トロイカに寄せて by マサコ |
トロントで最初に「トロイカ」の楽譜を勉強した時、マリーナ・ゲリンガスは、「ラフマニノフの演奏をお聴きなさい」とおっしゃった。「トロイカ」のレッスンを受けたのは、1回だけ。初回とはいえ、その音楽性のない演奏に先生は失望していらしたように記憶している。
1年後、誰の演奏も聴かないままに私は、毎日10分位「トロイカ」を練習していた。チャイコフスキーの「四季」は全部で12曲あり、1曲に10分しか練習時間を割けなかったのである。その時はただ「上品な曲だなぁ」と思うに過ぎなかった。
ある時偶然に、下宿先のサザーランド家でラフマニノフの弾く「トロイカ」を聴いた。次元の違う驚愕的な演奏。それは至高の童話であった。
その後、ピアノより意図的に遠ざかる生活をしたために「トロイカ」は記憶の中に埋められた形となっていた。
帰国後、38才の年に私のシャーマン稼業は、予想外の展開を見せて、国内の民族問題と関わるようになっていった。軽く100以上の民族がひしめきあうトロントの生活を思う存分楽しんだ体験から、各民族への理解を深めていたので、民族間の問題は考えやすかった。
私の生活は社会活動と霊魂の苦しみを受け取ることで精一杯だった。
今までまったく興味のなかった歴史を学ぶうちに、戦前サハリン在住の北方原住民族の少年達が日本支配の下に戦争に行かされ、シベリアでの生活を余儀なくされた後、日本国籍がないetc.....の政府の論法により、軍人恩給が支給されなかった事実を知った。
色々な資料を読んで、78年に網走在住の北川源太郎(日本名)さんが「ジャッカドフニ」という民族資料館を建てたこと、87年に「ジャッカドフニ」の中で急逝なさったこと、本名はウィルタ名で「ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ」さんの口癖が「こんちくしょう。ゴシプシェイ」だったことなどを知った。
ウィルタ・ニブヒの若者達は多数、サハリン北緯50度線で戦死し、戦後はスパイ容疑で戦犯者としてシベリアのラーゲリ(強制収容所)で亡くなっている。
今、全く補償しをしない日本政府に業を煮やして、70才を越え80才以上の高齢に達した遺族のために、有志で北方少数民族のかっての居住地タライカ湾に面した「サチ」(ゲンダーヌ達の生地)に合同慰霊碑を建てようとしている。
あれは、震災後の大騒動を生きている頃だった。ある日、ハタッと思いついた。
「トロイカ」をゲンダーヌ達の生活、踏みにじられた人生、ツンドラ地帯の自然のアピールの曲にしよう。
曲の始まり、冒頭で「謝罪と慰霊」の鐘を鳴らそう。
第2セクションでは、雪の上に咲くバラが各民族の紋様を表わしている風景にしよう。
雄々しく激しいテーマの展開では、カラフトの凍てる大地と人間の生命力を表わせよう。
トロイカ登場の部分では、馬の代わりにトナカイを使うウィルタ民族に敬意を表わするために、馬につけた鈴の音ではなくトナカイについているやや大きめのカランコロンの鈴の鳴り方に近づけて見よう。
少年達の運命が弾き裂かれた箇所が「トロイカ」には歴然とある。その慟哭を覆い尽くすかのような各民族の「イルガ」(紋様)を表わすバラの花たち。後から後から地面から自然に生えて咲いている。そして、後半の右手の16連音符のモティーフは、いつまでも降りしきる雪になる。雪の中をどこまでもいくトロイカに「憂愁を抱いて道を視るな。」と詩のひびきをひびかせよう。
伝えましょう。この世に生を受けた少年達が戦争に狩り出されることが、どんなことなのか?
考えましょう。少数民族のアイデンティティを守ることが、どんなことなのか?
「トロイカ」は私と北方少数民族の戦争犠牲者をつなぐ音楽として、ピアノを弾いていない時も心の中に鳴り響くようになった。
私はこのイメージで喜々として練習に入った。
「トロイカ」は、ラフマニノフの美意識を満足させた。曲の構成も、曲想の無駄のなさも群を抜いている名曲だからである。私にとっては、犠牲者を慰める「観音経」でもある。
憂愁を抱いて、道を視るな
トロイカの跡を急ぐな
心の裡なる苦悩を
すみやかに 永遠に消せ
N・ネクラーソフ 作
近藤 あき子 訳
この詩に霊感を得て作曲したチャイコフスキーの名曲「トロイカ」。日本語の名訳は、95年3月現在で判明した61名の犠牲者に贈りたい言葉だった。
私はこの曲を、日本の犠牲となり、日本に煮え湯を飲ませ続けられた全ての民族の少年兵に捧げる。そして彼等の生命の輝きにトロイカが照らされる日が来ることを願いつつ、練習する。
そして、彼等への補償がまだなされないことを私たちは永久に忘れてはなるまい。
1997.1.13
北方先住少数民族について
齊藤貴男氏の「麻垣康三らが9条を変えたい本当の理由」でもいろいろ目から鱗場面がありましたが、とりあえずひとつだけ。
企業の海外進出先で紛争が発生したときにそこにいる日本国民を救うため=経済的利益を失わないために自衛軍を派遣することがその理由のひとつであること。齊藤氏のことばによれば、軍隊の派遣と企業の進出のどちらが先かというだけの差であり、自分はこれを「帝国主義」と名付けているとのことでした。ノリコ
奄美、最後の夜でしょうか? みんなと飲んでいるかな?
元気に無事、福岡に帰れますように。
奄美からの通信、ありがとうございました。まだ2度しか行っていないけど、3度行った気持ちになりました。
「西の魔女が死んだ」という本が回ってきています。 マサコ
今日も昨日も、そして明日も、奄美ラストスパートで、かなり体、酷使しています。本当はゆっくり今日の更新について考えてみたいのだけれど…バッテリーも頭も充電切れそうで^_^;福岡に戻りじっくり考えます。私は知らなかった深さを、もっと知りたい…。
充電については…、車でも充電できるし、公衆トイレとかでも←しちゃダメなコトですょね…、多分(-_-;
あとまる1日、じっくり奄美の緑の美しさや海の素晴らしさに触れたいと思います>^_^<
私にはこの模様が雲に見えます、うぅむろーるしゃっは‥。
北海道にいたチビの頃、ちょっと観光地的なところに行くとアイヌの方がいらっしゃいました。木彫りのブローチを買ったら裏に日付けときれいなスズラン模様をささっと彫り込んでくれて、子供の私はすげぇ〜と目が丸くなりました。今でも大切に持っています。
トロイカのお話ゆっくり読みました。トロイカという言葉にも引っかからずスルーしていた自分が情けない(+_+)私の中で何故か、しびれる寒さの地域の、トナカイの引っ張るソリのイメージがありました。初めてトロイカを聴いたのは誰の演奏だったかな…
NHKで、先生が毎週違う生徒さん、小学生から大学生位のピアノの上手い生徒さんに指導していく番組がありました。先生も、クール毎に変わっていた気がします。記憶がカナリ曖昧だけれど。私が小学生の頃、今は結構有名になられた女性ピアニストの方が、まだ中学生位だったのかな?トロイカともう1曲レッスンを受けていた記憶があります。トロイカは時間切れで殆ど触れられなかったけれども、あ゛〜言葉にできない(>_<)、漬物を作る時の石位(今思うと、軽すぎます…)の重量感を感じたのを覚えてます、私はトロイカに憧れるには幼すぎた、ほんの数小節なぞって、それっきり。けれど、聴く度にその、昔感じた変な重さを思い出してました。
私は、今でもやっぱり幼すぎる。調べたりすること、それを感じようとすること、ほんの一部、自己満のレベルなら、できるだろぅ。それを自分で表現しようすること…そんな心の強さと余裕を持っ人間になりたい
↑これが’トロイカに寄せて’を読んで感じた感想みたいな物です。
アルバイトはどんなことを?
20才の頃ウェートレスをして時給200円でした。
お好きな本や曲のことどんどん教えて下さいね。マサコ
私はウィルタ民族の紋様をなぞった音を、バラのような音で表したいと思っただけで、
紋様がバラに見えた訳ではありません。念のため...........。 マサコ
その人たちのことを知らないで人生もよく分からないでこの世を去ることはあまりにも残念に思えてなりません
その意味で声なき声を聞こえた私の人生は 有意義なものであったと言わざるを得ません
その声鳴く声を大量に作る落としている日本人の愚かな生き方が 腹立たしく 残念に思います
日本人が安価なスピリチュアリズムに酔いしれて惑わされるのも 明治20年を期にあるいは昭和 40年を境として
すっかり失ってしまった 原始本能と 自然、 目に見えないもの 敬い 恐れ 影響を受ける 心を失ってしまったものだと思われます
明治時代には西欧への劣等感 我が身忘れる ほどへの 服従、追従が、 人間としての人格を破壊してしまったのでしょう
1965年を境に 日本国民は ヒューマニズムの健全な温度を忘れさり、 捨て去って 物欲金銭欲性欲、 地位欲望、己を偽ることに浮き身をやつし、 西洋文明 科学を第一主義にして 何が何でも 己の欲のために 生ききって来たのでしょう
アメリカの黄色い、chapsのために
ゲンダーヌさんの口癖は[こんちくしょう]だったそうです。
復員して舞鶴港に降り立った時、 初めて[日本が自分の国でない]とはっきりわかったとのことでした。 ジャッカドフニの記念館を通してゲンダーヌさんの御親類、北川あいこさんから頂いた白樺を削って作ったウィルタ族の文様が懐かしいです。
マサコ