声なき死者は訴える - 緑十字船・阿波丸の悲劇 by 石崎キク |
日本が植民地支配をしていた当時の台湾帝国大学の地質学教室に勤めていた夫は、1943年12月に陸軍省燃料廠の軍属(軍人以外の者で軍の要員)として、東南アジアの「ボルネオの石油資源調査」という任務で招集されました。
集結地の東京で夫は軍関係の人たちと1ヵ月ほど過ごした後、任地ボルネオへ向かったようです。敗色濃いアジア太平洋戦争の末期でしたから、任地から一度はがきの便りが届いたあとは、生死もわからず年が明け年が暮れ、消息を断ったまま敗戦の年1945年を迎えました。
「石崎遭難せり」の公報
この年の3月末に、台湾総督府地質調査所の技師で、夫と共にボルネオへ赴任された方が突然、訪ねて来られ、「昨日飛行機で帰って来た。石崎も一緒に帰ることになっていたが、急に軍の都合で予定が変更され、石崎は阿波丸に乗船ということになった。この阿波丸は安導券(安全な航行を保証するもの)を所持し、国際法の保護を受け、病院船に準じる交換船で飛行機以上に安全だから、あと1週間もすれば帰ってこられる」という思いがけない嬉しい知らせをもってきてくださいました。
しかし、1週間を過ぎても何の音沙汰もなく、4月に入ってしばらくすると、ラジオで阿波丸の遭難が報道されました。その内容が果たして真実なのか、また私の夫が確かに乗船していたのかわからないまま、夫の両親と私は不安な日々を送っていました。
照りつける日射しのきびしい台湾の暑い夏、6月に入り、「石崎和彦、阿波丸に乗船し、4月1日遭難せしこと判明せり」という戦死の公報が届きました。
「石にかじりついても生きて帰ってくる」と言っていた夫は、帰国後の研究に期待をかけ、ボルネオへ発つ前、東京にいる間に手に入った本を次つぎに台北の留守宅へリストを同封して送ってきていました。
当時は送ったものが届かずじまいになることも多かったのですが、送った本は全部届いて持ち主の帰りを待っていました。しかし肝心の持ち主はついに帰らず、28才の命を無残にも断たれてしまいました。
「白十字マークの安全な船が、、、」
阿波丸という船は日本郵船の商船で、戦時中米軍から要請があり、「日本が占領していた東南アジアにいる連合軍の捕虜や抑留者に救援物資を阿波丸で運んでほしい。その代わり、帰路はその地域の日本の民間人を乗せて帰ってよい」という交換条件で出航した船です。船腹には緑の地色に白十字のマークがくっきりと描かれ、夜もあかりを煌煌とつけて走っていました。航路は指定されており、軍人を乗せたり、軍需品を積むことは当然禁止されていました。
しかし、当時日本海軍の連合艦隊作戦参謀だった千早正隆氏の「呪われたる船・阿波丸」という文章によりますと、日本政府はこの時、法を侵して軍人を乗せ、大本営(戦時中の最高戦争指導機関)の指示に従ってスズやゴムなどの戦時禁制品を積み込んでいたということです。
その上、万一連合国側に臨検された場合に、国際法違反が発覚するのを恐れて、船底には最悪の場合に備えて自沈装置が取りつけられていて、船長の押すボタン1つで船が沈むことになっていたのでした。
「2070名の阿鼻叫喚」
最も安全だと考えられていたこの船が、実は危険きわまりない船であることを知っていたのは、政府や軍関係のごく限られた人と船長だけでした。安全を保証されているこの阿波丸をのがしては、もう帰国の機会はないというわけで、乗船者は定員137名の13倍を越えたということです。
3月28日シンガポールを出航した阿波丸が4月1日、台湾海峡にさしかかるまでは何事もなく過ぎ、もうすぐ故国の土を踏めるという安心感を抱いて乗船者が静かな眠りに入った夜半11時過ぎ、アメリカの潜水艦クィーンフィッシュ号から発射された4本の魚雷に命中によってわずか3分で阿波丸は沈没しました。
乗員1名が潜水艦に救助されただけで、帰国の喜びを間近にしながら乗員乗客あわせて2070名が阿鼻叫喚の苦しみの後、海中に没したのでした。
「真相究明を放棄した政府」
この阿波丸事件に関しては、いくつもの謎を残したまま、日本政府は1949年、アメリカに対する賠償請求権を自発的に(実際は米国側に強制されて)、無条件に放棄し、事件の本質について調査もせず、この問題に終止符を打ちました。私たち遺族に真相は何も知らされないまま今日に至っています。
その一方で国は、遺族の意思に関係なく1954年、阿波丸遭難者を靖国神社に合祀し、無残な死へ追いやられた2070名は「英霊」とたたえられ、遺族の悲しみは栄誉にすり替えられ、戦争美化の一役を担わされています。
1979年以降、阿波丸遭難者の遺骨の一部と遺品の一部が中国政府の手で引き揚げられ、中国の好意で日本政府に引き渡されました遺骨は千鳥ヶ淵戦没者墓苑と芝の増上寺境内の阿波丸遭難者墓所に分骨して納められています。
増上寺の墓所の碑文では、事件の真相を究明しない日本政府の姿勢を問い、戦争の悲惨さと空しさを訴え、中国の好意への感謝を表明しています。
碑の両側に遭難者2070名の氏名が刻まれています。ぎっしりと並ぶ名前に左右を囲まれてここに立つ時、私は生きて今ある者の責任と使命を改めて考えさせられます。
「犠牲者にむくいる道は」
53年前の敗戦まで、軍国主義体制の下で教育を受けて育ち、戦争を問い直す姿勢など全くなかった私たちも、戦後の歳月の中で歴史の事実を学び、聖戦と教えられた戦争の、残虐な加害の実態を知り心を抉られました。東洋平和のため、大東亜共栄圏建設のためなどと、美名の下に国家が戦争への道を進む時、犠牲になるのは、いつも戦争を望まない弱い立場の者であることを痛感させられました。
武力によって平和をかち取ることはできないことを過去の歴史が物語っています。
非業の死を遂げた戦没者たちは、決して戦争が美化され、「英霊」とたたえられることを望んではいない! 無残な死を通して彼らは今を生きる私たちに、2度と国内外に戦没者や遺族をつくらないように力を尽くせと語りかけている。
この声に耳をかたむけ、この課題に取り組んでいくことこそ、彼らへの、そしてアジアの2千万を越える戦争犠牲者への真の追悼であり、その死にこたえる道だと思います。
月刊「ジュ・パンス」1999年1月より

孫が神風特攻隊で亡くなった祖父の軌跡を求めるお話です。
戦争体験者は、是非、戦争と自分のことを記録として残してほしいです。ノリコ
この言葉は本当だとしみじみ理解できます。
ボルネオに出発する前に東京にいたわずかな間に本を探し求めた伯父。
その本だけが全部帰ってきた台北のおうち。
その後、228が起こりたくさんの人が虐殺されてしまった街に権力者の喜びの建物が残っていますね。
台湾の歴史の大きな渦や小さな出来事を感じながら、 さて70代は移住できていますかしら ?? マサコ