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エピソードその1
中学に入学して初めての英会話の時間、外人の先生と向き合って言葉を交わすという場面に生徒はみんな緊張のかたまりのまま「イエロー」という単語をひとりずつ立って発音させられました。
「ノー・ノー・イエロー」と言い直されても LとRの違いなどわからない私達は「そんなん無理」と思ったものでした。
そうそう「チューチョしないで、元気よく」と何度もおっしゃるのであとで辞書を見てみたら難しい日本語の「チューチョ(躊躇)」は「ためらう」と書いてありました。
エピソードその2
中学3年生になったときです。それまでピアノを教えてくださていた別所先生から「ビクスビー先生が米国に帰国なさる前に習ったら?」と言われました。4月から3ヶ月ほどのショパンのマズルカを1曲だけみて頂きました。
レッスンの最中「これはポーランドのダンスです」とおっしゃって、いきなり立ち上がり左手を腰に、右手を高く上げて背筋をすっと伸ばし御自身でメロディを口ずさみ乍ら軽やかにステップを踏んで踊ってみせてくださいました。
60年以上経った今もその時の先生のお顔やリズムが思い出されると心豊かな気分に満たされます。
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香保のコメント
★web版のみなさまの投稿の中で、あちこちにお名前の出るアリス C. ビクスビー先生についての記事がないので寂しく思っていたところ、嶋瀬さんから投稿をいただきました。
先生が日ノ本におられたのは、1917(大正6)年10月~1928(昭和3)年4月、1935(昭和10)年9月~1938(昭和13)年6月そして戦後の1946(昭和21)年11月~1952(昭和27)年7月です。
★小川正氏(小川てる先生の弟、日ノ本学園の元理事)が、「ひのもと8号」投稿しておられる「ビクスビー先生と私」の中には、小川氏がピアノの指導を受けたときの先生のお言葉も載っているのですが、ビクスビー先生の経歴に関する部分だけを選んで書いておきます。
・アメリカで教会のオルガニスト・ドイツ留学・オーストリア留学、ウイーンでLeschetizky(レシェテッキー)に師事。 Leschetizky は Czerny(ツェルニー) の弟子で Paderewsky(パデレフスキー), Artur Schnabel(シュナーベル)の育ての親。 Czerny は Beethoven(ベートーヴェン)の弟子で List(リスト) にも教えた。・Leschetizkyの授業料は高くてアメリカで用意した学資が半年で乏しくなり、 帰国を申し出たビクスビー先生の才能を惜しんでLeschetizkyはその後1年 無料で指導した。・その後デンマークでのピアノの先生としての仕事を断り、宣教師として来日。
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マサコさんのコメント
写真で拝見するお顔立ちや二本の指からも、
ビクスビー先生が、佳い音楽家でいらしたことが窺えます。
私にとってこれほどヨーロッパを身近に思えるお話はありません。
これからの人生ハイキックで、ミケランジェリ氏のお墓に近い
lugano の町から電車で30分のスイスの田舎町で暮らしてみたいものです。