web版6 日支事変から戦争への道 by助村晃子(43回生) |
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入学前後
私は兵庫県揖保川町(現在は、たつの市揖保川町)で生まれ、農村の小学校を卒業した後、相生に引っ越しました。
当時の義務教育は、小学6年生まで、教科書は、国中同じ国定教科書でした。男女合わせて37名の級友のうち義務教育で止めるのは、一人かふたりくらいでしょうか。3名くらいの男子が5年制の中学校に、同じくらいの女子が女学校に進みましたが、それは恵まれた子供だけでした。その他は、同じ学校にある高等小学校に2年通って卒業でした。長男は農業を継ぎ、次男以下はそれぞれ勤め先を見つけて丁稚(でっち)に行ったりしていたようです。女の子は裁縫科(自由)に行って、大阪方面に女中さんに行ったりしていたようです。
播磨造船所に勤めていた父の勧めで1934(昭和9)年4月、日ノ本女学校に入学した私達は、1939(昭和14)年卒業の55名でした。
ここで女学校の費用について書いておきましょう。毎月学校に持っていくお金は6円でした。そのうち5円が月謝で残りは」修学旅行の積立や卒業後の同窓会費らしかったです。汽車通学の1年分のパスが33円でした。割安になるので皆1年分を買いました。学校での諸費用、小遣いなど親は大変だったでしょう。日ノ本には姉妹で通っている人もたくさんいました。その頃父がいくら給料やボーナスを貰っていたか聞いたことがありません。恐らく100円くらいの給料ではなかったでしょうか。大方はボーナスでまかなっていたのでしょう。
聖書・讃美歌を学ぶうち、1年程して学校が好きになりました。その後の日ノ本の生活はとても楽しいものでした。
さて、日ノ本女学校では、毎朝の礼拝は1時限目と2時限目の間にありました。というのも講堂の入り口が前方にあり、遅れてくる人が入りにくいからとのはからいではないかと思います。讃美歌の「聖なる、聖なる…」を歌いながらゆっくり後部席から座って行きました。3年生の頃、生徒数が増えて時間がかかるので讃美歌は歌わず順次席に着きました。卒業後にずっと下の卒業生に聞いたところでは、また「聖なる、聖なる…」を歌いながら入っていたとのことでした。
日ノ本は東(ひがし)小学校の隣にあって、静かだったのですが、国道が出来て土地が一部削られ、門も西向きから南向きに移動して、「日ノ本女学校前」と言うバス停まで出来、少しにぎやかになりました。
修学旅行
最終学年の5年生のとき、九州へ修学旅行に行きました。月曜日の夜行列車で出かけて土曜日までという大旅行で、広島(厳島神社)・福岡・熊本(阿蘇山)・大分(別府・耶馬溪・青の洞門・宇佐八幡宮)と回りました。帰りは夕方6時ころ別府港から船で出発し、翌日昼ころ神戸に付きました。
前年までは修学旅行の行き先は東京でしたが、前年(1937昭和12年)に始まった日支事変のために、東京の方へ行くと目立つので、神社参拝を名目にして、西の方に行こうということになったのです。
私は、学校では宗教部委員をしており、求道者会にも入っておりました。卒業前、英語と聖書の先生だった小川てる先生に受洗を勧められました。
父は洗礼を受けることには反対でした。でもこのチャンスを逃すと一生後悔すると思い、親に内緒で受洗しました。当時、綿町にあった姫路教会(バプテスト派)で、日ノ本の校長の牧師波岡三郎先生から同級生3~4人と他の方を含め16人が洗礼を受けました。姫路教会の牧師は阿部行蔵先生でした。
小川先生は人望がおありになり、在校生、卒業生共に慕われた方で、私達は度々先生をお訪ねしました。1939昭和14年卒業後の8月にもお訪ねしました。その後、先生は夏休みでご実家の大阪(布施)に帰られて、8月29日突然亡くなられました。大勢で大阪バプテスト教会での葬儀に参りました。突然のことで信じられず、悲しくて悲しくて、一生分の涙を流しました。最後にきれいにお化粧をされた穏やかなお顔にお逢いしました。35歳でした。
もしも先生が実家に帰られる前にご病気になっておられたら、布施のご家族が姫路に来なければならなかったでしょう。母上・弟さん(後に日ノ本の理事になられた小川正さん)、それに妹さんがおられました。宿のこと、その他いろいろお困りになったと思います。
先生が亡くなられて2年後に太平洋戦争が始まりました。キリスト教は弾圧され、英語は禁止され、先生が生きておられたらどうなさったでしょう。亡くなられたときは、あんないい先生を取り上げるなんて、と神様の御心を測りかねましたが、少しわかった気がします。
いろいろ困ったことがおきると、「こんな時、先生なら何と言われるだろう」と思うことにしていました。先生は今も私の胸の中に生きておられます。
結婚そして戦争
卒業後、女学校を出ても働くところはありませんでした。資格を取ろうと思えば専門学校に行かなければなりません。本人の意欲と親の経済力が揃ってはじめて達成されます。私の学年からは7人が東京や大阪へ行って3年位勉強して、英語の先生。音楽の先生、裁縫の先生、小学校の先生、保母さんになりました。
私は、花嫁修行といえばそうなりますが、お茶・お華・和裁などのお稽古事をして1942昭和17年、父と同じく播磨造船所に勤めていた人と結婚、二男一女に恵まれました。
夫は、その年から1年半、軍属としてインドネシアのスラバヤへ行きました。そこに造船所の出張所があり、船の修理をしていましたが、夫は事務の仕事をし、1943昭和18年秋に戻ってきました。
妊娠中の義妹は、東京の空襲で焼け出され、広島県福山市の郊外に住んでいた義姉のところに身を寄せました。しかし義妹は重症の妊娠中毒の子癇(しかん注2)に罹ったのです。福山市の医者にすぐ来て貰うよう頼んだら、「福山は今、空襲の最中で、とても行ける状態ではない」と言われ、医師に診られることなく義妹は亡くなりました。義姉は81歳くらいで亡くなりましたが、死ぬまで妹を助けられなかったことを悔やんでいたそうです。義妹も戦争の犠牲になった一人です。
戦時中の食事は大方忘れてしまいましたが、1升(1.8リットル)の醤油に水を足して次の配給まで持たせたこと、砂糖は一切無かった事など思い出します。お米の配給もあまりなく、何かを混ぜて代用食を作りました。
戦後になって米の代わりにザラメの砂糖の配給がありました。ゴミが入っていてバケツに水を入れ、上に浮いたゴミを流しました。
1945昭和20年6月頃だったでしょうか、ガラス戸が突然ビリビリっとふるえました。相生の町は空襲を受けませんでしたが、播磨造船所がありましたので、敵はそこをねらって爆弾を落としたのです。後に聞いたところによると、50名位亡くなったということです。負傷者も多数あったと思います。
私が住んでいた向いの方が、木端みじんになって即死されました。奥さんは臨月でした。少し離れた所に私の実家がありましたが、その向いの家の主人も即死だったとか。奥さんと小さい男のお子さんが2人残されました。隣の主人はお尻に大きな穴があいたとかで、薬もなく治療も出来ず、1週間苦しんで亡くなられたそうです。戦後、生協で時々見かける娘さんの顔には、重傷を負って治療された痕なのでしょう、若い人が気の毒なことでした。
戦後そして今
戦時中は電気もつけられず、黒いカバーをして明かりが少しでももれると隣から叱られました。8月15日、家で終戦のラジオを聴きましたが、すぐには意味が分かりませんでした。終戦と聞いても本当かどうか分からず、夕方になっても電気を付けられなかったのですが、辺りの電気がパッとついた時は気分も明るく嬉しかったです。
戦争中はお給料をもらっても物がなく、戦後は、物はぼつぼつ出てきても、造船所も作る物がなく、お給料も少なく分割でしかもらえないような始末でした。そのうえ戦後すぐは大変なインフレで10銭か20銭のものが80銭くらいになって、ただ眺めているだけでした。
1945昭和20年終戦時は23歳、2014(平成26)年現在92才です。あれから約70年、子どもたちは健在ですが、私はひとり暮らしをしています。
平和になってありがたい世の中なのに、悪い人間が増えて、人を刺したり、子供を誘拐したりしてなげかわしい限りです。(2014年10月記)
Q&A
Q:女子は義務教育を終えて裁縫科(自由)に行くこともあるというのはどういう意味ですか?
A:参加自由で、行きたいだけ通って裁縫を習ってもいいという意味です。裁縫科の方は2年位通っていたようです。
Q:同窓会の戰爭体験記の募集に応募した理由は?
A:90歳を過ぎて戦前・戦中・戦後を知っている人はもう少ないと思ったからです。
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香保のコメント
★43回生は1934入学1939昭和14卒業55名
★助村さんの妹の玉田美都子さん(46回生)は昭和61年61才で死亡
★子癇(しかん)とは、妊娠中あるいは分娩時の女性に生じる異常な高血圧・痙攣・意識喪失・視野障害など、死亡に至ることもあります