web版26 さまざまの こと思い出す 桜かな by 黒田敦子(50回生) |

お城もお堀端も桜花爛漫、美しく咲き匂いました。
満開の桜に迎えられ希望を胸に嬉々として校門をくぐって、日ノ本高等女学校に入学した日の事をふと思い出して居りました。1941(昭和16)年4月、遠い昔のことです。
何もかも珍しい女学校の生活。朝の礼拝は、2時間目の授業の後、渡り廊下に整列して讃美歌の奏楽に合わせ講堂に入場、清々しい気分になりました。
土曜には聖書研究会、有志のみでしたが担任の大塚先生のお話はやさしくわかりやすく、そして私が一番楽しく思えたのは、そこでも讃美歌が歌えたことでした。
学徒動員一番乗り
戦争といえば学徒動員のことが思い出されます。
入学した年の12月8日太平洋戦争が始まり、だんだん戦況もきびしくなって来ました。

1944(昭和19)年には授業中の窓に石が投げられたりして、学校はどうなるのだろうかとひそひそ話し合っておりました。
その年の5月戦局ますます熾烈(しれつ)を極め、私達50回生は、どこの学校より早く網干にある大セル工場(現、ダイセル化学工業株式会社)に学徒動員として行くことになりました。
体調の悪い人たちは学校に残り、私達は、「学業を投げ捨て生産増強に尽くします」と宣誓したのです。
大セルはセルロイド製品を製作する会社でしたが、戦争のために火薬の製造もしており、私たちは各部署に配属されました。
原繊:ボロ布の選別をするところ
一課:硝化綿(セルロイド火薬の原料)を作るところで様々な化学薬品を使うので、
二課:セルロイド製造
三課:火薬製造
私が友人3人と最初に配属された場所は、硝化綿という一番危険なところでした。1ヶ月後の6月、姫路中学の男子学生が動員され、私達4人は硝化綿の仕事を男子学生と交代しました。そして私は創作室に行きました。ここはセルロイドの模様を考えたり、加工して石鹸箱などを作る研究する所でした。友達は二課・三課に別れました。
その後、仕事はますます忙しくなって、女子商業(姫路女子商業学校)の生徒も動員され、学徒は3校になりました。
働き手の若い男の人達は、次々出征し、学徒も夜勤をするまでになりました。私はその頃には、事務所の経理課に異動したので夜勤はありませんでした。
最初は自宅から通っていたのですが、女子も夜勤をすることになり、全員が魚吹(うすき)神社を寮として寝泊まりすることになりました。寮から工場まで毎朝約2~30分でしたか、学徒動員の歌や予科練の歌などを歌いながら行進して出勤しました。始業は8時で日勤の終業は18時ころと記憶します。日曜日は休みなので、自宅に帰ることができました。
工場には担任の崎谷先生と西海先生が監督として来ておられました。西海先生が出産でお休みとなった後は、藤原先生と内田先生が交代で来てくださいました。
学校には太田順治先生が校長として就任しておられました。太田先生は、乃木大将が学習院長時代の時に学習院の先生で、昭和天皇の生物の先生です。どの様な理由かは知りませんが、学校が存続出来ることはほんとうにうれしく、喜びました。
校長先生は工場へ視察にもこられ、先生が席をはずされておられなかったので、私が工場内を案内致しました。二課三課は男女共同での作業です。校長先生はひとりひとりの名前をお尋ねになり、大変な仕事をごらんになりながら言葉をかけられました。
この様な時代でも大学受験はありました。私を含む進学組は、工場から帰ると神社の上段の間で自習をしました。下の間にいる先生の目が光っておりましたが、なかなか勉強ははかどりません。当時、三国志と宮本武蔵が大はやり。勉強をほったらかして廻し読みに耽ったこともありました。

市内に撮影できる写真屋がなくて津山まで出向いて知人に撮ってもらった
上着だけが日の本の制服
記憶に残るできごと
二課の裁断で指を落とした友を、診療所に連れて行き、応急処置をした後、姫路の病院まで送って行ったことがありました。幸いすぐに指をくっつける事が出来、ほっとしました。
悲しい出来事もありました。姫中の学徒が寒い朝、電車から振り落とされ広畑の鉄橋へ転落、足を切断したのですが、亡くなりました。久しぶりに制服ネクタイ姿で私もお葬式に行きました。一人息子をこのような事故で亡くされた御両親のお心を思うと胸が一杯で残念でした。
また予科練海兵に志願した姫中生が工場を去るときには、工場の学徒全員で見送り、手の空いている人と共に工場の正門に並んで、学徒の手になる高射砲の発射薬を載せて、赤い旗をたてた牛車が静かに出て行くのを見送りました。トラックだと振動が大きいので爆発するおそれがあるとのことでした。
年末には硝化綿で亜硫酸ガスが発生。工場長は「学徒は?学徒は?」と叫びながら避難を呼びかけ、男子学徒はすばやく事務所前広場へ避難、事なきを得たこと。私だったらどうなっていたかと恐ろしく思ったことでした。
大雪の日、飾磨駅で電車事故。県女の学徒が電車の下に落ち、引率の先生はただおろおろするばかり。どうなることかとハラハラしておりましたが、わが日ノ本の崎谷先生が電車の下にもぐり込み、もんぺ を裂いて救い出されました。雪と事故で電車は動かず、真白い雪の中、線路の上を姫路まで歩きました。雪あかりの中、大勢で一緒でしたが、空襲警報もなく無事帰宅出来たことをうれしく思いました。
空襲と機銃掃射
1945(昭和20)年3月に入って本土空襲が度々あり、姫路も6月22日(爆弾)と7月4日(焼夷弾)と2回の空襲がありました。6月22日の空襲は、川西航空機目標の一トン爆弾の投下でした。ちょうど私は入学準備で帰宅していました。
その日は朝からずっと警報がでていました。父(45才)は早朝、津山の方へ出かけ、その時父より大事な物を預けられました。(後にそれは株券であったと知りました。)
家には、母(41才)、祖母(76才)、小学6年生の妹敏代(57回生)、3才の妹皓代(66回生)、それに私がいました。3つ下の妹康代は県女の3年生で学校におりましたが、先生の引率で姫山公園に逃げたそうです。
黒田さんご姉妹4人が揃った最後の写真平成22年10月
ラヂオを聞きに来られた人々も、いつもと違う放送に避難の用意をされました。私達はみなゆっくりしていましたが、この様子ではと思い、倉庫の中の壕にみんな入る様に伝えました。父から預かった書類をまず壕に入れ、みんなを壕の中に入れ、最後に私が入ってお蒲団をみんなに被せた途端、ものすごく地面がゆれ、壕の中は土煙り。幸いお蒲団があったからよかったものの、大変な衝撃でした。
ひとり壕から出て見ると、爆破で倉庫の門は開き、あたりの景色は異様。
家々はくずれて形なく、「ここにいるとまたどうなるかわからない」と、みんなを壕から出して逃げることにしました。
道端には人々がころがって、その背中はざくろの様に割れ、血に染まっていました。上空には飛行機がつぎつぎ来ますので、途中で壕に入りました。中はもうたくさんの人々で、上の妹は水筒を取り上げられそうになり、3才の妹はきれいな赤白の市松の防空頭巾が目標になるといって、人々が取りに来たりで、ここにもいられず、年取った祖母(76才)が心配でしたが、一緒にここを出ることにして北へと逃げました。
途中小学生から、「怪我をしたお姉さんを助けて」と言われ、みると足から血が流れていました。救急袋から三角巾を出して足をしばり、陸軍病院へ行く様にと言って、私達は北へ北へと進みました。
麦の刈り入れが終わって隠れる所もない河原の様な畑に、一ヶ所だけ草むらがあり、そこで休むことにしました。力つきた感じでした。
その時、飛行機が低空で飛んで来ました。一瞬日本の飛行機かと思いましたが、それは艦載機グラマン。低空のまま私達の顔も見えたと思う程でしたが、そのまま東へ行き市川の橋下に避難した人々を機銃掃射したのです。大勢の方が死傷。みな民間人です。戦争は過酷です。私達の顔が見えて、年寄りと子供だったから撃たなかったのかな。
あの一トン爆弾の投下の時は、私達は壕にいて助かりました。家族全員が壕にいて、怪我もなく無事ということは奇跡です。しかし同じ町内で、爆弾で破壊された家が壕の上に倒れて、その下敷きになり、壕から出ることが出来ず家族5人が亡くなっています。日ノ本在学の小幡満喜子さん(51~52回生)です。
空襲警報が出た時点で町内の人々は避難しましたが、爆弾の威力で家がくずれ、人間は飛び散り、爆風は伏せた人々をも傷つけました。命を失わないであの戦場さながらを目撃した人は、今はほとんどいないでしょう。
卒業と戦争後
1945(昭和20)年3月に49回生と一緒に日ノ本高等女学校を卒業しました。
私はその年1~2月に奈良女高師を受験し、7月頃からほんの短期間、学校に行きましたが、終戦となりました。
戦後しばらくは父の実家に身を寄せていましたが、姫路へ帰り、一面焦土と化した我が家の跡地にたたずみ、再建を誓いました。
妹康代は、学校が川西航空機の作業場となり、そこで航空機の部品を作製していいました。その学校が被災し、工場と1番近いところにあった家も被災して住むところを失った我が家は、優先的に川西製作所の社宅に家族7人で住むことができました。
しかし住む家を建てねばなりません。家が建つまでは社宅から焼け跡の整地に通いました。
建物疎開をした跡地に落ちた一トン爆弾の威力は相当なもので、できた大きな穴は8畳位。そこに建物などの残骸を埋めました。いくら埋めても穴はふさがりません。
それを誰の手助けもなく家族が自分たちでしなくてはなりませんでした。
お水を一杯入れて逃げた長州風呂は残っていました。大きなお釜も水を入れていましたので残っていました。そのお風呂を、誰がどうして持って行ったのか、少しの間に盗まれました。どんなものでも油断していたら盗まれる時代でした。7人家族で男は父ひとり。私達で出来る事はみんな手伝いました。
そんなこんなで私は学業を続けることができませんでした。
母は生活の急変で疲労の上、隣人から満州熱をもらい高熱で危篤状態が続き、私は母の看病です。祖母が小麦粉で手延うどんを作ったり、さつまいもをふかしたり、家族の食事を作ってくれました。よくあの年でと思う程でした。私が炊事をすると言っても、母の看病が大変だからといって、母に付き添うように言ってくれました。父も母にアイスクリームを食べさせたいと、容器を自分で作って食べさせました。みんな自分の出来る事を一生懸命でした。
やっと生活が落ち着いた時に、焼跡に建てた家を区画整理で立ち退くよういわれました。今ならこんな理不尽なことはできないと思いますが、忘れもしない1950(昭和25)年1月4日のことです。食料の不自由な時に、5月の収穫を期待していた畠の麦の芽は出たばかり、その畠を埋めに来ました。それを聞いた祖母は、自分の土地や住むところまでとられると心を痛め、その日の夕方、心臓麻痺で亡くなりました。
区画整理を理由にたくさんの土地をとられて、行く先も決まらないままに建物撤去をいわれるのは不合理と市長に直訴いたしました。土地の提供もなく家を立ち退けというのは矛盾です。市長に叱責された市の職員は、我が家の行く先の土地を明け渡させたので、私達はそこに建ったまま家を移行しました。

学徒同窓会
父が亡くなった1984(昭和59)年の11月、大セル工場で、学徒動員で共に働いた姫中、日ノ本、女子商三校の合同同窓会がありました。39年ぶりの再会、みな熟年熟女と孫まである年令になっていました。顔もわからない人たちですが、同じ目的でいっしょに働いた同期の桜、ほんとうに当時に返った様に一瞬のはなやぎ、当時の青春を取り戻した様に思えました。
この同窓会の挨拶で「私達の青春は教育勅語のままだった。戦後は日本の復興のために辛抱づくし、そして私達が育てて来た子供達は、昭和元禄の中で自己中心の贅沢三昧、人間の極限を、しかと見届けてきた世代といえそうだ」と話されました。
あれから30年後の今日、豊饒(ほうじょう)の中に育った人々は耐えるということは知らず、苦しい時も豊かさが当たり前、責任は人に転嫁、辛抱することもしなくなりました。
さまざまの思いを秘めて長き年
すごせしわれに 桜花 舞散る
私達は、“千載一遇”の学徒動員に始まり、敗戦という前代未聞の境遇から焦土の中を立ち上り、今日に至りましたが、その道のりも終り近づきました。
50回生も残り少なくなりました。亡くなった50回生のありし日をしのび御冥福をお祈りし、今残りし同期の皆様のおすこやかにお過ごしの程を願いつつ、又いつかお会い出来ますことを祈っております。
2014(平成26)年4月30日記

黒田さんが取材されペーパー版の出版について報道された
Q&A
Q:最後のところの“千載一遇”とはどういう意味で使っておられるのでしょうか
A:工場で整列して唱和するとき、「ひとつ 学徒動員は千載一遇なり」ということばで始まるのです。学徒として動員されたことは、お国のための千載一遇の好機であるという意味だったのでしょう。
Q:一トン爆弾投下の直撃を受けて、住んでおられた建物は破壊されたにもかかわらず、黒田さんはじめご家族は無事だったのですね。おばあさまが亡くなったのは、「戦争関連死」と言ってもいいかもしれませんが、身近に戦争で亡くなった方はおられないのですか?
A:私の従兄弟の小原伝(おはらつたう)が、1945昭和20年7月25日に、米軍との空中戦で死亡しました。私達は姉妹4人でしたので、父が大切にしていた従兄弟でした。
Q:小原さんのことをもう少し詳しくお願いします。
A:小原伝は、愛知県出身です。卒業年はわかりませんが、陸軍士官学校の生徒の時、父は東京に行けば、必ず学校を訪ねて面会していたようです。一度夏に学校を訪ねると夏休みで全員熱海に行っていたので、そこまで父も出向いたそうです。卒業式には是非出席してほしいと言われて喜んでいましたが、戦局危なくなり、卒業生が宮中に参内しました。
従兄弟は戦闘機隊です。沖縄の戦場から帰り、直衛部隊として本土の護りにつき、7月25日、滋賀県八日市市の上空で米戦闘機と交戦、体当たり、落下傘で脱出し、当時国防婦人会の会長であった岡村みつ様の家の庭に降りました。目を見開き、東を向いてきちんと座るような形で亡くなっていたそうです。

子供のない岡村様は庭に降りてきた従兄弟にいたく感動され、息子のように思われたのでしょうか、1958(昭和33)年7月25日、戦死から13年目に慰霊碑を建立してくださいました。小原家の家族、私方は父と日ノ本在学中の妹(66回生)が出席しました。除幕式には村の人、戦友も参列して下さいました。私は当時東洋紡績実務高等学校に講師として勤務していて出席できませんでしたので、和歌を半紙に書き、父に持っていってもらいました。
小原伝中佐の御前に捧ぐ
安らけく みどりの里に眠りませ
み国をまもる 礎として
大空に散りにし君のいさをしを
永久にたたえん 今日のみまつり
武士の道ふみ極め 散りませる
君がいさをし 永久にたたえん
1982(昭和57)年頃、主人が会社の調査で滋賀県湖東町の方面に行きました。小原伝のことを知っていましたので役場でその話をしましたところ、ちょうどその方が、小学生の時、その空中戦を見ていたとのことで、慰霊碑迄案内して下さり、当時のことを色々聴かせて頂いたそうです。慰霊碑は今は道路の方に移され、岡村みつ・しず様姉妹は、すでに亡く、村の人達が守っていてくださるそうです。
Q:きょうお持ち下さった資料の中にも、黒田さんの歌集がありますね。
歌はどこで勉強なさったのですか?
A:我流ですが、日記と同じように、思うところがある都度作っていました。
従兄弟の戦死を聞いたときに詠んだ歌はこの三編です。
小原伝中佐の御前に捧ぐ 昭和20年7月
大君の御盾とただに 天かけて
玉と砕けし 君ぞ尊し
丈夫(ますらお)の行きとう道を ふみきはめ
天はせ行きて散りし 君はも
天かけて 君の辺にこそ散りし身の
いさを はいつか 世に現れん
Q:きょうお持ち下さった資料の中にも、黒田さんの歌集がありますね。歌はどこで勉強なさったのですか?
A:我流ですが、日記と同じように、思うところがある都度作っていました。
憲法公布のときに、日本が平和国家となることを知って作った歌もあります。

新しき國のいしづゑ 永遠に
こぞりてちかふ 四方の民草
新憲法 平和の國にみちあふれ
今しもふみだす 民の歩調(あしなみ)
菊の香の高く匂ひて新憲法
平和の國となれる 今日かも
新しき國の基の定まりて
いよいよみがかむ 大和撫子
新しき憲法(のり)に基き 女われ
いよいよみがきて はげみ行かなむ
新しき國のいしづゑ 菊香る
今日永遠に 定められたり
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黒田さんのコメント
1年生のとき、「久方に雨降りたれば生き生きと木々のみどりの若葉ゆかしき」
と詠んで褒められました
★藤原 君子先生:家庭科、2年生の担任、昭和18年4月~昭和20年10月
★崎谷 徹先生:体育、4年生の担任、昭和19年4月~昭和21年4月
★内田 タミ先生:家庭科・生物・英語(短大)
昭和18年10月~昭和28年3月、昭和48年4月~昭和56年3月
黒田さんは2019年1月に逝去なさいました。ご冥福をお祈りします。