大手拓次ファンへの手紙 by マサコ |
日本の失業者が365万人を越え、ヨーロッパでは3人にひとりが失業の恐怖にさらされていると聞きます。
そのことと自室で静かに拓次の詩を読むことに何かつながりがあるのだろうか?と考えてしまいます。
お話は変わって、大手拓次研究会で彼の詩の世界について講演をなさった詩人の吉増剛造さんが、11月11日NHKテレビの「日めくり万葉集」で、解説をなさいました。
和銅4年に淀川沿いの姫島で恐らく餓死したであろう乙女の屍を見て悲しみ合われんで詠まれた歌
みつみつし
久米の若子(わくご)が
い触れけむ
磯の草根の
枯れまく惜しも
河辺宮人
共感覚的解釈の氏の才能の豊かさに敬服しました。
詳しくはNHK「日めくり万葉集」2009年11月号、35~37頁。
原子朗先生のお話によりますと原先生編集の大手拓次詩集(岩波文庫)は第4刷になったとのことです。
私は今秋、この詩風で、今まで読み切れなかった「風の言葉」の作品に心を打たれました。
2009年11月29日安中市のふるさと学習館で、この詩が朗読されることを「花野」というニューズレターで知り、偶然に嬉しくなりました。
(以上、手紙)
大手作品は、好きな人とそうでない人にはっきり分かれる。
それはなぜなのか?
100人が100人全部同じように理解される「風」「匂い」ではないからか?
あてがいぶちの、決まり切った、お仕着せの作品ではない。
受け取った側が、どうするか?みたいな波状を感じる。
というわけで一生かかっても大手拓次はわかることのできない詩人だと思う。
わからなくてもただ、こんなに愛せる人が作品をたくさん残して下さったことが幸せ。
(以上、ひとりごと)
風の言葉
こは白らの影を帝王切開するの歌にして
無限の実在たる神の意識へ昇華せむとする
わが最初にして最後の里程標なり
秋の日は 眼をとち”、
風は みえがくれに わたしの心を追ってきたのだ。
風は ながれの枝をふりかざして、
うなだれた わたしの心を むちうつのだ。
風は みづにおぼれた銀色の言葉をもつて、
ゆれてゐる わたしの心を さそふのだ。
風は おちちる ひとひらの木の葉をもって、
地にふしてゐる わたしの心に よりそふのだ。
しろざめて すぎゆく風は
そのおとづれもなく ひかりのはねにかくれて、
わたしの さだめない心の月を おびやかす。
風は 微笑の丘をきずつけて めぐり、
うつうつとした うまれない花の幻を うばふのだ。
風は ところもあらず しろいかげをよびかはし、
まよひゆく ひとみのやうな大空をゑがくのだ。
風は とぎれとぎれに はなれゆき、
すがたもない 心のたそがれを みおくるのだ。
風の脚は くさのあひだに いざよひ、
また みづのおもてに 眠り、
はつるところなく その波立てる小径をあゆみ、
うすぐもる 黄金の鐘を 鳴らすのだ。