#7 2019年台湾にて「新陰流と正道さんのこと」 by マサコ |
父方の祖母の家系に赤堀家がある。
妻 たき はクリスチャンで、晩年を明石の精神病院で暮らし、聖書を読み続けていたと聞いている。
下の写真の後列和服姿が正道さんである。その右に立っているのが 竹ニ・前列の和服の女性が つる、その左は竹二の兄、竹二とつるの子どもたちは、左端が長男(私の父)、右端が次男、中央の三男(5歳)が亡くなる前に撮影された写真だから1918年頃と思われる。
「あるいは俗世界に起こることは、人知を超えたなにものかによって、あらかじめ決められているのではないか。始まりも終わりも、凡人には手出しのしようがない偶然に支配されている。人類など、時間の荒波のなかに転がるちっぽけな砂礫(されき)であり、あらがうこともできずただ時代とともに漂流しているだけの存在なのだ」
巻物全部を読んだり、解読したりしたいとのコメントをいただきました。
現在それを保存している家族は、巻物を写真も含めて、第三者にお見せすることを望んでおられません。モニカ記事を書いた後、その意向を知リました。
その意向を汲んで、記事を削除することはしませんが、「海峡」のふたつの記事に留め、それ以上に広げることはしないことに致しました。
誠に申し訳ありませんが、そういう事情をお酌み取り下さい。
ご家族は、いずれ公的機関に寄贈することを考えておられるようなので、
ご覧いただく機会もあろうかと思います。 モニカ
さて、現在姫路藩の新陰流指南役について紹介する一編を稿しているのですが、指南役であった赤堀申之(叔信、通称藤平・杢右衛門・平内・古傳次・)様の指導方法や前後の指南役の方の詳細等に付いて調査して居ります。
付きましては、もし御存知でありましたら、御教示して頂く事はできないでしょうか?
なお、掲載媒体は酒井家姫路藩の研究・顕彰団体三星会で発行している『三星会会報』の予定です。
唐突且つ不躾な御願いで申し訳なく存じますが、御勘考下さいますと幸甚です。
先ずは御連絡と御願いのみ申し上げます。
コメントありがとうございます。
私達は、確かに赤堀の子孫ではありますが、そのことすら、最近になってはっきり知ったところです。この記事に登場する正道さんの父浪穂が指南役を勤めており、その方の人生については、生存者から聞いたり、ネットで調べました。
しかし新陰流の指導法や他の指南役については全く存じておりません。
従ってあなたのお役にはたてないと思われますが、津山様のメールアドレスをコメントに記載していただけば、そちらでお話させていただくことができるでしょう。
アドレスをいただきました12日、続いて13日に訂正のメールを差し上げましたが、届きましたでしょうか?
添付したものが重かったようですが、ccで送信した他の人には届いているので、大丈夫かと思っていたのですが....。
本日確認のメールも送付しましたが、これも届いていないのかと思い、コメントさせていただきました。
こちらには配信不能の連絡は届いていません。
チェック、よろしくお願いいたします。
モニカ
東京で肥後新陰流という流派を稽古しております伊藤と申します。疋田豊五郎の新陰流について調査しております。
こちらの赤堀家のルーツおよび新陰流についての記事を読ませていただきました。
赤堀家が姫路藩で指南されていた新陰流は巻物のお写真を拝見するに私が稽古しております疋田豊五郎から伝わる新陰流のもののようで感動いたしました。猿飛や高波など我々が稽古している技そのままですし、赤堀家に伝わっている絵巻物の絵も肥後新陰流の絵巻物と非常によく似ております。
ぜひ系図だけでもと思いましたが、こちらのコメントで巻物を所持されているご家族が大事にされたいとされているとのことで、こちらの記事と写真を拝見できたお礼と、感想だけでもお伝えしたく書き込ませていただきます。
「赤堀家の歴史」の写真にありました、「住江戸代々指南新陰流」とある野沢十次郎というのは、寛政時代の頃、江戸本庄で新陰流師範として名の知られていた旗本、野沢八三郎の父親野沢重次郎ではないでしょうか。
野沢八三郎の巻物の系図では、愛洲移香、愛洲小七郎、上泉武蔵守、疋田豊五郎、坂井半介、植村與五左衛門、佐藤不入(石上新助)、吉澤石残権八、野沢重次郎となっています。
現在、新陰流疋田豊五郎やその弟子、全国に広まった新陰流について調査したことをまとめた本を作っております。姫路藩の新陰流についてこちらの記事を参考にしたいと考えましたが、コメントにあるように広める事を望まれておられないとのことですので、本の参考にはせず、こちらでお礼のコメントのみに留めさせていただきます。
非常に貴重な記事ありがとうございました。
伊藤
ご丁寧なコメント、ありがとうございました。
この巻物を保管している方の状況は変わらず、
まだどこにも寄贈するに至っておりません。
私が勝手に公開はできませんが文中の系図について、
調べてみましたので、書き出してみます。
トップはご存知のように日本武尊です。
順に並べますと
陸奥守源義家 → 鎮西八郎為朝 → ??源義経? →
愛洲移香(2つに枝分かれ 戚継光&愛洲小七郎)→
愛洲小七郎 →上泉武蔵守(5つに枝分かれ 神後伊豆守・疋田文五郎・柳生但馬守宗巌・丸女蔵人大夫・那河弥右衛門) →
疋田豊五郎(3つに枝分かれ 中井新八・坂井半助・山田浮月齋) →
坂井半助 →植村與五左衛門 →
佐藤不入(2つに枝分かれ 上州之人 落合四郎右衛門 & 住江戸以剣術為生業?横田是水軒) →
横田是水軒(2つに枝分かれ 酒井家臣 矢嶋九郎右衛門 & 野澤十次郎)→
矢嶋九郎右衛門(2つに枝分かれ 吉田彦市 & 住江戸為聖堂之学頭 結城唯助) →
吉田彦市の下には11名の名前が並んでいます。
伊藤様が記しておられる中の『吉澤石残権八』というお名前はこの系図の中には出ていません。
『住江戸以剣術為生業?横田是水軒』の別名だったのかもしれませんね。検索しましたがわかりませんでした。
『横田是水軒』の名前の横には写真を拡大して読みますと
「初名戸田惣右衛門為酒井候臣月or日冊??来他行而不逢其後有故改名横田是水軒住?江戸以剣術為業」
と書いてあります。
ご本作りに少しでお役に立てればと、お知らせいたします。 モニカ
リサーチをしていると、本当に小さな情報でもありがたく思えるものです。
あの巻物が公開され、皆様のお役に立ててますように。 モニカ