web版35 2017年七夕の集い by 前野育三 |
日ノ本学園で行われたマックレラン先生のバイブルクラスに出席していたのは、何年前のことだろうか。私が高校1年から3年のときだから、1953年から56年までのことだ。64年余り前から61年余り前までのこと。
そのマックレラン先生がカナダの高齢者施設でお元気でいらっしゃることが、モニカさんのお蔭で判明し、山川さんには、それ以来の短い期間にマックレラン先生とのメール交換を何度も重ねていただいていたので、思い出を語る会を行う機運となった。
西宮市の仁川沿いにあるコンツェルトという喫茶店で、2017年7月7日、七夕の日だ。姫路YMCAの理事長も経験した山川一郎さん、「戦争と私 そして日ノ本」の執筆者の最後を飾った大塚和子さん、伊東香保さんそして私。仁川という場所を選んだのは大塚さんのご住所がすぐそばだからだった。
マックレラン先生の思い出話が弾み、3時間近い時間があっという間に過ぎた。持ち寄った写真をみなで観て思い出を語り合った。(写真を持ち寄ったのは山川さんと大塚さんで、私は何も準備していなかった)。
バイブルクラスでの学び、先生のご住居でのパーティー、そこで食べた美味しいクッキーのこと。
クッキーごときがなぜ大きな思い出になる?と疑問に思う若い方は、想像してほしい。終戦から8年しかたってない時期のことである。クルミとバターをたっぷり使ったクッキーなんて、当時の日本人の口に入ることはめったになかったのだ。大塚さんには、ご家族ぐるみでマックレラン先生宅に招待されたときの七面鳥の記憶もあるようだった。
当時歌った讃美歌のことも話題になった。Onward Christian Soldiers 等、英語の讃美歌の数々。英語で歌う方が調子が良い。その頃歌ってきた讃美歌には、現在の讃美歌集から消えたものもある。この讃美歌もそうだ。勇ましすぎるからではないか、と山川さん。「勇ましすぎる」の意味に深入りする暇もなく話題は次に移っていた。
後になってその意味を私なりに考えてみたのだが、キリスト教信仰を守ること自体が体制への抵抗であった時代からわずか8年の頃である。時代背景が現在とは大いに違う。また別の意味もあるかもしれない。宣教が植民地支配の先兵の役割を果たした歴史もあるので、勇ましすぎる讃美歌は、現在では好まれない、ということなのだろうか。
讃美歌の話からなぜか「青い山脈」の歌詞の確認にまで発展した。バイブルクラスの場は、青春の感情発露の場でもあったことを思い出す。マックレラン先生もそのような場にしたいと願っておられたことがうかがえる。
バイブルクラスは、山川さんや私が参加した年が最初の年だったのだろう。その年は、姫路西高から参加していたわれわれ数名(その大部分は、大学入学後、京都大学YMCAの地塩寮や洛水寮の住人となった)が最年少で、日ノ本学園からは先輩の方が来ておられた。大倉さん、永田さん。そして次の年に大塚さん、居内さんらが参加され、本格的に発展した。神戸大学からも小菊さんが参加されるなど、にぎやかだった。
マックレラン先生のバイブルクラスでは、信仰の中身について深い話をすることはなかった。しかし聖書について簡潔に話しておられた。先生の日本語はローマ字的日本語だった。「福音を」”Fukuin o” がリエゾンして「フクイノ」と発音されていたのが印象に残っている。
マックレラン先生とメール交換をしてこられた山川さんは、先生の英語は、97歳の今もきれいな英語であると感心しておられた。われわれも18年後もきれいな日本語が話せる頭脳明晰な状態でいたいものである。
1956年4月、マックレラン先生は神戸港から祖国カナダへ帰国された。大学入学直後だったわれわれは神戸港へお見送りした。船が見えなくなるまでお互いに手を振りあっていた。空港へ見送る現代風お別れとは大きな違いだ。
思い出会が終わりかけたころ、私が「山川さんの現在の最大の関心は、キリスト教信仰を理性的に理解できるものにすることだ」と発言した。これがきっかけとなって、ちょっとした宗教論争が起こった。
「理性を超えるところに信仰があるのではないか」
「キリストが神の御子であることを認めるところにキリスト教の特色がある。これがなければ、他の宗教と同じではないか」
などの発言を誘った。
「キリスト教は、イエス様の魅力を通じて神を知るところにある」と山川さん。「すべての思想は、それが生まれたときの時代的制約を受けている。宗教思想もその例外ではない。時代的制約は、その時代の社会的状況だけではない。その時代の既存の思想にどうつなげるかが問題だ。キリスト教にとっては旧約信仰とのつながりが重要だった」と私も素人論議を展開してみた。田川建三『イエスという男』(作品社2004年)は、そのような考え方を代表する本だと思う。
3時間弱の間に、上記のようなさまざまのことが走馬灯のように廻った。マックレラン先生は、どのような動機で日本への宣教を決意・実行されたのだろうか。宣教のルート(どこから派遣されたのか)などにも想像が広がったが、誰も明確な答えは出せなかった。
終戦後8~11年。世界に目を向け始めたわれわれ世代にとって、マックレラン先生との出会いは、新鮮な刺激であった。7月7日の「思い出会」は、当時を振り返る絶好の機会となった。
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