父の47回忌 byマサコ |
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2018年 03月 22日
娘と父親との関係は、娘が成人した後、 異性との付き合いに大きな影響を与えると思う。 私の名前は、父の出した出生届から、役所の人が 「客子」と書き写してしまった。 「全く、お客さんの子だった」と母。 そこから考えると、出だしから疎遠な間柄だったようだ。 こうして47年目に入った父との別れを、どの年月よりも思い出すのは、 今は見送る人が多くなり、再び、人の死を考えているせいかも知れない。 「私の事を覚えていますか? 空気の汚染のない世界に住んでいますか? そこには戦争はない?」 父に対するこんな質問が思い浮かぶ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 同僚の先生の追悼文から またテニス仲間の一人の原さんが死んだ。分校のコートで長い楽しい思い出を残して不帰の客となった。 肥った、悪くいうと少し腫れぼったい様な丸い体、丸い顔の原さんを見ると、何だか話に聞くシナ人という感じであった。そう言えば原さんは、台湾生まれの台湾育ちである。その悠々たる風貌の様に、コートの上での球を追う動作も、ふさわしく漫々的の趣があった。しかし一度球に追いつくと、一閃ラケットは激しく動き面を返した。信じられない様な素早さであり、ボールも狂気の様に走った。驚くべき変身である。あっと息を飲む思いであった。 この静の中に動を秘めたのが、原さんの本性であったかも知れない。 シナの大人の風格をそなえた原さんが、クリスチャンであった事を知らない人も多かった。おそらく付合をした人達も、容易には気がつかなかったであろう。それ程原さんは自分の口から、それを言ったり、態度で示すことはなかった。シナの大人の趣を持ち、敬虔なクリスチャンである原さんからは、物静かなおとなしい人という感じを受けるかも知れないが、時あって、コートの上のラケットさばきにも似た激しさを見せつけられる事もあった。もう二十年も近い前の事になるが、教授会の席で、理学部のある教授の言辞を絶対に許せぬとして真っ向から鋭く対立した事がある。原さんが余程激しい言葉を用いたらしく、相手の教授が激怒したいう事であり、原さんも後々まで口を極めて相手を非難していた。信念の正しさに生きた一生であったのであろう。 自らを語らない原さんが、音楽に秀でているという事を、たまたま私自身が発見して驚いた事がある。数年前に発売された三枚続きの「全国寮歌集」の最後の台北帝国大学の歌の作曲者が原さんであった。驚いてただした私に、公募された台北帝大関係の何かの歌に作曲が当選したのがきっかけで、その曲も作らされたと淡々と語った。その曲はまた原さんのテニスを思はせるものであった。始めの方は悠々たるメロディであるが、最後の一節が盛り上がる様に少しテンポが速くなっている。このレコードをかける度に、私はテニス、テニスと思いながら聞いていた。これからは原さんという人を思い出さずにはこの曲を聴くことが出来ないであろう。 台湾育ちの原さんは台北高校出身である。台北高校というと、例の「次郎物語」の著者下村湖人が校長となって、生徒からのストライキを受けた学校である。原さんに尋ねたら自分の在校中の出来事だとの返事であった。事件の真相についてゆっくり聞いておきたいと思っているうちに、原さんは病魔の虜となり、そして死んで行った。心残りの一つである。 原さんとのお付き合いは、主としてコートの上ではあったが、二十年の年月の間には、いろいろの所で思い出が残っている。 いつかK市に頼まれて、一般市民の人達に「時刻」の事を私が話したことがある。話し終わって控室に帰ろうとする途中、声をかけてくれたのが原さんであった。私を激励する為にひそかに聴衆の中にまじって、講演を聞いてくれたのである。原さんとはそういう人であった。 また私が朝日新聞の記者、本多勝一さんから貰ったアラビアの赤い砂漠の砂がある。原さんの手を煩わせて酸で洗って貰った所、驚くべし雪の純白さに変わったではないか。その砂はいま私の部屋に残っている。瓶の中の真白いアラビアの砂を見る度に、私は原さんの面影をいつまでもその上に見る事であろう。 **************************** 父のテニス写真集 1953年4月 テニス仲間と
by grpspica
| 2018-03-22 00:00
| グループスピカ
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