。
戦争末期の生活は生死紙一重の生活でした。この冊子でも、空襲警報のサイレンが鳴ると急いで防空壕にとび込む生活だったことが多くの方によって書かれています(井上さん73頁等)。姫路は、川西航空機の工場とその周辺に対する1945(昭和20)年6月22日午前中の爆弾空襲と7月3日夜の焼夷弾空襲と2度の空襲を受けました。爆弾空襲ではたくさんの人が命を失いました(西村さん29頁、黒田さん44頁、福積さん87頁等)。焼夷弾空襲でもたくさんの命が失われるとともに、姫路の市街地の大半が焼失しました(大野さん59頁、土屋さん79頁)。
私も空襲で家を失った一人です。当時小学校(当時は国民学校)2年生だった私は、空襲警報が聞こえると、両親ととともに、市街地の北の郊外に逃げました。田んぼの畦道から市街地の方角が燃えているのが見えました。やがて我が家も焼失したとの情報が入ってきました。船場(せんば)小学校も焼失しました。船場地区の被災者は高岡小学校に集合せよとの通知があり、高岡小学校で3日ほど過ごした後、母親の郷里である飾磨郡鹿谷村前之庄(現在は姫路市夢前町前之庄)で母親の姉の家にご厄介になりました。田舎だが非農家だったので、食糧難は同様でした。戦後姫路へ帰ってからは、狭い家屋に2家族同居の生活でした。1950年(私が中学1年のとき)まで、2家族同居の生活が続きました。
私は7人兄弟姉妹の第6子として育ちました。当時は、富国強兵策の中で「産めよ増やせよ」の政策がありましたが、貧しい家ほど多子家庭が多かったのです。兄弟構成は上から3人が姉、その下が兄、兄、私、弟でした。この順序がもし逆だったら、上が男子で下が女子だったら、徴兵の対象になり、戦場へ行くことになったでしょう。
本書では、爆弾空襲のあと、市川の河原では死体がごろごろしていたことが書かれています。また、戦災で負傷した人は、十分な治療を受けることもできず、死亡したり、後遺障害が残ったりしました(助村さん15頁)。
ラジオは、大本営発表の戦果を報道します。それだけを聴いていると日本は勝ち進んでいるように聞こえます。しかし1944(昭和19)年になるとアメリカのB29がしばしば飛んできて爆弾や焼夷弾を落としていくようになります。大本営発表通りの戦況ではなさそうだということは、多くの人が感じるようになります。しかしそんなことを大きな声で言うと大変なことになる、と誰もが口をつぐんていました。
もともと民主主義や人権の未成熟な旧憲法下の日本でしたが、戦争でますます自由が失われてゆきました。合理的な判断がますます通用しなくなる社会へ変わって行きました。こうして終戦の判断が遅れ、その間にどんどん戦争被害が深刻化していったのでした。
せめて半年早く戦争が終っておれば、原爆被害はなかった。沖縄戦の被害もなかった。都市の空襲被害もごくわずかで済んだ。満州(中国の東北部)からの引き上げに伴う苦難もなかっただろう。自由な言論が保障されていたら、これほどまで戦争の被害を大きくすることはなかったでしょう。それよりも、戦争そのものを始めてもいなかったでしょう。
戦争の惨禍を経験した世代から、若い人たちに、戦争の恐ろしさを語り伝えることは我々世代の役目です(福積さん89頁)。平和の尊さ、平和を守るためには政治的自由が大切であることをこの本は教えてくれます。
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香保のコメント
★ 仔ひつじ会は、日ノ本学園高等学校同窓会の愛称です。
★ 前野育三氏は、刑事法学者として刑法・刑事政策・少年法の分野でご活躍、
現在関西学院大学名誉教授・弁護士。
★ この書評は、「戦争とわたし そして日ノ本 web版」のトップ記事です。
今後シリーズとして順次このブログに載せていく予定です。
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モニカ