web版15 姫路は第二の故郷by A.A.(49回生) |
日ノ本に転入
1928(昭和3)年に東京で生まれ育ち、第二次世界大戦もたけなわの1943(昭和18)年の秋、東京芝浦工作機械株式会社に勤めていた父の網干工場への転勤に便乗し、疎開を兼ねて、見知らぬ兵庫県揖保郡(現在姫路市)網干町に移住し、東京府立第八高等女学校から日ノ本女学校4年生に編入しました。
そして終戦後2年目、父の故郷ここ宮崎に移って37年の歳月が流れ去りました。
振り返りませば、姫路は私にとって魂の第二の故郷となりました。否、特別信仰的な第一歩ともいうべき、数々の思い出深い経験を味わった半年の学生生活でした。大塚昇先生の宗教の時間に使徒行伝のステパノの殉教のこと、ダマスコ途上でパウロが天からの光で倒れ、目からうろこが落ちたということなど、感動しつつ伺い、帰宅の電車の中でも何度も思い出しておりました。
戦時下の日ノ本
毎年6月に教会では、宗教弾圧の記念礼拝や集会が持たれるのですが、牧師検挙や教会の解散もあり、72年経った今なお私にとって忘れえぬ思い出がよみがえってまいります。
それは、当時の日ノ本高女生の尊敬の中心であった波岡三郎校長先生と大塚昇先生が突如言論弾圧で検挙されたということです。
1944(昭和19)年の4~5月頃、校長不在の直後だったかと記憶しますが、偶然にも講堂で思わぬ事態を目にしました。講壇の上部にあった浮彫りの十字架を2~3人の外部の人が削りとっておりました。漆喰がパラパラと落ちたのを生徒のどなたかが、一人泣きながらハンカチか何かに包んで走り去るのを見た私は、いかんともしがたく、今なら思わず走り寄って言葉をかけ、思いを共にしたのでしょうが、数人の生徒とただ茫然と見送るのみでした。
翌日、登校の用意をして家を出たものの、痛恨の痛みに足が学校には向かず、堤防を下り、河口近くの草むらに座り込み川面を眺めては、ただ、涙がこみ上げてきました。2、3時間ほど経って帰宅してしまいました。この事は学校にも親にも語らずじまいでした。
あの時なぜ神様に許しを請い、思いを申し上げるべき祈りが出来なかったかと、若き日のことを反省しております。今となって恥も外聞もなく公表できることかなと覚悟しております。
日ノ本の校章も国の命令で提供させられ、代わりに桜をかたどった瀬戸物の校章が渡されましたが、あまり馴染めませんでした。何年か前に友人との会話中に「元の校章が出ているので送ってあげるわ」と頂いてなつかしく手に致しましたが、以前に比べて重厚感にやや欠けるようでした。
学徒動員
1944(昭和19)年6月から学徒動員で相生市の播磨造船所勤務となり私達の寮生活が始まりました。入社の面接の折、大塚先生が立会っておられて思いもよらず、安堵したことを記憶しております。
日ノ本からは秘書課人事係配属されたのは5名で、毎朝、職員のタイムカードをチェック・記録して給料計算のお手伝いをしました。
事務にも馴れて楽しく働きましたが、仕事中に警報が鳴ると一斉に防空壕に避難することもありました。造船所なので爆弾も投下されドックのひとつがやられたという情報も聞きました。
輸送船の進水式には何回か参列して感動を覚えました。
公休日など月一回くらい帰宅しましたが、だんだんと切符入手が困難となり、夜間に三時間並んでも切符が取れず、翌朝一番の汽車で帰ったこともありました。
給料を渡された記憶はないのですが、私の母の日記を調べてみましたら「昭和20年1月に皆勤公休日として5日間帰宅した」とあり、その時30円を頂いたように記憶しております。
帰省した時は、物資のない中をあれこれと精一杯してくれて、お腹が満たされるのですが、食べ盛りの者にとっては、寮では常に空腹で、自宅から戻った同室の友人からおみやげにと食べ物を頂いたことは、本当にうれしい思い出としてよみがえって参ります。
賛美歌と共に
時期は不明ですが、戦後焼け残った姫路公会堂で、沢村とおっしゃる大先生の講演会があると知り、ひとりで参りました折、波岡校長ご夫妻のお姿を2~3席後ろから目にいたしました。讃美歌445番「みかみと共に進め」を高らかに歌われていた後姿に、感激しつつ共に歌いました。
話は前後致しますが、母あってのクリスチャンホームで育った私は、幼児洗礼を受け、以来教会には親しく出入りし、讃美歌はずいぶん歌ったつもりですが、日ノ本では、新しく歌い覚えたものも多く、寮生活中、夕食後部屋で親友と毎晩のように2部合唱で臆面もなく歌った思い出があります。
その友とも1945(昭和20)年3月の卒業式以来(1学年下の50回生の方達は繰り上げで、一緒の卒業式だったと記憶しております)会うこともなく、彼女は病に倒れ音信が途絶えてしまいました。
学徒動員後の登校は一度もなく卒業式のために久しぶりに学校に行きました。卒業後は、高等小学校助教として働くことが決まっていたので私は帰宅しましたが、多くの方は、寮にもどり終戦まで勤務を余儀なくしたそうです。
私の日ノ本時代は、短期ではありましたものの、再び訪れることのない青春時代に経験した大きなひとコマひとコマだと追憶しております。
平和な時代に生まれ育った方たちには、このようなことを絶対に経験させてはならないと心底より願うところでございます。
目下私は家事の合間にキーボードに向かう時、必ず讃美歌を弾き、思い出しては日ノ本の校歌を歌い、一人悦に入りつつ、思いを馳せております。
西の空より学園のことまた、過去、現在の多くの方々の上に、神様よりの祝福とお守りをお祈り申し上げます。(2014年3月記)
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香保のコメント
★同窓会本部のよびかけを受けて、まずO.Fさんに電話をなさり、投稿者を増やして下さった49回生です。
わずかの期間しか日ノ本におられなかったのに、母校と神への思いには熱いものを感じます。